熊沢さんが運転する車は、静かに街中を走る。
気温はそんなに低くないはずだけれど、寒く感じて借りたジャケットを手繰り寄せた。

「大丈夫ですか?」
「………はい」

運転席にいる熊沢さんが、ミラー越しに後部座席にいる俺をちらりと見る。
見られたくなくて、顔をそむけた。
そして目に入った破けたシャツや、押さえつけられて痕が残っている腕に、恐怖が蘇る。

「志藤さん、は、なんで、こんな………」

怖かった。
別人のようだった。
大事な友人だった。
俺の意思をいつだって、尊重してくれる人だった。
モノとして扱われて、嘘だらけの俺の世界に残された、数少ない本物だった。
あの人も、嘘なのか。
全部また、嘘だったのか。

「なんで、こんなことをしたのか、でしょうか。なんで、こんな方法だったのか、でしょうか」

熊沢さんが運転したまま、聞いてくる。
聞かれて、顔を上げる。

「動機ですか?手段ですか?」
「………」

なんで、こんなことをしたのか。
なんで、こんな方法だったのか。
俺は何を聞きたいのだろうか。
自分でも、よくわかっていない。
ただ、怖くて、訳が分からなくて、苦しい。

「彼はああいう人なんですよ」
「え」
「控え目で大人しげで穏やかで賢い、善良な小市民です」

それは、知っている。
志藤さんは弱さと強さを持っていて、可愛くて、頼りになる、とても優しい人だった。
なのに、なんで。

「でも、一旦箍が外れると、ああなるんですよねえ」
「箍?」
「彼から、家族のこととか、大学時代のこととか聞いたんですっけ」

見えないだろうけれど、ひとつ頷く。
あの夕暮れの街で、そして天の部屋で、志藤さんは過去を語ってくれた。
それを聞いて、更に彼の強さと弱さを知った。
打ち明けてくれた信頼が嬉しくて、ますます大事に思った。

「………お祖母さんや、お母さんと、折り合いが悪くて、気味悪がられて、宮守の家に来たって」
「ええ」
「あと、大学では、お友達を傷つけてしまったって」
「くっ」

そこで熊沢さんが、思わずといったように笑った。

「あの、愚図」

そして、冷たく吐き捨てた。
にこやかに笑ってはいるけれど、そこには嘲りと蔑みが混じっていた。

「くまさ、わさん?」
「ほんとうーに、彼は弱くて小ずるいへたれ野郎ですよねえ」
「え」
「だからあいつは駄目なんですよ」

急に乱暴な口調になったのが怖くて、ちらりとミラーを見る。
熊沢さんは、苦々しく笑っていた。

「間違ってはないですよ、その情報。ただ、言ってないことがある。隠すなら隠すでいいんですが、都合のいいところだけ言ってやがりますねえ」

都合のいいところ。
やっぱり、嘘だったのだろうか。
全部、嘘だったのだろうか。

「折り合いが悪い、本当のことです。気味悪がられていた。これも本当のこと。彼のお祖母様とお母様が仲が悪かった、これも本当のことです。でも、何もなかったら家から出されなかったかもしれないですね」
「何も、なかったら?」
「彼が家を出されることになった直接の原因は、彼がお祖母様とお兄さんを半殺しにしたからですよ」
「………え」

あっさりと言われた不穏な言葉が、一瞬理解できない。
あの人の穏やかな雰囲気に、その言葉が結びつかない。
ああ、でもさっき、天と拳を交えていた志藤さんは、怖かった。

「元々無駄にハイスペックですからねえ。彼の家は古武道の道場もやってるんですけどね、その才能も頭も品行も、そのすべてがお兄さんより上だったそうです」

実は、強くて、力もあり、頭もよく、運動神経がいいというのも、知っている。
無駄にハイスペックとは、よく熊沢さんが言っていた。

「まあ、俺らはこういう性質ですから気味が悪いと思われていたのも確かです。でも優秀な彼は姑と戦うための嫁の最終兵器でした。手放すはずがない。ほら、お義母様が育てた長男より、私の次男はこんなに優秀ってね。いやはや嫁姑戦争は恐ろしい」

気味が悪いと母に疎まれていた、と言っていた。
とりあげられた長男の分だけ、期待していた、というようなことを。
でも、最終兵器だなんて、そんな扱いは、ひどい。
志藤さんは、モノじゃない。

