顔を上げると、空はどこまでも青く、5月の太陽の光は目を突き刺すようだ。
髪を揺らす風。
葉擦れの音。
水の甘い匂い。
冷たい水が、肌を冷やしていく。

ずっと、忘れていた、生きている感覚がする。
生きている匂いがする。

宮守の家は、闇や痛みの冷たい匂いがする。
今までずっといた場所だから気づかなかった。
分からなかった。
それしか、知らなかったから。
けれど、一度気づいてしまうともう、気づかないふりは出来ない。

あの家は、死の匂いに満ちている。

「………三薙さん、その」

呼ばれて顔を戻すと、志藤さんが眉を下げた情けない顔のまま俺を見ていた。
いや、見ていない。
視線を彷徨わせ、胸元を掴み、おどおどと、迷子の子供のように頼りなく口を開いては閉じてを繰り返す。

「その………」

また、小さく笑ってしまう。
この人に感じていた恐怖や裏切られたという思い、そんなものが薄れていく。

「志藤さんは」

びくっと動きを止めて、恐る恐る上目づかいにこちらを見てくる。
あの時とは、まったく違う、可愛く優しくどこか情けない志藤さん。
あの怖い志藤さんも、きっと志藤さん。
でも、今目の前にいるこの人も、間違いなく志藤さん。
俺が、知っている、志藤さん。
どちらも、志藤さんだ。

いなくなった訳じゃない。
裏切られた訳じゃ、ない。

「志藤さんは、俺のためを、想ってくれた、んですよね」
「………っ」

志藤さんがまた視線を落とし、唇を噛みしめる。
好意を持たれているのは、分かった。
ようやく、理解できた。
それがどういう種類の感情なのかは、とりあえず置いておこう。
そして好意を持たれることで、この後この人を傷つけることになるかもしれない。
それも、今は考えないでおこう。
今は、そういうことは、気にしないでおこう。
ただこの人の怯えを、恐れを、後悔を、取り除いてあげたい。

「ありがとうございます。それは、嬉しいです。とても、嬉しいです。俺を、大事に想ってくれて、ありがとう」

少なくともこの人は、俺を、大切に思ってくれた。
俺を失いたくないと、思ってくれたんだ。
ほとんどの人が俺の犠牲を望む中、この人は俺自身を望んでくれた。
生きて、このままの俺を、望んでくれた。

「三薙、さん」

志藤さんがまだ怯えに揺らぐ目で、俺を見る。
急に強く頼もしくなってしまった、優しくて、可愛い人。

「でも、怖かったです。俺の話を、聞いてほしかったです。俺の言葉を、聞いてほしかったです」

強い人。
でも、弱い人。

「ごめ、ん、なさい!」

志藤さんが顔をくしゃりと歪めて、まだ涙を溢れさせる。
本当に、小さな子供のようだ。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「………はい」

繰り返す謝罪は痛みに満ちていて、こちらの胸も痛くなる。
傷つけたいわけじゃない。
大事な人だ。
とても、大切な人だ。
この人も俺を、大事に思ってくれている。
俺と、志藤さんの感情の種類は、違うのかもしれないけれど。

「俺も、気づかなくてごめんなさい。甘えてしまって、ごめんなさい」
「そん、な」
「これからは、俺の話、聞いてほしいです。今までみたいに。それで、志藤さんの話をしてください」
「みなぎ、さん………」

これからが、後どれくらい、あるのだろう。
俺はもしかして、とても残酷なことを言っているのだろうか。
ここで、この人を許さず拒絶した方が、この人のためなのだろうか。
分からない。
でも今はただ、笑ってほしい。
笑顔を見せてほしい。

「聞いて、くれますか、話してくれますか?」

志藤さんがぼろぼろと大きな涙のつぶを流しながら、何度も頷く。

「は、いっ、はい!」

胸がずきずきと、痛む。
この人を、俺は置いていくのか。
結局、志藤さんを傷つけるのか。
笑っていてほしいのに。
大事なのに。
俺の存在が、志藤さんと、岡野を、傷つけることになるのか。

