鞄を背負うと、後ろにいた岡野が声をかけてきた。 「あ、宮守、今帰るの?」 「うん。そろそろ帰るよ」 帰りたくはない。 あんな場所に帰りたくない。 でも、どこにも行けない。 暗くて重い場所。 本当だな、槇。 ずっと、生まれた時からいた場所なのに、今じゃ嫌悪感で吐き気すらする。 なんで今まで、気づかなかったんだろう。 「そ、そお」 「うん。岡野も帰るの?」 岡野はちょっと俯いて言いよどむ。 何か、言いたいのだろうか。 向き合って、先の言葉を待つ。 「う、うん、そ、その………」 「ん?」 指輪がじゃらじゃらとついた、けれど爪は意外と短いすんなりとした綺麗な指。 わずかに頬を赤らめて俯く岡野に、胸がざわめく。 今はもうほとんど感じることのない温かい気持ちで、満たされていく。 「あのさ」 「うん、何」 岡野が意を決したように顔をあげて、口を開こうとする。 一つ一つの動作が、愛しい。 変わらずに、何も変わらずに俺に接してくれる岡野が、愛しい。 そのまま、変わらずにいて。 「彩、ちょっといいかな」 「え!?」 そこで、槇が岡野の後ろから現れた。 なぜか飛び上がって驚く岡野が振り向くと、槇は困ったように首を傾げた。 「ごめん、お話し中だった?」 岡野が俺をちらりと見てから、小さく首を振る。 「大丈夫、だけど」 「そっか、じゃあいいかな」 「分かった。ごめん、宮守」 「え、うん」 なんだったのだろう。 なんか、言いたげだったけれど。 岡野はちょっと憮然としたまま手をひらひらと振る。 「じゃあ、バイバイ」 「あ、うん。また明日」 また、明日。 明日は、会えるだろうか。 いつまで、会えるだろうか。 岡野の笑顔を、いつまで見ていられるだろうか。 「………」 ふと気づくと、槇がじっと俺の顔を見つめていた。 なんだろう。 昼の話を気にしているのだろうか。 あまり、気にしないでほしいのだけれど。 佐藤に気づかれるわけにも、いかない。 「槇、どうかした?」 「ううん、なんでもない。邪魔してごめんね。バイバイ。また明日」 槇はふっと表情を緩めて、柔らかく笑った。 そして小さな手を振る。 「うん。また明日」 俺も手をふって、大事な友人たちを、見送った。 藤吉と佐藤の同行は断って、一人道を歩く。 どうせ、逃げられないのだから見張りなんていらない。 ただ、邪魔なだけだ。 岡野と槇と一緒にいられないのなら、一人でいたい。 もう、誰とも一緒にいたくない。 隣いることすら、億劫だ。 重い足を引きずるようにして歩いていると、そっと横にセダンが止まった。 覚えのあるシチュエーションに、覚えのある車。 「三薙さん」 予想通りウィンドウが開いて、運転席から身を乗り出す様にして顔を覗かせるのは、使用人の男性だった。 一件神経質そうな整った顔立ちに、穏やかな笑顔を浮かべている。 その顔をみて、凍てついていた心が温かくなる。 ああ、そうだ。 俺にはまだ、この人もいた。 「志藤さん」 岡野と槇と、そして志藤さん。 俺の大事な、友人たち。 嘘だらけの世界の、本当。 「お帰りですか?」 「はい、志藤さんは今日もお仕事ですか」 「はい。よろしかったら乗りませんか?」 「………」 この前、父さんに一緒にいるところを見られた。 一兄にも、見られている。 これ以上一緒にいたら、この人に迷惑をかけるだろうか。 一緒にいたい。 でも、迷惑はかけたくない。 「おいやですか?」 黙り込むと、志藤さんが顔を曇らせる。 「いえ!そんなことは、ないんですが………」 「でしたら、お乗りください」 「でも………」 「大丈夫ですよ、今日は家の手前で別れましょう」 「………」 俺が何を懸念しているのか分かったのだろう、少し笑ってそう提案してくれる。 