一兄が、手足の指先、耳の後ろ、背中まで隅々まで優しくタオルで拭いてくれる。
その手は壊れ物を扱うように丁寧で、けれどよどみなくしっかりとしている。
小さいころは熱を出して寝込んでいる俺の体を、こうして拭ってくれた。
そうされると、苦しいのが少し楽になる気がした。
でも今は、全然苦しいのが消えない。

「大丈夫か、痛みは?」
「………」

優しく問う声も笑顔も、変わらない。
泣きすぎて腫れぼったい目からは、まだ涙が出てくる。
涙って、枯れることはないのだろうか。
そんな馬鹿なことを思った。

「後で食事を持ってくる。食べて、ゆっくり休め」

体は指先一つ動かすのすら億劫で、何もする気になれない。
それに動けても、俺は何も出来ない。

抵抗なんて無意味だった。
拒絶なんてねじ伏せられた。
赤子の手をひねるよりも簡単に、屈服させられた。

いや、違う。
俺は結局、自分で受け入れたのだ。

言葉で抵抗してはいても、形ばかりのものでしかなかった。
力を注がれる心地よさに、最後は声をあげて喜んだ。
泣いていやと言いながらも、シーツをつかんで逃れようとしながら、それでも受け入れ、体を揺らした。

最低だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
汚い。
気持ち悪い。
汚い。
汚い。
こんな体が、自分が、嫌だ。
大嫌いだ。
家より兄弟より何より、自分が、一番嫌いだ。

「体力が回復したら、学校へ行ってもいい。だから体調を整えろ」

髪まで拭ってくれて、一兄が笑いかける。
体調を整えろ、昔から、そう言っていたっけ。

「………」

嫌いになりたい。
この人を、憎みたい。
刺し違えてでも、排除したいと、思えるほどに憎みたい。
憎んでいいはずだ。

俺の意思を無視して、勝手に扱われた。
道具として、見られている。
無理やりねじ伏せられ、屈辱的な行為を強いられた。
体だけではなく、心まで粉々にされた。
憎んでもいいはずだ。

「食事まで少し眠るといい。疲れているだろう」

それなのに昔変わらない言葉と仕草に、まだ救いを探している。
変わらない日常を、求めている。
仕草の一つ一つすべてに、過去に受けた愛情を思い出す。
それにすがって、信じている。
この人は、俺を愛しているのだと、変わらないのだと、思い込もうとしている。
もう、とっくに全て変わってしまっているのに。

「………いちにい」
「なんだ?」

叫んだ喉が痛くて、掠れた声しか出ない。
一兄は頭を撫でてくれている。
大きな、暖かい手。
ずっとずっと俺を守り導いてくれた、手。

「………どう、して」

何が、聞きたいのだろう。
これ以上、何を求めているのだろう。
俺の欲しい答えは、もう得られないと分かっているのに。

そうか。
俺は、俺が欲しい答えを求めて、ずっと聞いていたのか。
何を聞いてもきっと、納得できない。
だって、欲しい答えは、絶対に返ってこない
分かっているのに、それでも聞かずにいられない。

「ん………」

一兄は問いかけには答えず、水を含んで俺の口に注ぎ込む。
口移しに渡される水は、生温かくて、少し気持ち悪い。
でも、渇いた喉と体に、染み渡っていく。

「いい子だ、三薙」

優しく、優しく、頭を撫でてくれる。
一兄にいい子だと言われるのが、嬉しくてしかたなかった。
一兄にいい子と言われるために、なんでもできる気がした。

俺は、いい子なのだろうか。
一兄にとっての、いい子は、どんな子なのだろう。
いい子にしてたら、褒めてくれるのか。
悪い子になったら、どうなるのだろう。

「俺は」

一兄が、目をそっと伏せて、吐息に載せるようにして囁く。
体の中に、一兄の力を感じる。
一兄の鼓動が聞こえる気がする。
とても近くにその存在を感じるのに、とても遠い。

「俺は、お前が大切だよ。お前の傍にずっといる」

目を開いた一兄は、やっぱり変わらず優しく微笑んでいた。
まるでその笑顔が能面のように感じる。
張り付いたような、笑顔。

変わってしまったわけではないのかもしれない。
何も、変わってないんだ。
一兄も、天も、家も、皆も。

たぶん、変わってないんだ。
変わったのはきっと、俺なのだ。
俺が変わり、見える世界が、変化してしまった。

「お前の、傍にいる」

それは、一兄の本当の言葉?
今まで考えたこともなかった。

一兄は、一体何を思い、何を考え、何を為そうとしているのだろう。



***




一兄が出て行った後、ぼんやりと座り込んでいると、襖が開いた。
玄関を開ける音は気付かなかった。
一兄が戻ってきたのだろうか。
忘れ物でもしたのだろうか。

もう、誰が来ようと、どうでもよかった。
誰が来ても、俺が望むものは、ないのだから。
来る人はみんな、絶望を置いていく。
少しづつ少しづつ、心が削り取られていく。

「………みな、ぎ」

けれど、聞こえた声に驚いて、振り返る。
弱弱しく擦れた、消え入りそうな声。
それはいつも自信満々に笑っていた声とまったく違っていて、一瞬別人かと思った。
でも、後ろを振り返ると、そこにはやっぱり想像通りの姿があった。

「そう、にい?」

ぼさぼさになった、長い髪。
だらしなく伸びた髭。
何日も着ているかのような、しわくちゃの服。
お洒落で、いつも綺麗な格好をしていた次兄とは思えない姿だ。

「三薙………」

大丈夫なのか。
どうしていたのか。
何もなかったのか。
どうしてあんなことをしたのか。
聞きたいことはいっぱいある。
けれど突然のことで驚きすぎて、言葉が出てこない。

