窓の外の世界は、明るく照らされている。 春のうららかな暖かい日差しの下の緑は、鮮やかに生を謳歌している。 薄暗いこの部屋と外は、まるで別世界のようだ。 俺のいる場所は、どこまでも暗い。 「………やっぱり、破れない、か」 窓に置いていた手を離し、ため息をつく。 離れの周りには、ぴったりと膜で覆われるように結界が張ってある。 物理的に閉ざされている訳じゃないから、出ようと思ったら出れる。 だが、無理に出ようとすれば力を奪われ、耐えきれず倒れるだろう。 結界を突破したとしても、結局、逃げることはできない。 「綺麗な、結界」 失敗したのは、何度目だろう。 別に逃げたいわけじゃない。 逃げても、どうしようもない。 ただ、ここにいたくないだけだ。 それだけだ。 その後どこに行こうかなんて、考えてない。 でも、逃げられない。 結界の術式は、精密で、まるで美しい芸術品のように編み上げられている。 俺には結び目を見つけることなんて到底できない。 力が万全で、むしろ溢れかえりそうなほどに充実している今でも、破ることは出来ない。 相当力ある術者の、結界だ。 一兄の力でも、天の力でもない。 おそらく、藤吉のものでもない。 黒く輝く、美しいとすら言える結界。 「これは、父さんの力、か」 かすかに感じる奥宮の匂い。 この前感じた、父さんの、力の気配だ。 父さんの力を目の当たりにする機会はほとんどなかった。 普段目にする父は、そこまで強大な力を感じることはなかった。 だから、侮っていた。 「………先宮はこの地で、最強の術者、か」 そう言っていたのは、天だったっけ。 確かにこの術の緻密さも力の強さも、これまで見たことないほどだ。 父さん自ら作り上げたのだ、きっと。 俺を、閉じ込める檻を。 「………」 結界を破ろうとしていた神経がふっと、解かれる。 その場に、ずるずると座り込む。 疲れた。 とても、疲れた。 「どうして、こんなことに、なっちゃったんだろう」 ほんの少し前まで、温かい場所にいた。 悩みは多かった。 鬱々とずっと暮らしてきた。 でも、家族がいた。 だからどんなに学校で失敗しても傷ついても、大丈夫だった。 帰ったら、皆が待っていた。 この一年間で友達もできた。 共番の儀を執り行って、力も枯渇することはなくなった。 外に行けると思った。 もっと、広い世界を知れると思っていた。 未来を、夢見始めていた。 それに。 そう、それに。 「岡野………」 気の強さそうな吊り気味の大きな目が脳裏に浮かぶ。 感情がストレートで乱暴で優しくて頼りになって、可愛くて。 一緒にいると、胸が騒いで、嬉しくて、楽しくて、喜びでいっぱいになった。 彼女といるだけで楽しかった。 彼女といるだけで温かい気持ちになれた。 ただ傍にいるだけで、幸福だった。 「………っ」 岡野と、槇は、どうなのだろう。 あの二人も、俺を騙していたのだろうか。 嫌だ、そんなわけない。 あの二人が、俺を騙すはずがない。 違う違う違う。 あの二人だけは、違う。 嘘だらけの世界の中で、きっとあの二人だけは、違う。 「違う、違う、考えるな!」 見たくない。 もう嘘はいらない。 でも怖い真実ももういらない。 もうこれ以上、痛い思いはしたくない。 もう何も知りたくない。 もう何も見たくない。 自分が知っている世界だけ見ていたい。 「こんな風に、閉じ込めるなら、最初から、出さなきゃよかったのにっ」 一兄が暇つぶしにと持ってきた本を取って、壁に投げつける。 何冊も何冊も、投げつける。 本は壁にあたってはぱさりと落ち、畳に詰みあがっていく。 もっと、壊してしまいたい。 襖を倒して、窓ガラスを割って、部屋の中をぐちゃぐちゃに掻き回したい。 こんな世界嫌だ。 壊れてしまえ。 全部全部壊れてしまえ。 壊してしまえ。 壊れてしまえば、怖いものは全部なくなる。 壊してしまえ壊してしまえ壊してしまえ。 壊れてしまえば、そうすれば。 「………は」 本を持っていた手が、その場に落ちる。 疲れた。 壊しても、どうにもならない。 ここを壊しても、なんにもならないのだ。 何も事態は変わらない。 現実から目を背けても、世界は確実に動き、俺を飲み込む。 カラカラカラ。 玄関が開く音がする。 咄嗟に身構えて、部屋の奥にへ逃げ、呪を唱える。 あらかじめ用意してあったので、術はすぐに発動できた。 