「ん………」

目が覚めると、外は暗くなっていた。
ゆっくりと体を起こして辺りを見渡すと、いつのまにか行燈に火が入れられ、食事が机の上に置かれていた。
寝たのは昼ごろで何もなかったはずだから、宮城さんが来たのだろう。

「いつ、来たんだろう」

考え込んでいるうちに、また眠ってしまったらしい。
薬には眠薬でも含まれているのか、食事をとって眠っているうちに、一日経ってしまった。
食べて、トイレにいって水を飲む以外、ずっと寝ていた。
でも、だいぶ頭も体もすっきりしている。
体に帯びていた熱も、だいぶよくなった。

「風呂、入らないと………」

もうどれくらい、風呂に入ってないだろう。
自分ではよく分からなくなってしまったが、きっと部屋も匂いがするだろう。
頭も痒くなってきたし、体中がべとべとする。

「飯を食べて、風呂に、入って………」

風呂は、宮城さんが毎日沸かしていたから、すぐに入れるはずだ。
少しは、すっきりするかもしれない。
気分を、変えよう。
どんなに気持ちを奮い立たせても、この閉鎖された空間では、滅入ってくる。
外に、出たい。

「窓は、開くのかな」

家をぴったりと覆う結界は、けれど別に物理的に封鎖している訳じゃない。
よろよろと近づいて、掃き出し窓の鍵を開け、開け放つ。
それだけの動作がひどく億劫だった。
全然動いてないから、体が重い。
でも、開けた途端吹き込んできた春の風が、心の重さをそっと軽くしてくれる。

「ああ………、気持ちがいいな」

外の、空気が、気持ちいい。
ほどよい冷たさが熱を冷ましてくれる。
春の風の匂いは、独特だ。
生きている匂いがする。

「………」

座り込んで、心地よい風を受けていると、心が凪いでくる。
春の風は好きだ。
夏の日差しも、秋の抜けるような空も、冬の凍てつく寒さも、好きだけれど。

「あ………」

軽くなった心は、けれどまた、どんよりと重くなる。
誰かが、またやってくる。
食事はもう宮城さんが持ってきてくれた。
つまり、今度来る人間は、宮城さんではない。
なにより、この近づいてくる気配を、俺は誰よりも知っている。
俺のこの身が、その存在を感じ取っている。

カラカラカラ。

果たして、また扉が開かれる。
そしてすぐに襖も、開く。

「三薙、起きているか」
「こんにちは、兄さん」

訪れたのは、長身の兄と、その隣に並ぶと線が細い弟。
一人は冷静な表情で、一人は皮肉げに笑っている。
その気配は、体の奥で常に感じている。

「………一兄、天」

窓に向いていた体を、二人の方に向ける。
天が俺を見下ろして、片眉を持ち上げる。

「うわ、汚い。そして臭い」

そして嫌そうにそう吐き捨てた。
相変わらず、潔癖なやつだ。
まあ、今の俺は本当にとても汚いんだろうけど。
そういえば、服も着替えていない。
ずっと、この浴衣を着ている。
本当に、汚いんだろうな。

「お風呂ぐらい入れば?」
「………何しに、来た?」

そんな、会話に付き合う余裕はない。
いつも俺をからかいなぶる弟に、怒る気力すら、沸いてこない。
天が肩を竦めて笑う。

「様子見?一矢兄さんは、用事があるんだって」

ちらりと視線を送った先の長兄は、じっと俺を見下ろしていた。
その冷たいとすら感じる表情を見ていると、感情が胸を突き上げてくる。

「………ねえ、一兄」
「なんだ」
「ねえ、どうして、皆黙ってたの。どうして、俺を、騙してたの?」

騙す必要は、あったのか。
黙っている必要はあったのか。
何度も何度も、それを考える。
騙されなければ、全部教えてくれていれば、こんな思いはしないで済んだのに。

「あの、幽霊屋敷も、夢も、旅行の時も………っ」

涙が溢れそうになって、必死に唇を噛んでこらえる。
旅行は、楽しかった。
本当に楽しかったんだ。
皆であんな風に出かけるなんて、初めてだった。
皆笑っていた。
楽しかった。
楽しかった楽しかった楽しかった。