「なん、で」

双兄が近づいてきて、俺にそっと手を伸ばす。
長身の兄の手に恐怖を感じて、つい身を引いてしまった。

「あ………」

双兄がどうとかではなく、大きな男というだけで、怖かった。
大きな手も、大きな体も、怖い。
いつも女性的な雰囲気だった双兄が、髭や粗暴な雰囲気で男の気配を漂わせているのも、怖い。
もう、誰にも触れられたくない。

「………っ」

俺が怯えて逃げたのが分かったのか、双兄がくしゃりと顔を歪める。
傷ついて泣く寸前の子供のように、苦しげにあえぐ。
触れようとしていた手を、力なく落とす。
今まで見たこともないくらい、頼りなく弱弱しい表情だった。
こんな、双兄を、見たことがない。
いつだって自信満々で乱暴で頼りになってふざけていて、そんな人だったはずだ。

「ご、めん」

気が付けば、俺から手を出していた。
双兄の手に触れると、熱いものにでも触ったように慌てて手を離す。
相変わらず、泣きそうな顔をしている。
そんな双兄は、見たくなかった。
頼むからもう、いつもと違うものは見せないでほしい。
いつものままでいてほしい。
これ以上、俺に変化を感じさせないでほしい。

「だいじょうぶ、だよ。ごめん、ね」

痛む喉で、なんとか繰り返して、もう一度双兄の手に触れる。
けれど、双兄が、ますます、顔を歪める。
いつもみたいに、意地悪く笑ってくれない。

「く………」

それどころか、涙をぼろぼろと流す。
大きな目から、同じように大きな水の粒が溢れてくる。
双兄の涙なんて見たのは、いつ以来だろ。
めったに見るものではなかったけれど、たまに、見かけることはあった。
小さいころ、一兄に怒られて泣いた双兄を見て驚いたのを覚えている。
強い次兄が泣くなんて、思ってなかったから、酷く驚いた。
大きくなってからは、まったく見ることはなかった。

「ごめん、ごめん、なあ、ごめんな。俺、こんなつもりじゃ、なかったんだ。ただ」

それなのに、今、双兄は子供のように泣きじゃくっている。
しゃくりあげて、拙い言葉で、謝罪を繰り返す。

「双兄………」

ああ、見たくなかった。
こんな、双兄は、見たくなかった。
もうこれ以上、本当のことなんて、見たくなかった。
知らなくていい真実なら、知りたくなんてなかった。
嘘の中で微睡んでいたかった。

「ごめん、な、ただ、お前が何も知らないのは、嫌だったんだ。お前に、選ばせたかったんだ。俺…、俺……………、お前を、苦しめるつもりは、なかったんだ。こんな………」

双兄から、少しだけすえた臭いがする。
汗の匂いもあるけれど、これは、胃液の匂いだ。
最近俺も、嫌になるほど嗅いだので分かる。
吐いたのか。
酒の飲みすぎだろうか。
でも、アルコールの匂いは、しない。
そういえば、久しぶりに、双兄からアルコールの匂いがしない。
飲んでないのか。
酒をあんなに、浴びるように飲んでいたのに。

「兄貴は……、俺は、俺は、本当に………」

ああ、そうか。
一兄とすれ違ったのか。
何を話したのだろう。
何を思ったのだろう。

「ごめんな、三薙、ごめんなあ。俺、俺はっ」

何も知りたくなかった。
何も見たくなかった。
本当のことなんていらなかった。

嘘でよかった。
嘘でよかった。
嘘でよかった。

「俺は、俺は、こんなつもりじゃ………」

真実を無理やり突きつけたこの人を、恨む気持ちはある。
弱弱しく泣いて許しを請うこの人を、思う存分詰りたい気持ちはある。

「………」

俺の前に跪き、体を伏せ、まるで土下座をするように泣き崩れる。
いつでも明るく自信に満ちていた次兄が好きだった。
喧嘩をしながらも、ずっと尊敬して、憧れていた。
こんな姿は、見たくなかった。

「双兄」

真実なんて、何もいいことはない。
俺を苦しめたくなかったと言った一兄の言葉も、今なら縋りつきたい。
何も知らなかったころに、戻りたい。

「だいじょうぶ、だよ、双兄」

この人が弱いと言ったのは、熊沢さんだったっけ、双姉だったっけ。
俺が知っている、双兄は、強くて弱みなんて見せなくて、俺をからかって遊ぶ意地悪な兄だ。
こんな俺の前で泣きじゃくるなんてこと、絶対にしない。

「泣かないで」

でも目の前にいる人も、まぎれもなく俺の兄だ。
みっともなく泣きわめくのは、俺だけだったのに。

「泣かないで、双兄」

弱い人。
哀れな人。
俺は、何も知らなかった。
双兄がこんなに思いつめて苦しんでるなんて、何も知らなかった。

「あ、あ、ああああああ、う、あ、ああ」

声を上げて泣く双兄の頭を撫でる。
長い髪は絡んで、指にひっかかる。
なんだか滑稽で、少し笑ってしまった。

「大丈夫、だよ、双兄」

何が大丈夫なのだろう。
何を言ってるのだろう。
自分でも、まったく説得力がない。

「大丈夫」

でも、ただ今は泣いている双兄の涙を止めたかった。
見たくないからだろうか。
可哀そうだからだろうか。
まるで泣く姿が自分のようだからだろうか。

分からない。
ただぼんやりと、双兄の頭を撫でる。

「大丈夫だよ」

大丈夫だったら、よかったのにね。
全部全部、元通りになれば、よかったのに。





BACK   TOP   NEXT