結局熱が下がらず、二日間学校を休んでしまった。 明日は休みだから、学校には四日間行かないことになる。 熱が下がらないせいで、眩暈がして、頭痛がする。 何も考えたくない。 何も考えずに、眠りたい。 でも、眠っても、怖い夢を見てすぐ起きてしまう。 一兄が傍にいてくれたけど、不安は消えない。 学校へ、行きたい。 皆の顔が見たい。 日常を感じたい。 ここにいたら、頭がおかしくなってしまいそうだ。 「三薙さん、お客様です」 「え………」 午後になって、杉田さんが来客を告げた。 感情の起伏があまり見えない人だが、今は少し顔をほころばせているようだ。 「以前いらしたご友人の方たちです。一矢さんから許可をいただいたので、お通しいたしますが、大丈夫ですか?」 突然の出来事に、けれど何も考えずにすぐに頷いていた。 皆の顔が見える、そう思っただけで、気分が浮上していた。 「あ、はい!」 慌てて半身を起して、乱れた服と頭を直す。 そうしてしばらくして、部屋の中に賑やかな声が響く。 「やほー」 「大丈夫か、三薙?」 「………」 「こんにちは、宮守君。具合悪いときにごめんね」 佐藤と藤吉と岡野と槇が、口々に挨拶を口にしながら入ってくる。 変わらないみんなの顔を見ただけで、全身から力が抜けていく。 涙が出てきそうになる。 日常。 俺がずっと、欲しかったもの。 ずっと焦がれていたもの。 やっと、手に入れたもの。 「大丈夫か?」 黙り込んでしまった俺に、藤吉が心配そうに顔を曇らせる。 駄目だ、しっかりしろ。 ここで泣いたりなんてしたら、心配させる。 慌てて首を横にふって、笑って見せる。 「うん、熱は、だいぶ下がったから。あ、風邪うつるかも………」 「すぐ帰るから大丈夫。様子見たかっただけだから」 藤吉の太陽みたいな朗らかな笑顔に、胸がぎゅうっと痛くなる。 変わらない、この人たちは、何も変わらない。 壊れてしまった世界の中で、ここだけは、変わらない。 「はい、お土産。チエチョイスのプリンでーす」 「あ、ありがと」 「お土産じゃなくて、お見舞いでしょ」 佐藤が明るくケーキのケースを差し出す。 槇が苦笑しながら、たしなめる。 そんなやりとりにも、今にも泣いてしまいそうだ。 でも、泣いたら、日常が壊れてしまいそうで、怖い。 ここだけは、なくしたくない。 「プリン、食べられる?」 佐藤がちょっと心配そうに首を傾げる。 食欲はまだあまりないが、プリンなら食べられそうだ。 「うん。平気」 「じゃあ、皆で食べてから帰ろうか。チエも塾あるし」 そういいながら、プリンを取り出してみんなに配り始める。 みんな、受験生で忙しいのに、時間を割いてくれたんだ。 優しくて、みんないい奴だ。 「あ、時間、みんな、大丈夫?」 「平気平気!」 「千津が言うことじゃないでしょ。まあ、平気だけど」 佐藤の明るさは、いつも俺まで明るい気分にさせてくれる。 この明るさに、憧れていた。 「ありがとう」 プリンを配り終えて食べ始めると、杉田さんがお茶を持ってきてくれた。 輪になって、ささやかなお茶会が始まる。 槇が選んでくれたプリンは、カスタードがなめらかで、甘いけれどくどくなくてすごくおいしかった。 皆で食べると、なんでこんなにおいしんだろう。 「おいしいな」 「ほんと、槇セレクトは外れないよな」 「ありがとう。気に入ってくれたならよかった」 槇がにこにこ笑っている。 おっとりとしたこの女の子の穏やかさと、意外な強さに、支えられている。 「今度ケーキ食べに行こうよ」 「だから私たち受験生だよ、千津」 「少しくらいいいってー」 「少しくらいが多すぎるよな、俺ら」 プリンを食べてしばらくして、そんな風に他愛のない話をする。 