「こんにちは。元気にしてる?」 襖を開いて現れたのは、予想していた長兄ではなく、末弟の姿。 いつも通り冷たく笑い、こんな時でも態度を変えることはない。 余裕げに佇み、俺を見下ろしている。 本当に、いつも通りだ。 「………天」 「ご飯持ってきたよ」 天が右手に持っていたお盆を抱えてみせる。 漂う食べ物の匂いに、胃がムカついて吐き気を覚える。 「随分やつれたね、この二、三日で。ご飯食べてないの?」 ちらりと部屋の隅の机に目を向ける。 そこには一兄が持ってきた前の食事がそのまま置いてある。 食欲なんてまったくなく、食べることも酷く面倒だ。 「温かいうちに食べなよ」 天が近づいてくるから、発動した術を更に強固にするために力を注ぎ込む。 「ちか、づくな………」 自分の周りに作った結界を最大限に強くする。 俺以外の人間が入ってこれないように、作った結界。 天が、俺の周りに張ってある小さな結界をまじまじと眺める。 それから小さく笑って肩を竦めた。 「さすがに綺麗な結界。結界ってところが、兄さんらしいね。攻撃に使わないあたり」 天が食事が載った盆を、しゃがみこんで結界のすぐ前に置く。 そして壁を背にして座り込む俺に視線を合わせて、くすくすと笑う。 「別に何もしないよ。ご飯は食べれば?」 何もしないと見せつけるように手をひらひらと振って見せた。 その馬鹿にしたような態度に苛立って、近寄られるのが怖くて、裏切られていたことが悲しくて、ぐちゃぐちゃだ。 言葉なんて出てこなくて、ただ、天を見つめることしかできない。 「………」 俺の態度に、天は皮肉げに唇を歪める。 「自分を痛めつけて楽しい?」 そういう訳じゃない。 ただ、食欲がないのだ。 本当に、食事を受け付けない。 匂いだけでも吐き気がする。 「それとも可哀そうな自分アピール?」 その言葉に、鈍っていた感情が、一気に蘇る。 ぐちゃぐちゃになって混在していた感情が、怒りですべてを覆い尽くされる。 「な、んでっ」 苛立ちを抑えきれずに、畳に拳をたたきつける。 それでも、治まらず、手を強く握りしめる。 「お前は、全部、知ってたのか!?」 「全部というと、何を?」 「俺が、奥宮になるってこととか、佐藤と、藤吉のこととかっ!」 天は楽しそうにしゃがみながら、俺をじっと見ている。 その態度に苛立って仕方ない。 いつもこいつはこうだ。 これ見よがしな態度で、全てを煙に巻く。 全部全部全部全部、隠していた。 ずっと、俺を騙していた。 「なんで、嘘ついたんだよ!なんで、なんでっ」 その襟首をつかんで、揺さぶりたい。 綺麗な頬を殴りつけて、怒りをぶつけたい。 でも、結界から出ることもできない。 「嘘はついてないってば。隠していただけ」 天は俺の怒りなんて意に介さず、つまらなそうに言った。 いつも、そうだ。 隠していただけ。 でも、意図的に事実を隠し、思考を一定に導くのは、嘘をついていたことと一緒じゃないのか。 一兄も天も父さんも藤吉も佐藤も。 「奥宮になることは、知ってた」 「………っ」 「佐藤さんと藤吉さんのことは知らない。聞いてなかった。まあ、一緒に旅行に行ったあたりで怪しいとは思ってたけど」 まったく気に病む様子なんてない。 憤ってる俺が、悪いのか。 騙されるほうが悪いのか。 俺は、馬鹿なことを言ってるのか。 「なんで、なんでっ」 どうして、隠していた。 どうして、騙していた。 どうして、俺をこんなに苦しめる。 「なんで、こんなこと、するんだよっ、なんで!閉じ込めるなら、最初から閉じ込めておけばよかった!どうせ奥宮にするつもりなら外の世界なんて知らなくてよかった!優しくなんてされたなくてよかった!友達なんていらなかった!それに、それに」 恋なんて、しなくてよかった。 こんな痛みを知らずに、すんだ。 「本当に?」 思いのほか静かな声に、顔を上げる。 天は、軽く小首を傾げて俺をじっと見ていた。 「友達、いらなかった?外の世界を見なくてよかった?誰もいらなかった?」 藤吉、佐藤、岡野、槇。 大事な友達。 大事な友達だった。 皆で、いろいろなところに行った。 旅行にだって行った。 これからも行こうと行っていた。 友達は温かく、世界は果てが見えなかった。 「岡野さんにも志藤さんにも、会えないほうがよかった?」 「………っ」 会えないほうがよかった。 