長い廊下の曲がり角で、じっと座り込んで息をひそめる。

「三薙、四天、どこだー」

一矢お兄ちゃんの声が聞こえる。
近づいてくる声に、わくわくして、ドキドキして、胸がはちきれそうだ。
隣にいる四天にも、もう一度言い聞かせる。

「静かにね、四天」
「うん、しーだね」
「うん」

四天も指を一本立てて、しーっとして見せる。
楽しげに笑う弟がかわいくて、頭を撫でる。

「三薙、四天」

一矢お兄ちゃんの声が近づいてくる。
どのタイミングで飛び出そうかと考える。
もう後ちょっと近づいたら、飛び出そう。

「あ、いた。兄貴こっちにいるぞ!」
「わ」
「わあ!」

しかしその前に、いつのまにか反対方向から来ていた双馬お兄ちゃんが声を上げる。
びっくりして、四天と一緒にその場で飛び上がる。

「なんだそこにいたのか」

一矢お兄ちゃんの声が響いて、曲がり角からひょいっと顔をのぞかせる。
それで、僕と四天の計画は全部パーになってしまった。

「双馬お兄ちゃん、教えちゃ駄目なのに!」
「一矢おにいちゃん、びっくりさせるのに」
「はあ?」

僕と四天の抗議に、双馬お兄ちゃんが不機嫌そうに眉を顰める。
でも、せっかくの計画が台無しになった僕と四天も怒ってる。

「もう、双馬お兄ちゃんの馬鹿!」
「ばかー」

四天がポカポカと双馬お兄ちゃんを叩くと、お兄ちゃんが怒ってその小さな体を持ち上げて振り回す。

「四天まで生意気だな、こら!うおら!」
「きゃあ!」
「あ、四天をいじめたらダメ!」

弟を助けようと手を伸ばすが、背の高い双馬お兄ちゃんには届かない。
飛び跳ねても双馬お兄ちゃんが背伸びをするからもっと遠ざかる。

「だめー!!」
「三薙おにいちゃん!」

四天もじたばたとその手から離れようとする。
意地悪をする双馬お兄ちゃんを止めたのは一矢お兄ちゃんだった。

「ほら、喧嘩するな。双馬も落ち着け。なんだ二人は、俺をびっくりさせようとしてたのか?」

双馬お兄ちゃんの手から四天を取り返して、そっと廊下に下す。
四天は走ってきて、僕の後ろに隠れた。

「そう、隠れてね、ばあってするんだったの」
「なのに、双馬おにいちゃん、だめなの」

一矢お兄ちゃんは笑いながらしゃがんで、僕たちの目線に合わせる。
そしてその両手で、僕たちの頭を撫でてくれた。

「十分びっくりしたよ。あんまり驚かさないでくれ」

そして隣で頬を膨らませていた双馬お兄ちゃんにも笑いかける。

「双馬。お前も見つけてくれてありがとな」
「ったく。なんか損した気分なんだけど」
「ほら、双馬もお前たちを探してたんだ。お礼を言いなさい」

一矢お兄ちゃんが、頭をぽんぽんと撫でながら、優しい声で言う。
僕と四天は顔を見合わせる。

「お礼?」
「そう。見かけないから心配してたんだ。三薙、四天、いい子だからお礼を言えるな」

ちらりと見上げると、双馬お兄ちゃんはつまらなそうにそっぽを向いていた。
僕たちがかくれんぼをしていたから、心配していたのか。
それなのに、怒ってしまったら、双馬お兄ちゃんが可哀そうだ。
僕は悪いことをした。

「ごめんなさい、双馬お兄ちゃん。ありがとう」
「ありがとう」

僕の後に続いて、四天もぺこりと頭を下げる。
すると双馬お兄ちゃんは、少しだけ笑う。

「ま、いいけど」

ちゃんとお礼を言うと、一矢お兄ちゃんはにっこりと笑う。

「よし、みんないい子だ。ほらおいで、母さんが呼んでいる」
「はい」
「はあいー」

そしてみんなで手をつないで、笑いながら廊下を歩いた。



***




頭が、痛い。
ガンガンする。
体もなぜか軋む。
痛い。
痛い痛い痛い。
痛い。

「あ………」

痛みに我慢できなくなって目を開く。
目に入ってきたのは、見覚えのある天井。
嗅いだことのある匂い。

「………ここ、は」

なんとか体を起こして、辺りを見渡す。
確か、つい最近、来たばっかりの部屋だ。
まだ新しい木でできた天井。
十二畳ほどの和室で、俺は布団の上で寝ている。

「離れの、部屋、か」

なんでこんなところにいるんだっけ。
ちゃんと浴衣を着て寝ている。
昨夜は、儀式の日だったっけ。
だから、体が痛いのか。
頭も痛む。
昨日は、四天と、儀式だった?
それとも、一兄?
二人は、どこにいった。