「はい………っ」
「そんなに、泣かないでください」

川の水と涙でびしょ濡れの頬を拭うが、俺の手も濡れているから全然乾かない。
また濡れてしまうだけだ。

「ご、ごめ、ごめんなさい」

志藤さんが慌てて頬を拭うがやっぱり、頬は濡れたまま。
なんだかおかしくて、笑ってしまった。

「で、いつまでそこに浸かってるの?」

ふいに声をかけられてそちらを向くと、弟が川岸で立っていた。
逆光を背に負う弟の顔は影になっているが、それでも呆れた表情をしているのが分かる。

「天も来るか?気持ちがいいぞ」
「………」

心底呆れたように眉を吊り上げる。
怒りも恐怖も悲しみも焦燥も、今は感じない。
ただ、胸が痛くて、少しだけ穏やかだった。

「ほら、ちょっと冷たいけど、気持ちがいい」
「とっ」

ほんの少しだけ浮き立つ心のまま、水を救い上げ、弟にかける。
それほど勢いはないから、天のシャツをわずかに濡らすだけに終わった。

「やめてよ」
「あはは」

憮然として答える弟がなんだか幼くて、おかしい。
俺に死ねという人間なのに。
どっか、麻痺してしまったのだろうか。
ああ、でももういい。
今は、考えたくない。

「そうだね、たまにはいいかもね」
「え」

憮然としていた天が、ふいに小さく笑う。
何を言われたのか分からず顔を上げると、靴を素早く脱いだ天がざぶざぶと水をかき分けて川の中に入ってきた。

「といっても浅いなあ。あっちならもっと深いかな?」
「え、え、え?」

俺の横を通って、更にざぶざぶと奥の方を目指す。
通り過ぎる瞬間に腕を掴まれた。

「うえ!?」
「兄さんもどうぞ?」
「え?」

そしてそのまま数歩引きずられるようにして歩くと、思いきり放り投げるように押し出された。
突然のことに反応できず、背中から水に倒れこむ。

「う、わ!」

水の衝撃はそれほどでもないにしても、急に深い所に頭からつっこみ、口からも鼻からも水が入る。
咄嗟に目を瞑ったものの、鼻に水が入って、つんと痛む。
シャツと靴とズボンが水を吸って、体が重くなる。
溺れるんじゃないかと焦ってもがくと足はちゃんとついた。
なんとか足をついて顔を水から出す。

「わ、ぷ!げほっ、けほっ、な、にすんだよ!」

水は幸い胸のあたりまでしかなかった。
綺麗な水だから、不快感はあまりない。
でも痛いし、苦しい。

「あはは」

俺の抗議に天は楽しそうに笑うと、そのまま自分も水の中に潜り込む。
そしてすぐにざばりと、顔を出す。

「ああ、うん、気持ちがいいな」

頭の先までびしょ濡れになった天が長めの髪を掻き上げ、笑う。
言葉通り気持ちがよさそうに目をつむり、空を仰ぐ。

「………」
「なに?」

思わずじっと見てしまうと、天が楽しげな表情でこちらに視線を向ける。

「いや………」

天のこんな笑顔を、どれくらいぶりに、見ただろう。
気が付けば、弟が見せるのは、皮肉げな冷笑だけになっていた。
いつから、見ているこっちが微笑ましくなるような、無邪気な笑顔を、見せなくなっていたのだろう。
いつから、変わってしまったのだろう。

「泳ぐのなんて、この前のたつみの時以来か」
「そう、だな」

天が泳いでいるのを横目に、俺も水面に背中を預けて仰向けに浮かぶ。
足が重かったから、靴を脱ぎ棄てる。
服も脱いでしまいたいが、さすがに問題だろう。
そのまま浮いて、大きく深呼吸をする。

「たつみかあ。随分、昔に、感じるなあ」

露子さんに湊さん、そしてたつみ。
美しい湖を中心とした、神秘的な街。
管理者の家はどこか重苦しく陰鬱なのに、あまり感じなかった。
立見家、度会家、石塚家、そして東条家。
立見家だけ、なんだか、からっとして、明るく感じた。
あれは、露子さんの気質によるものだろうか。
陰惨な事件はあったはずなのにな。

「ワラシモリに会ったのも、もう一年前なんだよなあ」

白い花畑の中の、毒々しい紅。
優しい少女。
禍々しく無邪気な神。
はじめての仕事。
今でも生々しく刻まれている、苦い思い。

「あっという間の、一年だったな」

それからいくつかの仕事を経験して、友人と出会って、好きな人が出来て、嬉しいことも哀しいことも辛いことも楽しいことも、沢山あった。

「でも、これまで生きてきた中で、一番充実した、一年だった」

この一年と比べると、まるでその前の俺は、息をしていなかったようだ。
世界が色づき、動き、生命を吹き込まれた。
はじめて自分の手で色々なものを掴み、選んだと思った。
それも全部全部、意図されたものだったのだけれど。
結局全部、嘘にまみれた世界だったのだけれど。

「………でも、楽しかった」
「そう」

楽しかったんだ。
嬉しかったんだ。
愛しかったんだ。
とてもとても、世界を、愛しく感じたんだ。

「三薙さん、四天さん!」

足をつき体を起こすと、志藤さんが困ったように浅瀬で立っていた。
どうしたらいいか分からないのか、所在なさげに眉を下げている。

「気持ちがいいですよ、志藤さん」

だから俺は手を大きくふる。

「えっと」
「こっちに来てください」
「は、はい!」

志藤さんは困ったように首を傾げたが、すぐに頷いてくれた。
ざぶざぶと大きく水を掻きわけて、こちらに近づいてくる。

「………犬」
「そういうこと言うな」

天がぼそりと横で呟く。
制したものの、確かになんだか小走りで近づいてくる志藤さんは、ちょっと犬っぽくてかわいいかもしれない。
なんて、失礼だ。

「………」

天が笑っていて、志藤さんが傍にいて、皆笑っていて。
こんな日常が、続けばいいのに。

それだけが、望みだった。





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