なんだか、控え目で大人しげな人は、最近少し強引だ。 その変化は、悪いものではないと感じる。 この人が、俺と違って、前を向いて歩いていると、感じられる。 「………はい、そうですね。乗せていってください」 少しだけ悔しくて、でも嬉しくて、頷いた。 大事な、大切な友人は、もっと強くなって、苦しむことが少しでも減ればいい。 俺が見ることが出来なくなっても、幸せでいてほしい。 「はい。ありがとうございます。どうぞお乗りください」 「お礼を言うのはこっちです」 お互い顔を見合わせて笑う。 助手席に納まると、ゆっくりと危なげない運転で走り始める。 「学校は、楽しかったですか?」 「はい。とても。友達が………、友達が、優しいんです」 敏く強く頼もしい、友人。 傍にいてくれる、逃げてもいいと言ってくれる、大事だと言ってくれる。 それがどんなに嬉しく、尊いことか、改めて思い知る。 岡野と槇がいてくれるだけで、俺は温かな気持ちを忘れないでいられる。 大事なものを失わないでいられる。 「そうですか。よかったです。あなたが嬉しそうだと私も嬉しいです」 「え、あはは。俺もです。俺も志藤さんが嬉しそうなら、嬉しいです」 そして、この人がいてくれる。 弱くて頼りなくてかわいくて、一緒に強くなろうって言いあった友達。 でも志藤さんはどんどん強くなって、今では置いて行かれそうだ。 俺も負けずに、強くありたい。 大事な友達と、対等でありたい。 「俺、志藤さんと、友達になれて、よかったです」 岡野も槇も大事な大事な友達だけど、志藤さんはなんだかまた特別だ。 ああ、そういえば、男の友達って、結局志藤さんだけなんだ。 同じ弱さを分かち合ったせいか、なんだかより近くも、感じる。 「はい、私もあなたと会えて、よかったです」 「へへ」 志藤さんが前を見ながら、柔らかく微笑む。 その優しい声色に、笑顔に、胸がいっぱいになる。 嘘だけじゃない。 本当のことだって、あった。 「今日も、少し遠回りしても、よろしいですか?」 「いいですけど、あまり、遅くなると、家が………」 逃げたかと、疑われるかもしれない。 志藤さんと一緒にいたと知られたら、どうなるか分からない。 危害を加えたりはしないと思うけれど、でも、何が起きるか想像がつかない。 そんな怖いことはしたくない。 「家が?」 「その、心配するから」 「あまり遅くならないよういたします」 「はい、じゃあ、お願いします」 「ありがとうございます」 本当になんだか、強引になった。 その変化にちょっと笑ってしまう。 「どうされましたか?」 「いえ、志藤さん、本当に変わったなって」 「そう、でしょうか」 「はい」 「あまり、変われていないと思うのですが………」 「変わりましたよ」 志藤さんが困ったように笑いながら、家の方向とは違う方にハンドルを切る。 早く帰らないといけないだろうけど、でも、嬉しい。 少しだけいいから、家から遠ざかりたい。 この人と、わずかでも長く一緒にいたい。 「三薙さん、家で何があったか、仰っては、いただけないですか?」 「え」 ふいに、志藤さんが前を向いたままそう言った。 心配そうに顔を顔を曇らせている。 「何か、あったのでしょう?」 「………」 何かは、あった。 この前も変な態度をとってしまった。 心配をかけている。 心配なんてさせたくない。 迷惑かけたくない。 こんなことに、巻き込みたくない。 変わらない態度で、傍にいてほしい。 友達で、いてほしい。 「私では、あなたのお力にはなれませんか」 「………」 「あなたのためなら、私はなんだって出来る。あなたを守る事が出来るのなら、惜しむものなんて何もない」 その言葉は真摯で、静かだけれど強くて、胸が締め付けられる。 