「………」

いや、違う。
儀式はこの前、四天とした。
それで。
学校は、休みだった。
それで、何があった。

父さんに会って。
父さんから奥宮の匂いがして。

「あ…………」

そして、奥宮と先宮が、つながってるって知って。
それで、儀式はなんのためにあるのかと考えて。
そしてそしてそして。

「あ、あ、あ、あああああああああああああ!」

自分でも気が付かないうちに、声が出ていた。
喉が破けるほどに、声を吐き出し、叫ぶ。
頭を掻き回し、喉を掻き毟り、体中を掻き毟り、自分の中の恐怖を吐き出すように、叫ぶ。

「うわああああああああああ、ああああああああああああああああああああああ、ああああああああ!!!」

栞ちゃんと五十鈴姉さんに電話して、確信して、逃げ出した。
そして、藤吉と、佐藤に会った。
二人に、会った。

「あああああああ、いやだいやだいやだいやだ!あああああああ、ああああああああ、うわああああああああああああああああああああああ」

白いマンション、終点に行く電車、寂れた駅。
帰ろうという佐藤、駅で待ち構えていた藤吉。

「あああああああ、あ!!」

思い出したくない思い出したくない思い出したくない思い出したくない思い出したくない。
これ以上は思い出したくない。
何も思い出したくない。
何もなかった。
何もなかった。
何もなかった。
あれは、夢だ。
きっと夢だ。
そんなわけない。

「あ、あ………」

叫びすぎて、喉が痛い。
血が溢れてきそうだ。
喉から、体中から、心から。
夢で、あってほしい。
あんなの、本当なんかじゃ、ない。

「なんで………、なんで、どうして、なんで、なんで、藤吉、佐藤、なんで」

こんなのおかしいおかしいおかしい。
何かがおかしい。
こんな世界知らない。
俺はこんな世界知らない。

「どう、して、なんで、なにが」

分からない。
何も分からない。
頬に爪を立ててひっかくと、痛みを感じる。
腕を掻き毟ると、皮が削れて血が滲む。
髪を引っ張ると、ぶちぶちと髪が抜ける。
痛い。
痛い痛い痛い。

なんで
これは夢じゃないのか。
夢じゃないのか。
どうして。
嘘だ。

カラカラカラ。

その時、玄関が開く音がした。
心臓が、跳ね上がる。

「っ」

布団から飛び出して、少しでも距離を置きたくて、部屋の奥に逃げる。
けれど、部屋は狭くて、大して逃げられない。
窓から、逃げ出すか。

「起きたか。体は大丈夫か?」

考えているうちに襖が開き、長兄の姿が現れる。
その表情はいつもと変わらず、穏やかですらある。

「三薙」

一歩部屋に入って、近づいてこようとする。
寒くもないのに全身がガタガタと震え、汗がじんわりと滲んでくる。

「………来ない、で」

絞り出すように告げると、喉がひりひりと痛んだ。
一兄は表情を変えないまま、その場でぴたりと足を止めた。

「いや、だ」

怖い怖い怖い怖い。
一兄が、怖い。
大好きな兄。
尊敬してやまない憧れの対象。
誰よりも頼れる長兄。

なのになぜこんなに、怖い。
どうして、こんなに怖い。

「すまない」

一兄は目を伏せて、それだけぽつりと言った。
すまないって、なんで。
なんで、一兄は謝ってるんだ。
何に対して謝ってるんだ。

「どうして………」

どれに対して、謝ってるんだ。

「………どうして、嘘を、ついたの?」

どの嘘について、謝ってるんだ。
一兄はまた視線を俺に戻して、じっと様子を伺うように見ている。
今度はその視線が怖くて、俺の方が目を逸らす。
じりじりと、また後ずさるが、すぐに壁に当たってしまう。