「………岡野が、阿部に、連れて行かれた時も、全部全部、一兄たちがやったの?」
「そうだ」
「な」

あっさりと頷く、長兄に一瞬言葉が出てこない。
佐藤や藤吉のことを考えるとそうなのだろうと、思っていた。
管理者の家のことは違うにしても、その他のことは、きっと仕組まれていたのだと、思った。
考えればおかしいのだ。
いくら俺がトラブルに巻き込まれる体質だったとしても、この1年での頻度はおかしすぎた。
どうして、気づかなかったんだ。
馬鹿みたいに皆と仲良くなれた、なんて、喜んでいた。
実際は、俺のせいで、人を傷つけたのに。

「こんな、手の込んだことをして、周りに、迷惑かけて、どうしてっ」

俺を、追い詰めるためだけに、周りを巻き込んだのか。
人を傷つけたのか。
どうして、そんなことをしたんだ。

「兄さんを育てるためじゃないの?いい器にするためにね。飲み込む力、強くなったでしょ?」
「っ」

強くなりたかった。
皆を守りたかった。
だから、及ばぬ力で全力を尽くした。
守れたときは、嬉しくて、全身が喜びでいっぱいになった。
でもそれすらも、全部、作られたものだったのか。
守れたと思ったものすら、予定調和だったのか。
俺を奥宮にするために、お膳立てされたものだったのか。

