一兄は表情をすっと消して、ただ片眉をわずかに吊り上げた。
そこからは何を考えているのかは、読み取れない。

「奥宮にいた、………あの人は、何」

もう一度、もっとはっきりと問う。
逃げていても、仕方ないんだ。
不安も恐れも、全てなくなってはくれない。
見ないようにしても、事実はそこにある。
逃げても、逃げきれない。
それは追いかけてきて、俺を捕える。

「………奥宮にいた、ではない。あの方が奥宮だ」

一兄はそっと目を伏せて、静かにそう言った。

「あの人が、奥宮?」

宮守の家の奥深くにある、奥宮。
触れてはいけないと言われている神域。
宮守の祀る神はあそこにいると聞いている。
当主しか立ち入りの許されない場所。
俺が知っているのは、それだけだ。

「奥宮とは、社のことではない。社に祀られてる存在を指す」

そうか、あの場所が奥宮ではないのだ。
奥宮がいるから、そう呼ばれるようになったのか。
そして、あの人が、奥宮。
そういえば、先宮は、父さんのことで、人を指す。
奥宮が人だったからといって、不思議じゃない。

「祀られている、存在」
「そうだ。宮守が宮守であるために必要な、何よりも大切な存在だ」

宮守が祀る、神。
あれが、神なのか。
深く莫大な闇を孕み、闇に同化し、生きながら食われ続ける、あの存在が、神、なのか。
あの、恐ろしく哀れで、汚い、化け物が。

「あれは、あの人は」
「四天から聞いたか?」

何を聞いたというのだろう。
言葉の意味がよくわからなくて、いつの間にか俯いていた顔を上げる。
一兄はまっすぐに俺を見つめていた。

「………」
「あの方は二葉叔母だ」

会ったことのない、叔母さん。
俺が生まれてすぐに亡くなったと聞いていた。
それは、嘘だったのか。
生きていたのか。
でも、あれは、生きていると言えるのか。

「祀ってるって、なんで、だって、あれは、あんな、ひどい」

あんな、恐ろしい、残酷な方法で、なぜ囚われているんだ。
想像も出来ない苦痛を与えられ、殺してと懇願し、それでも死ぬことすら許されない。
あんなの、ない。

「宮守には他の地と比べ、土地の大きさに比例する捨邪地がない。それは知っているな」
「………」

捨邪地は管理する土地の大きさに、だいたい比例している。
宮守のように、人が多ければ余計にだ。
小さな捨邪地は、点在している。
でも、他の管理者の土地に比べて、小さすぎると不思議に思ったことは覚えている。
裏ワザがあるんだよ、と言ったのは、天だったっけ。

「それは奥宮がおわすおかげだ」

宮守の裏ワザ。
それが、奥宮。
四天は、全部知っていたのか。

「宮守の地の邪は、そのほとんどを奥宮が受け止め、処理してくれている。他の地に比べ繁栄が大きく、しかし土地の犠牲は少ない。奥宮の存在で宮守の地は清浄に保てている」

管理地は広く、繁栄も大きい。
他家と比べて、力を持つ家であることは知っていた。
宮守の土地がこれほどに安定しているのは、あの奥宮の存在の、おかげなのか。
あの、闇そのものの存在。

「生きた、捨邪地」
「………そうだな」

俺の言葉に、一兄は眉を顰めて少しだけためらい、しかし頷いた。
肯定されて、燻っていた感情が、溢れだす。
俯いて、布団を握り締める。

熱を持つ頭がぐらぐらぐらぐらする。
頭が痛い。
眩暈がする。

「なんで!あれは、あんなのはっ!あれじゃっ!」

あんな残酷で、あんな恐ろしく、あんな醜い。

「二葉叔母さんは、ご自身が納得の上、希望し、奥宮となられた」

叫んだ俺とは裏腹に、一兄の声は憎たらしくなるほどに冷静だった。
俺の感情を抑えるように、淡々と告げる。

「自分の存在でこの地が救えるなら、それで構わないと、身を捧げてくださった」
「そ、んな………」
「優しくて朗らかな、とても尊い方だった」

一兄の声には、切なげな、温かみのようなものがあった。
二葉叔母さんへの尊敬のようなものが伝わってくる。

「納得って………」

でも、あの人は殺してって言ってた。
もういやだって言ってた。
もし本当に覚悟していたとしても、今はもう、ただ苦しみもがくだけの存在だ。
その時の覚悟なんて、消えてしまっているんじゃないか。
ああ、だから、なれの果て、なのか。