「どうして、一兄」

嘘。
どれが、嘘だったんだっけ。
どれが、俺は嫌だったんだっけ。

「俺は、奥宮になるって、決まってたの?最初、から?」

そう、奥宮になるのは、俺に決まっていた。
嘘をつかれた。
俺がならなくてもいいって言った。

「藤吉と、佐藤は………」

そして、二人の友人。
大事な、大事な、やっとできた友人。

「あの、二人は、どうして、どう、して」

ようやく仲良くなれたと思っていたのに。
大切な、信じられる、太陽のような友達。

「っ」

でも、あの二人は、俺を、この家に連れ戻した。
藤吉は、術を使っていた。
二人とも、俺の事情を知っているようだった。
そして俺に帰ろうといった。

「あの二人は、宮守の、関係者、なの?」
「………」

涙が、溢れてきた。
ぼろぼろぼろぼろと、自分の意志とは関係なく、溢れて頬を伝って浴衣に落ちる。
哀しい、切ない、怖い、苦しい。
どの感情、なのだろう。
分からない。
痛い。

「どうして、嘘、ついたの?どうして、どうしてどうしてどうしてっ」

みんなみんな、嘘だったのか。
藤吉と仲良くできたのも、佐藤や岡野や槇と友達になれたのも。
全部、嘘だったのか。

「なんで、嘘なんて………」

なんのための嘘。
誰のための嘘。
全部、俺を奥宮にするための、嘘だったのか。
嘘なんて、つかないでもよかったのに。
本当のことを話してくれれば、俺はきっと、納得できたのに。

「お前が奥宮にならない可能性もある。本当だ。今からでも、お前は奥宮にならなくても済む道もある」

一兄が俺を見下ろしたまま、静かに言った。
この前は信じられた言葉は、今は何も響いてこない。
この期に及んで嘘をつく一兄に、苛立ちすら感じる。

「嘘」

涙が、止まらない。
嘘は、もう、いらない。

「嘘、嘘、嘘、嘘ばっかり!一兄は嘘ばっかりだ!全部全部嘘!全部嘘!嘘だ!」

嘘に塗り固められた家。
信じていたものは、全部嘘だった。
一兄も双兄も四天も、藤吉も佐藤も、みんな大切なものだったのに。
俺の大事な世界だったのに。
全部全部嘘だ。

「本当だ」

一兄が一歩近づく。
逃げ出したくても、後ろは壁だ。
窓を開けて逃げるのは、ここからでは難しい。
怖くて、震えが止まらない。

「だが三薙、お前が逃げれば他の候補が奥宮になる。そして誰もならなければこの地は荒れる。それも、本当だ」
「………」

また、一兄が一歩近づく。
他の候補。
それは、本当なのか。
その存在は、本当にいるのか。
俺がならなければ、その候補が奥宮となる。

「………他の、奥宮候補って、栞ちゃんと、五十鈴姉さん?」

一兄は少しだけ眉をひそめてから、頷いた。

「ああ」
「………」

やっぱり、そうだったのか。
無邪気で可愛らしい従姉と、妹のように思ってる愛らしい遠縁の子。
そのどちらも、大切な人間だ。

「俺が、逃げたら、二人のどっちかが、アレに、なるの?」

俺が逃げれば、あの二人が犠牲になる。
答えは、半ば予想していた。
一兄は、表情を変えずに頷く。

「次は栞、そして栞で間に合わなければ五十鈴だ」
「間に合わないって………」

間に合わないって、なんだよ。
そんな、人を、使い捨ての道具みたいに、言うな。

「あの闇を受け入れるには、器が必要だ。大きな力を受け止める巨大な器が。素質を持った人間しか奥宮にはなれない。そして、その器が誰よりもお前が広く深く強い。宮守の歴代の奥宮候補の中でも稀有なほどだ」

稀有な存在。
その言葉に、胸がうずく。

俺のこの出来そこないの体には、意味があった。
空っぽの大きいだけの器。
力を生み出せず、ただ人の力を食らうだけの存在。
人に迷惑をかけるだけの俺でも、役に立てるのか。