その益体もない会話が、何より尊く感じて、嬉しい。 この輪の中にいるのが、嬉しい。 「………大丈夫なの?」 「あ、う、うん」 部屋に入ってからまったく口を開かなかった岡野が不機嫌そうに、低い声で聞いてくる。 気にしていた分だけ、驚いて一瞬遅れてしまったが、慌てて頷く。 「週明けには、学校、行けると思うから」 「………だったら、いいけど」 そっぽをむいて、吐き捨てるように言う。 前は怒っているのかとどきどきしたが、これは別に怒ってないって知ってる。 心配してくれてるんだって、分かってる。 「さて、プリンも食べたしそろそろ帰ろうか」 「そだねー」 「じゃ、三薙、またな」 「うん、ありがとう。来てくれて、ありがとう」 もう帰ってしまうのかと落胆の気持ちを、なんとか押し殺す。 皆忙しいのに来てくれたんだ。 それを、感謝しなくちゃ。 最後に出ていこうとした岡野が、ふと立ち止まる。 「………岡野?」 岡野が、ドアを閉めて、振り返る。 やっぱり、不機嫌そうに眉を吊り上げている。 「岡野、どうしたの?」 「………早く、治せよ」 「あ、うん」 そんなぶっきらぼうないたわりの言葉に、頬が緩む。 優しくて、強い女の子。 俺にも強さをくれる、眩しい、愛しい、岡野。 「なんか、また悩んでるの?」 岡野はドアの前に立ったまま、聞いてきた。 虚を突かれて、一瞬言葉を失う。 「え、そんなこと」 「誤魔化すなよ」 そんなことないと言おうとしたが、それは遮られてしまった。 思わず苦笑が漏れてしまう。 「………岡野は、鋭いな」 「あんたが分かりやすぎるの」 確かに俺は嘘がうまくない。 でも、みんなの前ではうまく演技をしたつもりだったのに。 「弟のこと?家のこと?」 「………ほんと、鋭いな」 「あんたが分かりやすすぎる」 確かに俺が悩むとしたら、天と家のことぐらいだった。 こんなことに悩むことになるなんて、思わなかったけど。 今まで悩んできたことが、ちっぽけにすら感じる。 「そうだな、家のこと、かな」 岡野はきゅっと唇をかんで、わずかに目を伏せる。 「あんたの家のことは、私にはよく分からないから、何も言えないけど」 俺にだって、分からない。 なんでこんなことになったのか、分からない。 何も、分からない。 「でも、一矢さんも双馬さんも四天君も、あんたこと心配してるでしょ」 「う、ん」 「あんたには、頼れる人がいるんだから」 一兄も双兄も天も、俺を心配している。 心配しているのか。 でも、あの人たちは知っていた。 俺が、奥宮になるかもしれないことを知っていた。 本当に、心配していたのか? でも、俺を心配していたから、言わなかったのか? 分からない分からない分からない。 「………ら」 また思考が混乱してきて、ぐちゃぐちゃになってくる。 振り払うように、何かを言った岡野に視線を送る。 「岡野?」 「………から」 岡野は俯いたまま、小さな消え入りそうな声でもう一度繰り返す。 「えっと、ごめん、聞こえなかった」 「わ、私も、す、少しは心配、してるからっ」 「え」 俺の言葉にかぶせるように、怒鳴りつけるように言われる。 顔を上げて、きっと鋭い視線でまるで挑むように睨みつけてくる。 「あ、あんたが、何をしても、私はあんたのこと、嫌ったりしないから!だから、そんなうじうじ悩むな!」 岡野の耳は真っ赤になっている。 顔も、赤くなっている。 驚いて口を開いたままの間抜けな顔をしているであろう俺から視線を逸らして、岡野が振り返る。 「じゃ、じゃあ、私帰るから!」 「岡野!」 