「………四天さん」
「ええ」
「どうされますか」

前の座席に座る二人が、何かを、話してる。
でも、何も頭に、入ってこない。

「………」

気持ちが悪い。
寝不足のせいか、昨日のアルコールのせいか、吐き気がする。
車の揺れも、匂いも、むかつきを増長させる。
世界が、いまだに、ぐるぐるとまわっている。
今にも、吐いてしまいそうだ。
頭痛はいまだに消えない。
吐き気もやまない。
気持ちが、悪い。

「車を止めてもらえますか、志藤さん」
「はい」

背もたれに体を預けて目を瞑っていると、気が付けば停車していた。
揺れが止まって、少しだけ楽になる。
詰めていた息を吐くと、横のドアが開く気配がした。

「大丈夫、兄さん?」
「あ………」

声をかけられ目を開くと、天が俺を覗き込んでいた。
逆光で表情はよく見えないが、どこか呆れた様子で見下ろされている。

「………だい、じょうぶ」

言いながらその情けない声に、自分でも説得力がないと思った。
口を開けば、今にも、吐いてしまいそうだ。
気持ちが悪い。
天が大きくため息をつく。

「う、あ」

それから車の外に乱暴に引っ張り出された。
地面に倒れこむようにして膝をつくが、腕を支えられているせいかそれほどひどくは打たなかった。

「な、に」
「一回吐けば?」

道路のわきの側溝に座らせられ、上からそう言われる。
何かを言う前に、側溝にこびりついている泥の匂いに、吐き気が増す。

「………う、え」

思わずえづいて、胃が痙攣し、喉が震える。
けれど、うまく吐けず、喉に胃液の酸っぱさを残すだけだ。
その味が気持ち悪くて、余計にまたえづく。
けれど、やっぱり、吐けない。

「は、あ、ぐっ」

地面に手をついて、側溝に身を乗り出す様にして、何度もえづく。
けれど胃液が喉までこみあげてくるだけで、苦しさに涙が溢れるだけ。
苦しい。
吐きたい。

「ぐ」
「もう」

天がもう一度大きくため息をついたと思ったら、いきなり後ろから顎を掴まれた。
頭を振り払う暇もなく、強い力で顔が固定される。

「う!?

そのまま口を開かせられて、口の中に何かが入ってくる。

「ぐっ、く」

涙で滲む視界の中で見えた何かは、天の指だった。
思わず閉じそうになる口を無理やりこじ開けられ、天の人差し指が喉の奥をつく。

「うげっ、げっ」

何度か喉の奥をつかれると、胃が一際大きく痙攣して、苦しさがせり上がってくる。

「う、え」

大きくえづくと、天が手を離して、顔を側溝に向けさせられた。
こみあげてきたものを、そのまま、吐き出す。

「うげ、げ、げえ」

わずかに食べた朝食が、ぼとぼと側溝に落ちる。
胃液と、食べ物の腐った、異臭。
それを見て、更に吐き気がこみあげ、水と、胃液を吐き出す。

「げ、う、ぐ」

何度も何度もえづき、胃の中のものを出すと、空っぽになった胃が、わずかに震えた。

「は………、けほっ、けほ」

すべて吐き出すと、気持ち悪さはなくなったけれど、喉のひりつきと、奥の酸っぱさが不快で、何度も咳き込む。
異臭も、口の周りの唾液や胃液も、汗で髪や服が張り付く感触も、全てが不快だ。

「かはっ、は」

けれど、しばらく咳き込むと、先ほどのまでの吐き気が嘘のように、すっきりとした。
座り込んだまま、何度も呼吸を繰り返す。

「すっきりした?」

ぼんやりとしたまま上を見上げると、天が隣で腕を組みながら見下ろしていた。
苦しさからの解放感に何も考えられず、ぼんやりと頷く。

「………う、ん」

そっと逆の隣から、ペットボトルを差し出される。
水滴がついたそれは冷たそうで気持ちよさそうで、ごくりと唾を飲み込む。

「………三薙さん、大丈夫ですか?水です。ゆすいでください」
「ありがとう、ございます」

小さな声にただ頷いて、それを受け取る。
早く飲んで喉の奥の不快感を消してしまいたくて、大きく呷る。

「ぐ、げほっ、けほ」

傾けすぎたせいで零してしまい、鼻と気管に入りまた咳き込む。

「けほっ」
「その、失礼します」

控え目な声と共に、優しく背中を摩られた。
その大きな手に心地よさを感じながら、気管に入った異物を吐き出す。

「大丈夫、ですか?」

何度も咳き込み落ち着くと、ようやく、ぼやけた視界が景色を結ぶ。
目の前には心配そうな、眼鏡の男性の顔があった。
鼻水や胃液や唾液で汚れているだろう俺の顔を、丁寧にハンカチで拭ってくれている。