志藤さんにここまで言ってもらえる価値は、俺にはない。 でも、嬉しい。 こんな風に言ってくれるのが、嬉しい。 「あなたの、お力になりたいのです」 俺だって、何かできるのなら、志藤さんの力になりたい。 惜しむものなんてない。 なんだってする。 大切な、大事な友人。 でも、だからこそ同時に、巻き込みたくない。 「………何も、ありません。何も、ないですよ、志藤さん。大丈夫です」 「………」 「俺は、大丈夫です」 車内に沈黙が走る。 何を言ったらいいか分からない。 志藤さんも黙り込んでしまう。 言葉を探しているうちに、どんどん家から車は離れていく。 「三薙さん、あなたが笑うと、私は嬉しいです」 「志藤、さん」 「あなたが泣くと、私の胸は張り裂けそうになる」 俺だって、一緒だ。 志藤さんが笑うと、嬉しい。 志藤さんが苦しむと、哀しい。 「あなたが苦しむ所なんて見たくない。あなたが笑わなくなるなんて考えたくない」 その声には、苦しげな、切羽詰まったものがこもる。 ちらりと横を見ると、志藤さんは眉を寄せて泣きそうな顔をしていた。 「志藤さん、どうしたん、ですか?」 志藤さんがあえぐように、唇を震わせる。 「………あなたが、いなくなるなんて、考えられない」 ききっと鋭い音を立てて、車が急停止する。 「うわっ」 つんのめってシートベルトが体が食い込み、痛みが走る。 顔をあげて窓の外を見ると、街の外れの工場跡と山が残る人気のない場所に来ていた。 「………志藤さん?」 志藤さんがシートベルトを外し、俺に向き合う。 まっすぐな視線を、ただ受け止めることしかできない。 眼鏡の奥の目は、どこか遠くを見ているように見える。 「あなたは、笑っていてください。幸福でいてください。いつでも、いつまでも、温かな場所にいてください」 まるで謳うように、詩でも読むように、志藤さんは言う。 どうしたんだろう。 俺の幸福を願う言葉を口にしているのに、なぜだか少しだけ怖い。 「あなたを苦しめるものなんていらない。あなたから笑顔を奪うものなんて、いらないんです」 じわりと、手に汗を掻く。 酸素が薄くなって、呼吸が苦しくなった気がする。 「あなたがいるから、私は喜びを感じる。痛みを感じる。幸せを感じる。世界を感じる」 志藤さんが熱のこもる目で、俺を見ている。 何を、言っているのだろう。 どうしたのだろう。 志藤さんは、何を言ってるんだ。 「あなたが、私の前からいなくなるなんて、そんなの許せない」 「………志藤さん、何を、言ってるんですか。どうしたんですか」 知っている、のか。 奥宮のことを、知ったのか。 知らなかったはずだ。 なぜ、どこで、知ったんだ。 「私のものになっていただけないのは、いいんです。それは、いいんです。あなたは、幸せになるべきだから」 「………え」 何を言ってるんだ。 志藤さんは、戸惑っているのかもしれない。 奥宮の存在を突然知ってしまって、混乱しているのかもしれない。 「でも、私の前からいなくなるなんて、そんなの、許せない。あなたは、そこにいて、笑っているべきだ。幸福でいなければ、いけない。幸福の中で、笑ってなければいけない」 どこか病的に繰り返す人に、じわじわと恐怖を感じる。 俺を想ってくれている言葉なのに、なぜ、怖いと感じるのだろう。 「志藤さん、どうしたんですか。落ち着いて、ください」 大事な、大切な友人。 強くて弱くてかわいくて頼もしい、大好きな、友人。 「嫌だ。あなたがいなくなるなんて、嫌だ。そんなの許せない。許せない。許せないっ」 「志藤さんっ」 声を荒げる志藤さんに、思わず身を引いてしまう。 なぜ、大切な友人なのに、どうして。 「三薙さん、三薙さん、敬愛しています。あなたを愛しく思っています。