そんなの、言えるはずがない。 あの人たちに会えて、俺は、幸福を得た。 あの人たちを否定することなんて、出来ない。 「だって、どうせ、なくなるなら、そんなの………」 でも、どうせ失って痛みが大きくなるなら、そんなの知りたくなった。 気づきたくなかった。 何も知らなければ、俺はこんな苦しみを知らなくてすんだ。 ただ、何も未練も痛みも感じず、奥宮になることが出来た。 「………」 でも、幸福を感じることも、なかった。 あんな温かさを知ることも、なかった。 「う………」 「また泣く」 呆れたようにため息をつく音が聞こえる。 俺だって泣きたくない。 でも、涙腺はすでに壊れていて、涙がぼろぼろと溢れてくる。 痛い、悲しい、切ない、嬉しい。 分からない。 この感情は、なんなのだろう。 分からない。 「俺も一矢兄さんは嘘ばっかり?もっと冷たく接すればよかった?」 天の言葉に、睨みつける。 嘘ばっかりだ。 そんな上っ面だけでの優しさなんて、いらなかった。 天が俺の視線を受けて、くすくすと笑う。 「ひどいな。俺たちはずっと、兄さんのために生きてきたのに」 「………え」 何を言われたのか分からなくて、呆けた声が出てしまう。 「俺たちの最優先事項は兄さんだよ。俺も一矢兄さんも、兄さんの望みに応じてきたでしょう?兄さんが助けてというならどこへでも助けに行って、兄さんが求めるならいくらでも力を貸した」 確かに俺は、家族に頼り切りで、何があってもみんなに助力を頼んできた。 そして、家族は俺の望みをかなえてくれた。 与えることが可能な範囲のものは、与えてくれていた。 だから、俺はずっと家族に甘えてきた。 それは、確かだ。 でも、それが、なんだというのだろう。 結局嘘なら、それになんの意味があるのだろう。 「まあ、俺はちょっと思春期だから反抗的な態度も取ったかな。双馬兄さんは、あの人はああいう人だからね。自分のことで精いっぱい」 「………」 「でもなんだかんだで、俺も一矢兄さんも、どんな時でも兄さんを優先してきたのに」 天が俺の結界に手を伸ばす。 そっと触れられる感覚にぴりりとしたわずかな痛みが走る。 天はもっと痛いはずだが、表情を変えることはない。 「それなのに、いらないって言われると寂しいなあ」 結界の痛みとは別に、胸にちくりとした痛みが走る。 確かに俺は、一兄や天の時間を奪ってきた。 力も奪ってきた。 二人は俺に色々なものを与えてくれてきた。 でも、でも、そんなの、全部、嘘じゃないか。 「………でも、いらないのは、お前らだろ!全部、俺を奥宮に、するからだろ!お前たちが必要なのは奥宮で、俺はいらないくせに!」 俺という個人は、どうだっていいんだろう。 大事なのは、ただの器なのだろう。 「そんな、嘘は、いらない!そんなだったら、優しくなんて、されたくなかった!ただの道具として、扱えばよかった!」 「嘘ねえ」 天は天井を見上げて、髪を掻き上げる。 「実際に自分の時間も労力も感情も割いてきたのに、嘘かな」 時間はもらった。 力ももらった。 でも、それでも、だからといって、俺を騙していたことにならないのか。 そんなわけはない。 最後にそれを台無しにするなら、ただただ余計に苦しいだけだ。 「最後に、裏切るなら、そんなの、余計に残酷だ!そんなの嘘だ!」 「裏切る予定なんてなかったよ」 「な、にを」 嘘を言ってるんだ。 もう、嘘はうんざりだ。 「本当は最後まで隠し通す予定だったんだよ。それで、最終的には知らせるけど、適当に事情を作り上げて、その上で兄さんに奥宮になることを選ばせる予定だった。まあ、栞や五十鈴さんがなる可能性もあったけどね」 「選ばせるって、選択肢なんて、なかったくせに!」 「でも、実際兄さん、自分の意思で奥宮になろうと考えたでしょ。自分で選ぼうとしたでしょ?何も知らなければ、このままでいけば兄さんは自分で奥宮を選んだんだ。だったら裏切りなんてなかった。みんな幸せだった」 でしょと言って天は首を傾げる。 それから唇を歪めて、吐き捨てるように言った。 「あの人が余計なことさえしなければね」 あの人、が誰を指してるかは分かった。 双兄、今、どうしているのだろう。 不安がまた、胸をよぎる。 「まあ、あの時ばれた時点でこうなるかと思ってたんだよね。