ドアノブに手をかけた岡野を追いかけようとして、手を伸ばす。 慌てすぎて、足がもつれて、ベッドから転げ落ちた。 「ちょ、何やってんだよ」 ドタッと大きな音を立てた俺に気づいて、岡野が駆け寄ってくる。 俺の腕に手を添えて、立たせようとしてくれる。 その細く小さな華奢な手を、ぎゅっと握りしめる。 「なっ」 「岡野、ちょっとだけ、このままでいさせて」 「は?」 「お願い」 岡野は顔を真っ赤にしたまま、何も言わずにそのままでいてくれた。 温かく、強く、でも柔らかくて小さな、壊れそうな手。 いつだって強さをくれる。 いつだって温かさをくれる。 「………あったかい」 「あんたの方が、熱い」 愛しい愛しい愛しい愛しい。 愛しさが、胸に溢れそうだ。 この手を守りたい。 この手とずっと一緒にいたい。 岡野とずっと一緒にいたい。 岡野を守りたい。 「………ありがとう、岡野」 「な、なんだよ」 「俺、岡野と会えてよかった」 俺は今までずっと守られる立場だった。 周りには俺より強い人たちばっかりだった。 こんなに守りたいと思える人を出会えたことが嬉しい。 俺は非力だけど、それでも、守りたい。 守りたいって思える存在が、嬉しい。 「な、なにを大げさなこと言ってんのよ!」 でも、俺が奥宮にならなかったとしても、岡野とずっと一緒になんていられない。 岡野はいずれ、誰か素敵な人を見つけて結ばれるだろう。 そうしたら一緒になんていられない。 俺ではない誰かに、岡野は守ってもらっていくのだろう。 「あんた熱があるんでしょ。とっとと寝ろ!さっさと治して学校に来い!」 「うん」 「ほら、立って」 手が離れて行って、寂しい。 無理やりベッドに押し込められて、布団に入れられて、頭をそっと撫でられる。 それが、気持ちよくて、目をつぶる。 愛しい、嬉しい、寂しい、切ない、苦しい。 愛しい。 「待ってるからな!」 最後にまるで捨て台詞のようにいって、岡野は足音荒く去って行った。 泣いてしまいそうだ。 苦しい。 苦しい苦しい苦しい。 岡野とずっと一緒にいたい。 岡野をずっと守りたい。 でもそんなことは出来ない。 だったら、俺にできることは、なんなのだろう。 トントン。 涙が今にも溢れそうになったときに、ドアがノックされた。 岡野が帰ってきたのかと思って、慌てて身を起こす。 「は、はい?」 「ごめん、三薙いい?」 「え、誠司?どうぞ」 帰ってきたのは、予想していたものではない男の声。 でも、とても大事な友人の声。 「ごめんな」 「誠司、どうしたの?」 「お見舞い、渡し忘れ」 「え、ありがと」 藤吉は学校のバッグの中から、紙袋を取り出す。 受け取って中身を確かめると、それは煽情的なポーズをとる半裸の女性が描かれた雑誌だった。 風邪の熱とは違った意味で、頭に血が上る。 悩みも一瞬吹き飛んでしまう。 「ちょ、な、何持ってきてんだよ!」 「まあ、熱が下がってから使ってよ」 「アホか!」 頭がぐらぐらしてきた。 双兄がそういうのをくれることはあるが、藤吉とそんな会話をすることはあまりない。 いったい何を考えているんだ。 藤吉は慌てる俺がおかしいのかくすくす笑いながら、もう一つバッグから取り出した。 今度はシンプルなルーズリーフのノートだった。 「こっちはおまけ。ノート取っておいたから」 「あ、ありがと。助かる」 ていうかこっちが本命だろう。 何を考えてるんだ。 いや、あっちが嬉しくないわけではないわけではないんだけれど。 「それで、何か悩んでる?」 「え」 ノートと紙袋を見比べながら唸っていると、不意に何でもないように聞かれた。 顔を上げると、藤吉が心配そうに笑っていた。 