「俺も………」

唇をかみしめる。
渇いた喉が、また張り付く感じがする。

聞きたくない。
でも、聞かないと怖い。
聞いても聞かなくても怖い。
全てが壊れてしまう。

「………俺も、あれに、奥宮に、なるの?」

でももうきっと、壊れている。
だったら、聞かなきゃ、終わりも始まりも、ない。

「………」

顔をあげて、一兄を見つめる。
長兄は一切の表情を消し、俺をただ見ていた。

「一兄っ」

手を伸ばして、一兄の腕をつかむ。
この腕は、俺を守ってくれるものだった。
俺を抱きしめてくれるものだった。
でも、もう、違うのだろうか。

「次代の奥宮の候補の一人では、ある」
「っ」

一兄は表情を変えないまで、そう言った。
予想していたのに、衝撃で言葉が出なくなる。
頭が、痛い。

「だが、二葉叔母が奥宮に立たれてから、まだ15年だ。通常奥宮は一代で20年から40年ほどになる。まだ、次代の奥宮を決める時期ではない」

15年。
15年も、あの人はあそこに囚われているのか。
恐ろしさに、全身が総毛立つ。

「なんで、言って、くれなかったの」

ずっと俺を騙していたのか。
俺は、アレになるための、生贄だったのか。
そこで、ようやく、ふさわしい言葉が思い至る。

そうだ。
あれは、生贄だ。
雛子ちゃん、祐樹さん、順子ちゃん。
今まで出会ってきた人たちの顔が、脳裏に浮かぶ。

「隠していたわけではない。いずれ、話そうとは思っていた」

一兄がようやく、表情を見せる。
苦しげに眉を顰めて、笑いたいような泣きたいような、複雑な苦笑の形に顔を歪める。

「………だが、こんなこと言っても、信じてもらえないよな」

全てを隠して、俺を騙して、いずれ奥宮としようとしていたのか。
今まで守ってきてくれたのも、抱きしめてくれたのも、導いてくれたのも、全て嘘だったのか。
怖くて寒くて、体が震えてくる。

「すまない。お前を苦しめたかったわけじゃないんだ」

一兄が腕をつかんだままだった俺の手をとって、ぎゅっと握る。
大きな手に触れられて、怖くなってビクリと大きく震えてしまった。
ずっと、好きだった手だったのに。
この手に宥められて、守られて、頭を撫でてもらうのが、何より好きだったのに。

「言い訳だが、苦しめたくないから、言えなかった」

俺が怯えているのに気付いているだろうに、一兄は手を離さない。
両手で俺を手を包み込み、懺悔するように額に当てる。

「お前は、邪を引き寄せ、魅入られ、全てを飲み込む才能がある。それは、誰もが認めるところだ。だから、奥宮としての資質があることは、分かっていた」

ずっと忌み嫌ってきた体質。
魔を引き寄せ翻弄され、そのたびに家族に迷惑をかけてきた。
一人で何もできない苦しさを、味わってきた。

「だが、そんなこと、言えなかった。怯えながら、生きてほしくはなかった」

頭の中がぐちゃぐちゃだ。
言ってほしかった。
騙してほしくなんかなかった。
でも、確かに言われてたら、俺はどうなっていただろう。
怯えて、逃げて、絶望していた。
でも、今も絶望している。