あなたが、笑ってくれるから、私はここにいられるんです」 志藤さんの手が恭しく俺の手を取り、祈るように手の甲に口づける。 羽毛のような柔らかな感触に、びくりと体が震える。 「っ」 「好きです、三薙さん」 何を、言っているのだろう。 志藤さんが、俺を見ている。 俺に触れている。 熱のこもった目で、熱い手で言葉で、俺に触れている。 「好きって、俺も、好き、です。落ち着いて、ください。落ち着いて、志藤さん」 逃れようと身をよじるが、手は離されない。 優しいけれど、強い力で握られている。 なぜ、こんな怖いんだろう。 志藤さんは、大切な、大事な、友人で、大好きな人だ。 「志藤さんは、俺の、大事な友達、で、とても、大事で」 岡野と槇と、そして志藤さん。 三人だけが、俺の世界に残った本当。 俺の中の、本当。 「友人でいいと思ってました。あなたの側にいられるなら、それで十分です。あなたが私を友人と思ってくれるなら、それで、満足でした。嬉しかった。幸せだった」 「は、い。俺も、志藤さんと友達になれて、嬉しかった」 大切な友人、大事な友人。 変わらないで、奪わないで、壊さないで これ以上、俺の世界を壊さないで。 「でも、あなたは、いなくなるのでしょう。私の前からいなくなる」 「………っ、だれ、が、どうして、そのことを」 志藤さんがじっと俺を見つめながら、手をぎゅっと握る。 汗を掻いて湿った手の感触が、少し気持ち悪い。 狭い車内は、酸素が足りず、呼吸が出来ない。 「一緒に、行きましょう、三薙さん。宮守家のためなんかに、あなたが犠牲になる必要はない」 「で、でも、志藤さん、そんな」 「どうしてですか?嫌です。そんなのは、有り得ない。あなたが私の前からいなくなるなんて、許せない」 志藤さんが、俺の話を聞いてくれない。 この人は、今、俺の話を聞いていない。 ずっと話し合って、分かりあって、支えあって、きたのに。 俺を見ているようで、見ていない。 俺の話を聞いているようで、聞いていない。 俺の意思を、無視している。 「どうして、私の前から、いなくなるんですか?」 「俺、は」 いなくなりたくなんてない。 一緒にいたい。 「あなたが、他の誰かのものになってもいいと思っていた。想われている女性と幸せになってくれればいいと思っていた」 口の中がひどく渇いて、ぺたぺたと張り付く。 なんだろう。 怖い。 怖い怖い怖い。 それ以上聞きたくない。 耳をふさぎたいのに、手をとられていてそれもできない。 逃げ出したいのにシートベルトで拘束されている。 「一矢さんや、四天さんの力をあなたの中から感じようと、あなたのためというなら、納得できた」 「………っ」 志藤さんが、空いた手で俺の腹に、そっと触れる。 そこにある、一兄と天の存在を感じるように。 じっと、そこを、冷たい目で、見つめる。 「それが、どんなに、忌々しく、厭わしいことでも」 「な、に」 そして顔をあげ、俺の顔を見て微笑む。 優しく優しく、目を細めて、まるで、大事なものを見るように、微笑む。 「でも、あなたがあなたを捨てるなら、いらないというなら、私の前からいなくなるというのなら」 大きな手が、俺の頬に触れる。 ざわりと、背筋に寒気が走る。 怖い、怖い怖い怖い。 「あなたを、私にください。一矢さんも四天さんもあなたがいらないというのなら、私がもらいます」 「………志藤、さん」 「あなたを、私にください」 「志藤さん」 「私に、笑っていてください」 「志藤さんっ」 大きな手が、俺の頬を包み込む。 優しく微笑む志藤さんの端正な顔が、近づいてくる。 「あなたがなにより愛しいです。あなたを心よりお慕いしています、三薙さん」 謳うように囁かれる、綺麗な言葉。 そして、それを紡ぐ唇が、俺の唇にそっと重なった。 |