でも、兄さんたった一週間ですぐに決意決めてたぽいし、変わらずうまいこと行くかと思ってたのに」 どこか馬鹿にしたように、天が言う。 だって、俺が役に立つことがあったと知った。 父さんも一兄も、俺の力を必要としていた。 俺を気遣い大切にしてくれた人たちのためになるのなら、この身を使ってもいいと、確かに思っていた。 「どちらにせよ、こんなことは知らない方が幸せだったのにね」 天が首を傾げて、笑う。 とても綺麗に、天使のように無邪気に笑う。 「そしたら裏切りなんて、なかったのに」 確かに、双兄にあそこにつれていかれなければ。 奥宮と先宮のつながりに気づかなければ。 父さんを一兄を天を疑わなければ。 それなら、俺は悩みながらも、奥宮になっていたかもしれない。 「………でも、俺は、知った。だったらもう、納得できない」 昔からずっと、ただ騙されていたことを知ったら、もう納得なんてできない。 俺の意思は全部、導かれていたなんて、認めたくない。 素直に奥宮になるなんて言えない。 これだけ裏切られて傷つけられて、それでも従うなんて、俺には言えない。 「うん、今回は後少しで逃げれたのにね。まあ、逃げてもたぶん追いかけられるけど」 「………」 一兄と天には、俺の居場所は分かってしまう。 結局、どうしようもない。 どこにも、俺は言えない。 誰も頼れる人間はいない。 信じていた人たちは、失われてしまった。 「藤吉さんや佐藤さんを頼らなきゃ、もうちょっと逃げられたのにね」 だって、信じていた。 あの二人を信じていた。 太陽のように明るく朗らかな、憧れの友人だった。 「ま、仕方ないか。兄さんはそういうものだから」 天がどこか馬鹿にしたように笑った。 そうだ、俺は馬鹿だ。 いっつもこうして、行動は裏目に出て、最悪の結果になる。 俺は何もできない。 何も成せない。 周りに害悪をまき散らすだけだ。 だったら、奥宮になるのが、一番いいのかもしれない。 でも、そんなの、嫌だ。 そんな決意できない。 でも、それしか道は、ない。 どうせ俺は、ここから逃げられない。 「………二葉叔母さんも、こうして、奥宮に、なったのか」 あの人も、こうして、追い詰められたのか。 逃げ場を失い、あの化け物にされたのか。 「二葉叔母さんは最初から全部承知だったらしいよ」 「え………」 全部、承知だった? これも、嘘か。 まだ、俺を騙そうとしている? でも、天は嘘はつかない。 でも、それも嘘かもしれない。 もう、何も分からない。 「奥宮の育て方には、最初からすべてを告げるか、直前まで隠し通すか、二つあるみたい」 天が、指を二本立てる。 「全てを知り、覚悟を徐々に決めながらいつか来る終わりを待つか、何も知らぬまま日常を過ごして、突然くる終わりを受け入れるか」 俺が最初から全部知っていたら、どうなっただろう。 全てを受け入れることが出来ただろうか。 絶望しながら、それでも、生きることが出来ただろうか。 「どっちがいいんだろうね」 でも、何も知らないままでなんて、いたくない。 せめて事実を知っていたい。 でも知っていたら、怖くて、気が狂いそうだ。 どっちがいいか、なんて分からない。 そんなの、俺の方が知りたい。 「だいたい、告げる方を選んだ場合、次の代は告げないことを選ぶ。そして告げないことを選んだ次の代は告げることを選ぶんだって。現奥宮の二葉叔母さんは知りながら育った。 そして、次代の奥宮の候補である兄さんや五十鈴さんは知らずに育った」 五十鈴姉さんも、何も知らないのか。 今も、知らないのだろうか。 それなら、よかった。 あの無邪気で可愛らしい人の表情を曇らせたくない。 「どっちがいいかって考えると難しいね。でもね、どちらのパターンでも共通する育て方があるんだよ」 そこで天が、とても綺麗ににっこりと笑う。 「心を砕き、守り、大切にし、慈しみ、心から愛すること」 「え………」 父さんも母さんも、一兄も双兄も、俺を大事にしてくれた。 天だって、ギクシャクしたけれど、遊んだりしたり、助けてくれた。 時に厳しく、時に優しく、たくさんの抱擁とたくさんの言葉をもらった。 とても、大切なものだった。 大事な家族だった。 「心からね。騙してなんかないよ。俺たちは心から兄さんを大切に、愛してきた」 大切にされてきた。 大切にしてきた。 それなのに、どうして、こんなに、胸が痛いんだ。 |