「暗い顔してるけど」 「………俺ってそんな、分かりやすいかな。岡野にも言われた」 「割とね。俺はまあ、付き合いも長いし」 そういえば藤吉とはもう、結構長い付き合いだ。 本当に友人になれたのは、この1年ぐらいだけれど。 こんなに長く、傍にいてくれたんだ。 「岡野とは、そんな付き合い長くないのに」 「岡野は、三薙を見てるから」 そんなに心配してくれているのか。 そう思うと、胸が温かくなる。 岡野も藤吉も、みんな優しい。 俺は、そんな彼らに何が返せるんだろう。 「聞いても、何も言えないと思うけど、言ってみる?」 そういえば色々と、藤吉には聞いてもらっていたっけ。 聞いてもらうだけで、心は軽くなる。 例え、答えはもらえなくても、少しだけ軽くなる。 「………いいかな」 「どうぞ。いくらでも」 快く頷いてくれる藤吉に、甘えてしまうことにする。 こんなの藤吉に言っても仕方のないことだって、知ってるのに。 「………俺、弱いって、言ってただろ」 「うん。力が、家族の中で弱いんだっけ」 「うん。弱くて、人に迷惑かけるだけで、何もできなくて、役立たずで、辛かった」 何もできない。 何も生み出せない。 何も為せない。 「ずっとずっと、嫌だった。自分の弱さが、大嫌いだった」 みそっかすな、人に迷惑をかけるだけの存在。 家族にしがみついて、辛うじて生きている存在。 「でも、ようやく、俺が、役に立てるかも、しれないんだ」 でも、そんな俺が、力を必要とされた。 初めて、必要とされた。 それがどんな形であろうと、必要とされたんだ。 「そうなんだ。よかったじゃん」 「………うん。でも、怖いんだ。俺の力が役に立つかもしれない。でも、怖くて、逃げ出したいんだ」 「………怖いことなの?」 藤吉が心配そうに眉を顰める。 「………うん」 役に立てることが出来たのに、それは酷く恐ろしいものだった。 皆のためになることなら、なんだってしたいって思ってたのに、そんなの嘘だった。 怖くて怖くて怖くて、逃げ出したい。 何もなかったことにしたい。 二葉叔母さんのように、自ら身を投じるなんてこと、できやしない。 「怖くて、やっぱり、嫌なんだ。でも、役には立ちたいんだ」 「………」 でも、役に立てると知った時、少しだけ心が動いた。 俺が必要だと言ってくれるのは、初めてだった。 「どうしたら、いいんだろう」 「…………やっぱり聞いても、何も言えないな。ごめん」 藤吉は困ったように、苦笑した。 そんなの、分かってた。 むしろ答えられてもびっくりするだろう。 「ううん、そんなの当たり前だ。聞いてくれてありがとう」 でも、聞いてくれるだけでもよかった。 心配してくれて、悩みを聞いてくれる友達がいるってだけで、心強い。 それだけでも、いい。 「とりあえず今はあまり考え込まないで、ぐっすり眠って体を休めなよ。熱が出てる時に考えてもいい考え浮かばないだろうし」 「………うん」 そうだ。 今は考えても仕方ない。 まだまだ猶予はあるって言ってた。 考える時間はあるんだ。 考える時間があるのも、辛いのだけど。 「三薙はちょっと考えすぎるところあるから、たまには頭休めてやれよ」 「ありがと」 休めたい。 ぐっすりと眠って、何もかも忘れたい。 もう、何も考えたくない。 「どちらにせよ、後悔しないようにな」 「………後悔」 「なんて、エラそうに言える立場じゃないけどな」 藤吉が笑って、肩を竦める。 後悔、か。 「じゃあ、おやすみ」 「………おやすみ」 俺にとって後悔とはなんなのだろう。 奥宮になることと、ならないこと。 どちらが俺にとっての、後悔になるのだろう。 |