「でも、でも、そのために、阿部や平田は………、それに岡野だって!」

そんなことのために、人を傷つけたのか。
下手したら岡野だって、それにクラスメイトだって、危なかった。
こんな、こんなことのために、犠牲になったのか。

「だって、一矢兄さん?」
「そうだな。あれは、俺の責任だ」

一兄はやっぱり少しも表情を動かさない。
まるで、感情がないみたいだ。

「一兄が、あんなこと、したの?」
「そうだ」
「あ………」

憤りで、目の前が真っ赤になった。
握った拳を、長兄に叩きつけたくなった。
そんなこと考えるなんて、初めてだった。
一兄にこんなに怒りを覚えたことはない。

「ていうか、佐藤さんじゃないの?俺たちだって死体の始末なんて面倒だし、必要ない限りそんなことしたくないよ」
「さ、とう………?」

佐藤が、やった?
確かにあそこに、皆を連れて行ったのは佐藤だ。

「だとしても、あれに任せた俺の責任だ」
「ま、そうだね。それで俺が面倒を蒙った」
「………」

この人たちは、どうして、そんなことを冷たく言えるのだろう。
人が、傷ついたのに。
犠牲になったのに。
どうして、どうして、どうして。

「また泣く」

こらえきれなくなった涙が溢れて、頬を伝い、畳に落ちる。
天が笑いながら一歩近づいてくる。

「寄る、な!」

近づいてくるのが怖くて、結界を作り上げる。
準備だけはしてあるので、力を流すだけで、それはすぐに発動した。
天はその場で立ち止まり、楽しそうにくすくすと笑う。

「ふふ、相変わらず綺麗な結界だね」

どうして、笑っていられるんだ。
どうして、そんなにいつも通りなんだ。
二人とも、おかしい。
何もかもおかしい。
俺の世界は、おかしい。
こんなの、おかしい。

「俺だけに、すればよかったのに!どうしてどうしてどうして!どうして、巻き込んだんだよ!どうして、傷つけたんだよ!」

俺のせいで人が傷つくなんて、絶対嫌だ。
しかも、こんな馬鹿馬鹿しい理由だ。

「どうして、俺だけ、狙わなかったんだよ!」

俺だけならよかったのに。
俺だけ傷つければよかったのに。

「どうして………っ」

どうして、俺を守るようなことをしたんだ。
どうして、俺を慈しむようなことをしたんだ。

「どうして、俺のこと、大事にしたりしたの………っ」

大事になんてされなければ、こんな思いはしなくて済んだのに。
いっそモノとして扱われたのなら、憎むことが出来たのに。

「三薙、落ち着け」

一兄が俺の結界の前に座り込み、じっと目を見つめてくる。
真摯な態度は、いつも、俺を安心させるものだった。

「騙していたのは悪かった。だが、何度も言うとおり、お前を苦しめたくなかったんだ」
「うそ、だ」
「知ったら、お前は苦しむだろう。そんな思いはさせたくなかった」

嘘だ嘘だ嘘だ。
そんなの、嘘だ。

「なぜ、大事にしたかなんて簡単だろう」

一兄が、結界に触れる。
痛みを感じるだろうに、眉一つ動かさない。
俺の頭を撫でるように優しく撫でる。

「大事だから、大切にしたんだ。愛したんだ。弟を愛さないはずがないだろう」
「………嘘、だっ」

視界が滲んで、よく見えない。
しゃくりあげて、呼吸が苦しい。
嘘ばっかりだ。
嘘ばっかりだ。
大事だったら、こんなことしないはずだ。
愛していたら、裏切らないはずだ。

「………」

一兄が静かに目を伏せる。
心が痛い。
張り裂けて、血を流すようだ。
兄にそんな表情をさせてしまった、自分がとても悪いもののように思えてくる。
いつだって、一兄が眉を寄せるだけで、いたたまれなくて叫びだしそうになる。

「まだ落ち着かないで、体調がまだ戻ってないところすまない」

一兄が立ち上がって、俺を見下ろす。
ただ座り込んで、絶対の保護者だった人を見上げる。

「次の、儀式を執り行う」
「………っ」

感情が、また、怒りに満ちる。
血が頭にのぼって、ガンガンと痛む。

「あれは、なんの意味が、あるんだ?」

俺のためだと聞いていた。
二人の方が負担で、嫌なことさせてると思った。
だから我慢した。
我慢なんて思うのもおこがましいと思った。
二人に、感謝と申し訳なさをずっと感じていた。

「ねえ、俺は、どうせアレになるんでしょう?じゃあ、力の供給は必要ないよね!?」

なのに、それも全部、嘘だ。
あれは俺のためなんかじゃない。
全部全部、俺のためなんかじゃなかった。

「奥宮と先宮は繋がってる。それは、どんな意味があるの!?あの儀式も、奥宮のためなんだろ!?」
「お前の供給のためというのも、本当だ」
「でも、それだけじゃないんだろ!」

迷って、悩んで悩んで悩んで、その末で、決断して、それを覆されて、それでも受け入れて、我慢して。
全部全部、無駄だったんだ。
俺のすることは、全て、無駄だったんだ。
俺の、悩みなんて、迷いなんて、決断なんて、感情なんて、二人には、どうでもいいことだったんだ。
ああ、モノ扱いなんて、とっくにされていたんだ。
俺は、感情なんて認められてなかった。
モノだったんだ。
だったら、もっと分かりやすくしてくれればよかった。