「実際長男は甘やかされてダメダメみたいですけどねえ。まあ、それはおいておいて、彼が優秀な分だけ、母親を庇う分だけ、余計に姑の攻撃は苛烈になる。嫁とその手下を攻撃する。姑に洗脳された長男も、それに便乗する。まあ、そんな殺伐とした環境で育ってたんです。そんでもって、それは起きた」
「………」
「ある日、勢いあまって姑が嫁を階段から突き落とした。長男はそれを見て笑っていた。それを見た次男がブチ切れっちゃって、長男を全治二か月の重傷を負わせ、姑の方も窒息寸前まで首を絞め、ベランダから突き落とそうとしたそうです。落としてはないんですよ。怯える祖母を何度も何度も落とすふりをして、笑いながらいたぶっていたみたいです。後は自分は化け物だから、お前を呪ってやるって言ったりとかとか。随分痛い小学生ですねえ」
「そ、んな………」

頭の中が真っ白になって、言葉が出てこない。
あの人、が、あの優しくて、気が弱くすら見える、人が。
いつも熊沢さんや、俺の言葉にも真に受けて、真っ赤になる、かわいい人が。

「そして彼は家族の中で完全に異質な存在となった。今まで溺愛しながら歪んだ価値観を注ぎ込んでいた母にも、畏怖される存在になった」

だって、母親が、階段から落とされたから、怒ったのに。
それなのに、母親すら、見捨てたのか。
そんなの、ひどい。
でも、怖いのは、分かる。
異質なものは、理解できないものは怖い。
でも、ひどい。
そんなの、ひどい。

「それが、彼が家を出された直接の原因ですねえ」

そんなの、聞いてない。
嘘だって、前までなら言っていたかもしれない。
でも、さっきの志藤さんを見ていたら、分からなくなってしまう。
どっちが、本当の志藤さんなんだ。
俺に見せていた顔は、本当?
嘘?
どっちなんだ。
分からない。

「大学の方は、俺があげた石が原因、これもあってます」

人間関係でトラブルがあって、石をとられ、手を出した、と言っていた。
それが、自分の弱さ、だとも。

「まー、ずっと情緒不安定なやつでした。普段はあんな気が弱い生粋の草食系男子って感じなんですが、何かあるとぶちぎれてああなる。キレやすい十代です。て、これって古いですっけ」
「………」
「笑えませんねえ、すいません。でも、俺もいつまでもお守りしてられないんで、お守りってことで石を渡して外に出したんですね。石を持っていれば大丈夫って暗示をかけて」
「あん、じ」
「そんな強いものじゃないですが、それもおまじない程度です」

それを持っていたら、外でも怖くないと、志藤さんは嬉しそうに言っていた。
今は、俺が持っている、綺麗な青い石。
想いのこもった大事なそれは、ちゃんと、鞄に入っている。

「それが功を奏してしばらくはよかったんですけど、大学である女性に出会いました」
「女性?」
「ゼミで一緒だった、綺麗で、気位高い女王様みたいな子だったようです。男性は自分を好きになるのが当然、みたいなややタチの悪い。で、目をつけられた。まあそれは、向こうも遊びみたいだったし、志藤君も別に嫌じゃなかったので、適当に付き合ってたんですが、向こうがちょっぴり本気になっちゃったみたいです。束縛や嫉妬がひどくなった」
「それは、悪いこと、ですか?」

本気で人を想うなら、きっと嫉妬位するんじゃないだろうか。
俺だって、好きな人がほかの人と親しくしていたら、嫌だと思う。
そういえば、志藤さんが、天と親しくしているのだって、嫉妬してしまった。
熊沢さんも笑って、首を軽く横に振る。

「いいえ。でも、志藤君、女性と付き合ったりもしたんですが、根本的に女性が苦手なんですよ。特に怒る女性、感情を荒げる女性、嫉妬する女性」

いがみ合う女性に囲まれて育って志藤さん。
それが、原因なのだろうか。
分からないけれど。

「で、嫌いになっちゃって別れようとしたら、プライド傷つけたみたいで。あの石を取り上げられて、その上腹いせに集団リンチ的なの受けそうになっちゃったんですねー。まあ、彼、本当に無駄にチート性能なんで返り討ちにしちゃいましたけどね。過剰防衛レベルに。あっちも隠したかったからなんとかうやむやにできましたが、リアルに半殺しの人いましたねー」

くすくすと笑いながら朗らかに言う熊沢さんだが、中身はそんな可愛いものじゃない。
あの人が、そんな一面を持っていたなんて、知らなかった。
俺はまた、何も知らなかった。