あんなのに、なりたくない。
みんな、俺を、騙していた。

「………俺が、俺が奥宮になるしか、ないの?」

嫌だ。
そんなの、嫌だ。
一兄は俺の手にそっと口づける。

「お前の他にも、候補はいる」

それなら、俺が、ならなくてもいいんじゃないか。
俺は、あんな苦しみを味わなくて済む。
俺は、今まで通り、日常を過ごせる。
未来を、夢見ていられる。

「それなら………」

喜びかけて、気づく。
俺が奥宮にならない。
他にも候補がいる。
それはつまり、他の誰かを、奥宮とする、ということだ。
あの苦痛の中に、叩き落とすという、ことだ。

「………奥宮が、いなかったら、どうなるの?」

誰もならなければいい。
あんなの、いらない。
あんな怖いの、いらない。

「捨邪地が乱れた地がどうなるかは、知っているだろう?」

けれど一兄は、顔をあげて俺の目を真っ直ぐに見つめる。
捨邪地が乱れれば、悪意が増幅され争いが増え人死が増え荒れた土地になる。
住んでる人間へ、災いをもたらす。
下手すれば、土地全体が、闇に囚われる。

「宮守が管理する地が、全て荒れることになる」
「あ………」
「お前の学校も、お前の友人たちが住む場所も」

学校。
岡野、藤吉、槇、佐藤。
優しい友人たちの顔が、浮かぶ。
あの人たちにも、災いが降りかかるかもしれない。
あの温かい人たちが、犠牲になるかもしれない。

「………っ」

そんなの嫌だ。
でも奥宮になるのなんて嫌だ。
他の誰かがなればいい。
でもそんなの知ったら、平静でなんていられない。

「やだ、やだっ」

俺が奥宮になるのは、嫌だ。
でも、他の誰かがなるのも嫌だ。
誰も犠牲になんて、したくない。
あんな苦しい思いしたくない、させたくない。
でも、岡野達に災いが降りかかるのなんて、絶対嫌だ。

「やだ、怖い!そんなの、やだ!嫌だ!嫌だ!嘘だ!怖い!!」

どうしたらいい。
どうすればいい。
嫌だ。
何もかも嫌だ。
こんな怖いことは、嫌だ。

「怖い、嫌だ。嘘だ、嫌だ!嘘、嘘だ、嘘だ!」
「三薙」

こんなの嘘だって言ってくれ。
こんなの嫌だ。
ただ俺は、みんなといたいだけだ。
これまでのように、一兄たちと、岡野達と、ただ毎日を過ごしたいだけなのに。

「三薙、落ち着いてくれ。三薙」
「や、だっ!!やだ!」

一兄の手を振り払うと、激しい動きに眩暈がして体が傾ぐ。

「三薙」

けれど倒れて壁に頭を打つ前に、一兄の大きな手に支えられた。
そのままそっと、広い胸に顔を押し当てられる。
涙が溢れてきて、止まらない。

「い、やだ」

黒くてどろどろした感情が、全身を包む。
怖い、嫌だ、こんなのは嫌だ。

「まだ決まっていない。当代奥宮が、まだおわす。まだ、考えなくていい」

まだ、ということは、いずれ考えなくてはいけないということだ。
俺が生贄になるという選択肢は、消えないということだ。
いずれ、俺は、あの闇に食われる。

「やだやだやだ!やだ!」
「………」

俺を抱きしめる力が強くなる。
一兄のお香の匂いは、いつだって安心できるものだったのに。

「………やだ………」

皆、俺を騙していた。
奥宮になんてなりたくない。
でも、他の人に押し付けて、のうのうと生きていけるだろうか。
でも、怖いから嫌だ。
でも、岡野達に災いがあるのは嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。

「お前に、そんな力さえ、なければ………」

一兄が、苦しげに吐き捨てる。
強く強く、俺を抱きしめてくれる。

「ちか、ら」

力。
俺には、力なんてなかった。
ずっと、俺にはなんの力もなかった。
そんなものなかったのに。
俺は無力の役立たずで、人に迷惑をかけるだけのお荷物だったのに。
ああ、そういえば。

俺は今初めて、俺の力を必要とされているのか。





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