「あ………」
「どうぞ、今度は、ゆっくりと含んでください」
「う、ん」

ペットボトルを支えて、そっと俺の口元に当ててくれる。
少しづつ入ってくる水を、ゆっくりと含み、軽くゆすいで吐き出す。
口の中の不快感がそれで薄れると、もう一度志藤さんが水を含ませてくれる。
それをごくごくと飲み込むと、体の中が綺麗になっていく気がする。
水は甘く、冷たい。

「………ん」

空っぽの胃の中に入ってくる感触は気持ち悪かったけれど、舌に触れる水は美味しかった。
手伝ってもらって半分ほど飲み干すと、気分の悪さはすっかりなくなっていた。

「おい、しい」

そう言うと、隣にいた志藤さんは、嬉しそうに眼を細めた。
ああ、この人の、こんな表情を、久しぶりに見た気がする。

「この近くに川があります。そこで、少し休んでいきましょう」

今気づいたが、周りは、林に囲まれた山道のようだった。
車通りも人気もあまりないが、休むには、適してないかもしれない。

「………」
「少し、走りますが、大丈夫ですか?」
「………はい」
「では、申し訳ないのですが、しばらく我慢してください」

気分の悪さは、なくなっていた。
ただ空っぽの胃と、胃液で焼かれた喉がひりひりと痛むぐらいだ。
天に手をひっぱられるようにして、車に戻る。
後部座席に倒れるようにして横になると、シートがひんやりとして額を冷やしてくれる。
エンジンがかかって少し緊張したが、窓が開かれ、風が入ってくると、その気持ちよさに力が抜けて行った。

「………」

先ほどまでは脳を揺らす悪意を感じた振動が、今度は心地よく体を揺らす揺りかごのように感じる。
そのまま目を瞑って心地よさにうとうととして意識を夢と現の間で遊ばす。
けれどまたしばらくして、今度はガタガタとした強い振動に気持ちよさは終わり、意識を奪われる。
車が止まり、声がかけられた。

「降りられる?」
「………うん」

天が前の座席から覗き込んでいる。
頷いて、のろのろと、体を起こし、ドアを開く。
眩しさに目がくらみ、一瞬目を瞑る。

「………あ」

恐る恐る目を開くと、明るい光景が広がっていた。
ガタガタした理由は、砂利だったらしい。
車を止めた場所は河原で、下には砂利、そのすぐ奥には太陽を反射して輝く川、そしてその奥には岩肌と緑があった。
空はどこまでも青く、さらさらと流れる水の音は、心地よく響く。

「………」

やや冷たい風が吹き抜け、髪を弄ぶ。
水を含んだ風は、とてもいい匂いがする。
日差しの熱が、肌を焼く。

自然と、車から降り、足が川に向かった。
温かな日差しが、爽やかな風が、綺麗な水の音が、五感のすべてを刺激する。
まるで現実感を感じなかった体が、少しづつ、感覚を取り戻していく。

「きれ、い」

肌を焼く日差しの熱さが、足の裏の砂利の痛みが肌を刺激する。
水の匂いがする風が、鼻腔を擽る。
さらさらと響く水の音が、耳に心地よい。
輝く水が、存在を主張する新緑に、目を奪われる。

「………綺麗だな」

ふらふらとそのまま川に近づき、屈みこむ。
水は透き通り、底の砂利が見える。
何匹かの魚が、流れに逆らうようにして泳いでいる。

「………魚」

何気なく、そっと水面に手を伸ばす。
触れられるわけがない。
でも、冷たいだろう水にも触れたかった。

「三薙さん!」
「え」

その時焦ったような声と共に、腕をひかれた。
反射的にその腕から逃れるように前に体を傾ける。
屈みこんでいた体勢ではバランスが悪く、そのまま顔から水に突っ込んだ。

「う、わ!」

ばしゃりという音が聞こえたとともに、顔に冷たさと衝撃が走る。
呼吸が出来なくなって、慌てて手をついて顔を上げる。

「わ、ぷ!」

幸い川は岸に近かったので、それほど深くない。
手をついたちょうど肘ぐらいの深さだった。
ただ驚いて、状況が認識できなくて、ぼうっとしてしまう。
5月の水はまだまだ冷たく、ぶるりと一つ震えが走る。