「そんで、大学を休学して、あなたに出会い、ここに至ると」

度会の家で出会い、一緒に支えあって、仲良くなって、友達になった。
これからもずっと一緒に、仲良くしていけると、思っていた。

「そういうやつなんですよ。もー、後始末はほとんど俺。むかついたからバラしちゃいましたけど」

それからミラー越しにちらりを俺を見てくる。

「彼が怖いですか?」

一瞬迷って、頷いた。
別人のようだった。
あんな殺気を放つ志藤さんを、見たことがなかった。
怖かった。
俺の意思を無視する人が、怖かった。

「………は、い」
「ですよねー」

熊沢さんが肩をすくめて笑う。

「俺もいい加減面倒なんですけど、あの駄目っこなところが、それはそれでかわいくて」

俺だって好きだった。
あの人が、大好きだった。
そういえば、ひとつ疑問に思っていた。
色々なことがありすぎて、聞くことが出来ていなかった。

「………なんで、双兄や、熊沢さんや………、天は、俺と志藤さんを、引き合わせたんですか」
「………」

熊沢さんが、笑顔を消し、口を閉じる。
それから、ちょっと考えて、口を開いた。

「四天さんのことは俺には分かりません。ただ俺は」

そして、笑った。
さっきまでの皮肉を感じさせる笑顔ではなく、柔らかくどこか切ないような笑顔だった。

「彼に大切な人間を見つけてほしかった。心を許し、弱さを許容し、強さをくれるような友人を、あげたかったんです。三薙さんでしたら優しいし、強い。そして抱える弱さも理解してくれるんじゃないか、なんて」

苦笑して、首を傾げる。

「そんな勝手なことを思ったんです。申し訳ないですねえ」

俺はそんな、強い人間じゃない。
弱さは理解できるかもしれない。
でも、人を受け止めるだけの強さなんて、ない。

「双馬さんは多分逆ですね」
「逆?」
「たぶん、あなたに友人をあげたかった。あ、ご学友のことは、双馬さんは知りませんでした。ただ、きっと、家の中にも友人がいればと思ったんだと思います」

友達が、ずっと欲しかった。
熊沢さんが傍らにいる、双兄を羨ましがったこともある。
それで、なのだろうか。
モノ扱いされる弟を、哀れに思ったのだろうか。
せめて慰めになれば、と思ったのだろうか。
これもまた、用意された、出会いだ。
他のみんなと一緒、用意された、友人だ。

「………」
「まあ、強制はしてません。きっかけになればと思って合わせてみました。仲良くなってくれたよかったと思ってました」
「………」
「ちょーっとあっちが重すぎましたが」

ああ、でも、例え用意された出会いだとしても、想いは本物だ。
そう言ったのは、他でもなく、志藤さんだった。
あの時、俺を裏切らないって、言った。
言ったのに。

「これが、手段の話ですね。次は動機です」
「え」
「彼が、なぜこんなことをしたのか」

手段と動機。
そうだ、志藤さんは、なんで、こんなことをしたんだ。
何を思って、こんなことをしたのか。

「分かりますか?」
「………」

見えないだろうけれど、首を横に振る。
分からない。
何も分からない。
優しい人だった。
とてもとても、優しい人だった。

「三薙さんは、彼が、怖いですよね。彼が嫌いになりましたか?」

嫌いか、好きか。
怖かった、酷いことをされた、意思を無視されてモノのように扱われた。
でも、でも、大切な人だった。
大好きな人だった。

「わか、らない」
「彼が、あなたのことを嫌いだと思いますか。嫌いだから、こんなことをした?」

言われて、少し考える。
俺を害したかったのか。
俺に悪意があったのか。
それは、違う気がする。
違う。
志藤さんは、そんなことを言っていない。

「ちがう、気が、します」
「まあ、やり方も伝え方も何もかも間違ってて、三薙さんが嫌っても仕方ないです。自業自得」

嫌っては、いない。
ただ、怖かった。
そして、俺の意思を無視されたのが、嫌だった。
あの人まで俺をモノ扱いするのに、耐えられなかった。

「ただ一応兄貴分として、擁護になるかどうかわかりませんが、バラしておきます。彼が暴走する理由はいたってシンプルです。家の時も大学の時も、ただ彼は」

熊沢さんが、苦笑する。

「大事なものを、守りたかった」

大事な、もの。
大事なものを守りたかった?
志藤さんの大事なもの。

「アイオライトの石言葉、調べました?」
「………いいえ」

調べろって、言われていたっけ。
心の安定、癒し、依存心からの脱却とか自立心。

「色々な意味はありますが、志藤君が込めた意味は、分かる気がします」

大切な友人。
俺に残された、ただ一人の男の友達。

「………なんですか?」

俺にあげたいと言っていた。
俺に持っていてほしいと言っていた。

「はじめての愛」

俺を失うなんて、耐えられないと、言っていた。





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