「お前の力が、必要だ」

ずっと言われたかった言葉。
求めてやまなかった。
誰かに必要とされたかった。
役立たずな俺でも役に立ちたかった。

「お前が必要なんだ、三薙」

だったら、最初からそう言ってくれればよかった。
それなら、俺は、喜んで身を捧げただろう。

どうして嘘をついたんだ。
嘘なんていらなかった。
どうして、俺を裏切ったんだ。

「ねえ、共番の儀って、なんのために、するの?」

信じていた信じていた信じていた。
皆を、信じていたんだ。
皆が、大好きだったんだ。

「俺のためじゃ、ないんでしょ?」

どうして裏切ったの。
どうして嘘をついたの。

「全部、俺のためじゃ、ないんでしょ?一兄が優しくしてくれたのも、藤吉と佐藤が友達になってくれたのも、双兄や、四天が守ってくれたのも」

涙が止まらない。
体中の水分が、失われてしまいそうだ。

「全部全部、嘘だったんでしょ?」

俺を奥宮にするための、嘘だったのか。
そんな嘘をついて、なんの意味があったのかは、分からない。
でも、全て嘘だったことは分かる。

「だったら、優しくなんて、しなくてよかった!こんなことになるなら、友達なんて、いらなかった!」

痛い。
全部嘘なら、そんな嘘なんていらなかった。
優しくなんて、してほしくなかった。
全部失われてしまうなら、手に入れたくなんてなかった。

「嘘つき嘘つき!嘘つき!!!!」

口汚く罵るけれど、一兄は表情を変えることはない。
静かに、また近寄ってくる。

「来ないで!」
「いい子だ、三薙」

そして後一歩まで近づいたところで、しゃがみこむ。
伸ばされた大きな手が、俺の腕に触れる。

「触らないで!触るな!触るなよ!!」
「いい子だ」

振り払って叩いて身を引いて逃げようとするが、長い腕は俺を抱き寄せてしまう。
ぎゅっと抱きしめられると、一兄の匂いがして、胸がどうしようもなく痛くなる。

「………っ」
「いい子だ、三薙」

優しく頭を撫でられると、抵抗する力が失せていく。
小さい頃からこの腕に抱きしめられ、守られてきた。
頭を撫でるのも、怒りながら叩くのも、どちらもこの手だった。

「三薙は、俺や父さんや母さんの言うことをよく聞く、いい子だ」

一兄に褒められると、ふわふわして天にも昇る気持になる。
一兄に怒られると、地の底に突き落とされた気分になる。

「いい子の三薙を、誰も見捨てたりはしない」

幼いころからこの手に抱かれ、この手に叱られた。
父さんよりも母さんよりも、近しい手だった。
みそっかすの俺を、優しく厳しく導いてくれた人だ。
誰よりも尊敬する、大好きな兄。

「皆がお前に期待している。お前はいい子だから、皆がお前を愛している」

一兄に嫌われたら、と思うと目の前が真っ暗になって、深い穴に落ちて行くような気になる。
だから、俺はいい子でいなければいけない。
一兄に褒められるような、いい子でいようと、ずっと願い努力していた。

「三薙、いい子だ。今日は疲れただろう。眠るといい」

一兄が濡れそぼった俺の頬を包み込み、持ち上げる。
優しく笑う一兄の表情に、全身の力が抜けていく。
一兄に任せていれば、全部大丈夫なんだ。
そう、昔から信じてきた。

「あ………」

顔が近づいてきて、唇がそっと触れる。
大きな唇は俺の唇をすっぽりと覆ってしまう。
薄く開いた口のあわいから、舌が入り込んでくる。

「ん………」

何か、苦い丸いものが、舌と同時に口の中に入ってくる。
吐き出したいけれど、一兄の唇に阻まれて、それが出来ない。

「んっ、く」

舌で口の中を弄ばれるうちに、それを飲み込んでしまう。
それでも唇は離されず、しばらく抱きしめられたまま、舌を絡めあう。

「は………」

ようやく解放された頃には、酸欠になったようにぼうっとしていた。
一兄が俺を引き寄せるから、胸にもたれかかる形になる。
力が入らない。
何かをしなきゃ、いわなきゃと思うのだけれど、考えがまとまらず、体が動かない。

「愛してるよ、三薙。いい子だ」

大きな手が、優しい、大好きな手が、俺の頭を、背中を撫でる。
額に、温かい唇が触れる。

「ずっとお前の傍にいるよ」

そして、優しい優しい、泣いてしまいそうなほどに優しい声が、俺を包み込んだ。





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