「あ………」

声がして、顔をあげる。
そこには水の中で尻もちをついた志藤さんがした。
眼鏡がずり落ちて、どういう落ち方をしたのか、頭からずぶ濡れになっている。
志藤さんも呆然としたように、ただ水の中に座り込んでいる。

「えっと、志藤、さん?」

さっき、俺の腕をつかんだのは、志藤さんだったのだろうか。
何が、したかったのだろう。
俺の疑問が伝わったのか、はっと我に返る。
それからいまだ呆然としたように、たどたどしく口を開く。

「あ、その、あなたが、水に、吸いこまれる、ようで」
「え、あ、魚、が、いたから」
「危ない、です」

お互い、なぜか、ぎこちない話し方になっている。
心配、してくれたのか。
でも、座り込む俺たちがいる川は浅瀬で、水の流れも速くない。

「あ、で、でも、浅いし………」
「あ」

そこで志藤さんの表情が、さっと変わった。
眉をさげ、唇を噛みしめる。

「ごめん、なさい」

声が震えている。
今にも、泣き出しそうな、声と、表情。
失敗をしてしまい、叱られるのを待つ子供のように絶望感と、悲壮感に満ちている。
頼りなく、可哀そうで、痛ましさを感じる表情。

「ごめんなさい」

それから、震える声で、謝罪を口にする。
視線を逸らし、俯いて、胸元を抑えるその様子は本当に小さな子供のようだ。

「ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい」

何度も何度も繰り返すうちに、声が更に震える。
水だけでなく、目じりに水の玉が出来る。
しゃくりあげ、大きく震える。

「ごめんなさい、三薙さん、ごめ、ん、なさい、ごめっ、ごめんなさい」

顔をあげた志藤さんは、泣いていた。
ぼろぼろぼろぼろと、後から後から、大粒の涙が、溢れてくる。

「ご、ごめん、なさい、ひっく、ご、ごめ、ん、なさい」

俺よりもずっと大人な、強い人が、頼りなく子供のようにしゃくりあげ、辺りも気にせず泣いている。
スーツはぐちゃぐちゃで、髪もびしょ濡れで、眼鏡もいまだずり下がっている。
そんなみっともない姿のまま、志藤さんは謝罪を繰り返す。

「ごめ、ごめんなさい、みなぎ、さん」

強い人。
ずっと先に行ってしまった。
置いて行かれたと思った。
怖かった。
別人のようだった。
俺の意思を無視して、ねじ伏せようとした。

「あ、は」

怖かった。
寂しかった。
悔しかった。
哀しかった。

「あはは、はは」

でも、目の前にいる、この人は、志藤さんだ。
ああ、間違いなく、志藤さんだ。

「はは、はっ」

強くて弱くて頼りになって可愛くて。
一緒に、強くなろうって思って、支えて、支えられて、手を取り合った人。
大事な大事な、人。

「みな、ぎ、さん」

その縋るような、頼りない不安そうな顔を覚えてる。
ああ、志藤さんだ。
別人なんかじゃなかった。
志藤さんは、ここに、いた。

「大丈夫」

手を伸ばすと、殴られるかのように目を瞑り、びくりと震えて身を竦める。
思わず笑いながら、その眼鏡を直す。

「大丈夫、ですよ、志藤さん」
「………三薙さん」

恐る恐る目を開けた志藤さんの頬に張り付いた髪を払う。
いまだに怯える志藤さんに、笑いかける。

「水、気持ちがいい、ですね」

ああ、水が冷たくて、気持ちがいい。
透きとおって綺麗な水は、体の中のものを洗い流してくれるようだ。

「えっと………」
「気持ちがいい、ですね」

冷えた体を、日差しが温めてくれる。
水も風も俺たちなんて気にせず流れていく。

「………ああ、気持ちがいい、な」

目を瞑って、大きく息を吸い込むと、水と緑の匂いがした。





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