「嫌だ!絶対嫌だ!儀式なんてするもんか!」
「三薙、落ち着け」
「出てけ!出てけよ!近寄るな、出てけ!俺に近づくな!」
「三薙」

もう嫌だ。
触れられるのも嫌だ。
あんなこと、絶対したくない。
もう嫌だ。
嘘ばっかりだ。
みんな、大嫌いだ。

「出てけ!」

感情のままに力を放つ。
けれど俺の力なんて、二人には軽く防がれ、霧散する。

「仕方ないな」

一兄が、軽くため息をつく。
そして、隣にいた天に視線を送る。

「四天」
「はあい。馬鹿だね、兄さん」

天が肩を竦めて、苦笑する。
どこか憐れむように、笑っていた。

「なに、が………あ」

その瞬間、体の中で、何かがブツリと音がした。
力が、急激な速度で失われていく。
眩暈がして、畳に手をつく。

「あ………あ」
「その力は、誰のもの?」

体の中にあった一兄と天のラインが、断ち切られた。
溢れるほどに注がれていた力の流れが、止まった。
後に残るのは、失うばかりの、底のないコップのような俺の体。

「あ、くっ」

力が、失われていく。
失われていく。
失われていく。
最近感じていなかった、恐怖が身を襲う。

「結界、早く解きな」

そうか、結界を張っているから、力が消耗しているのか。
早く解かなきゃ。
でも、自分の術なのに、うまくほどけない。
結び目が、分からない。
解き方が分からない。

「あ、あ、あ、ああっ」

作り上げた結界は、通常の俺の力以上のものを使っている。
消耗が激しく、みるみるうちに残っていた力を奪われていく。

「もう、しょうがないなあ」

天がため息をついて、小さく呪を唱える。
力を練り上げると俺の結界に触れて、無理やり突き破る。
バチンと、はじける音がした。

「はっ」

術を破られた反動が、全身を襲う。
打ち付けられたような衝撃と痛み。
たまらずその場に倒れこみ、畳に伏せる。

「う、く」

術を破られたせいで、余計に力が失われた。
久々に感じる、喉の渇き。
苦しくて、眩暈がする。

「あ………」

傍に近寄ってきた一兄が伏せていた俺の顔をつかみ持ち上げる。
じっと、俺の顔を覗き込む。

「一晩なら平気だろう」
「………いちに、い」
「儀式は明日執り行う。お前の消耗も激しい。早い時間にする」

そこで、ちょっと表情緩める。

「潔斎は必要ないが、風呂に入った方がいいな」

急に浮遊感を感じて、頭がくらくらとした。
気が付くと、一兄に抱き上げられていた。

「よく、そんな汚いもの持てるね」

天が皮肉げに揶揄する声が聞こえる。
すぐそばにいる一兄がふっと笑う気配がする。

「これくらい、汚くもなんともない。慣れてる」

そうだ。
昔から、一兄は、俺が熱を出して汗を掻いていても気にしなかった。
気持ち悪くて一兄にもどしてしまっても、怒ったりしなかった。
どんなに俺が汚れていても、抱きしめてくれた。

「俺は先に帰るね」
「ああ」

一兄が、俺を浴室に運んでいく。
飢えはまだ我慢できるレベルだが、これまでの生活で体力が戻ってないせいか、体が動かない。

「いい子だ、三薙」

一兄が汚く臭いであろう俺の額に口づける。
ふわりとした、温かな感触。

「………一兄」

胸がぎゅうっと締め付けられる。
嫌いだ嫌いだ嫌いだ、一兄なんて大嫌いだ。
もう、信じない。
ずっと、俺を騙してきた人だ。
酷い人だ。
こんなの全部嘘だ。
嫌いだ。
信じない。
全部全部全部、嘘ばっかりだ。

「いい子だ」

優しく微笑み、抱きしめられる。
洗っていないからべたべたの髪を優しく撫でられる。
服が汚れるだろうに、まったく気にする様子はない。

「………っ」

酷いことをされている。
意思を無視されている。
力を断たれ、好きなように扱われている。
最低だ。
酷い人だ。

「三薙」

優しく名前を呼ぶ声。
こうやって名前を呼ばれることが嬉しかった。

一兄はいつだって、俺が迷惑をかけても怒ることはなかった。
俺が汚れていても厭わず抱きしめてくれた。
泣いているときは頭を撫でて、慰めてくれた。
楽しいことをいっぱい教えてくれた。

「………」

優しい記憶なんていらなかった。
温かな抱擁なんていらなかった。

一兄なんて、大嫌いだ。
本当に酷い人だ。

どうして、憎み切らせて、くれないんだ。





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