「こちら、頼まれていたお洗濯ものです」

旅館の仲居さんが、大きな紙袋を差し出してくる。
中身は昨日川に落ちてびしょ濡れになってしまった服だ。
志藤さんがそれを受け取り穏やかに笑う。

「ありがとうございます。お手数おかけいたしました」
「とんでもございません。ごゆっくりできましたか?」
「はい、とてもくつろぐことが出来ました」
「またいらしてください。お待ちしておりますね」
「はい、是非」

壮年の女性は志藤さんの笑顔に、頬を緩めているように見える。
いや、俺の気のせいかもしれないけど。
荷物を車に乗せてくれて殊更丁寧にお辞儀をする仲居さんを背にして、車を発進させる。

「洋服、一日で渇くんだな」

成り行きでシートまで持ってきてしまった袋の中を覗く。
中にはちゃんと俺と天と志藤さんの服が綺麗に畳まれて入っていた。
勿論綺麗に渇いている。
俺のジーンズやシャツ、それにポケットに入れっぱなしだった一兄のお守りなんかも入っていた。

「今日はもう、東条家につくよ」
「………うん」

隣にいた天が、ぼそりとつぶやくように言う。
ゆっくりと進んでいたとはいえ、元々一日でいけてしまう場所だ。
そう長くは、旅を続けてはいられない。
いっそこのままどこにも辿りつけなければよかったのに。

「………よくお休みになれましたか?」

志藤さんが運転席から恐る恐る聞いてくる。
そのなんだかおっかなびっくりな様子に、少し笑ってしまう。
心が少しだけ、軽くなる。
最近は眠れない日が続いていたが、昨日が疲れたせいかすぐ眠れた。

「はい、眠れました。志藤さんも、眠れましたか?」
「………ええ、はい」

志藤さんは困ったように、曖昧な返事を返す。
昨日は三人一部屋だったし、やっぱり落ち着かなかっただろうか。

「眠れるわけないよねえ」
「四天さん」

四天がのんびりと、けれどからかうように言う。
志藤さんが少しだけ低い声で天の名前を呼ぶ。

「一晩中、ムラムラして眠れないってなんか俺がおっさんくさいな」
「四天さん」
「志藤さん、兄と弟を寝るようなビッチでいいの?」
「四天さん!」

とうとう、志藤さんが、声を荒げた。
ああ、もしかしてそういう意味で落ち着かなかったのか。
いや、でも俺だぞ。
俺なのに、そんなことになるのか。
なんか申し訳ない。
いたたまれなくて、俺の顔も熱くなってくる。

「最近、なんか更にタチ悪いし」
「四天さん、もうおやめください」
「そういうところは嫌じゃないの?」
「だから、嫌じゃありません!」

車の中に響き渡る大きな声。
そして少しだけ車が揺れる。
そういえばこの人、たまに運転が危険な時があった。
天が顔を顰めて、耳を抑える。

「うるさい。後、ちゃんと運転してください」
「す、すいません!」

志藤さんは特に悪くないのに、なぜか謝る。
天って改めて見ると、やっぱり性格悪いよな。
俺の受け取り方が悪いのかと思っていたが、性格悪いのは間違いないと思う。
ていうかなんか、志藤さんには気安い気がする。
この二人って、やっぱり仲がいいのだろうか。
前から感じていたが、どうにももやもやする。

「つまり、ビッチな兄さんが好きってこと?」
「そういう訳ではありません!」

志藤さんがハンドルを握って前を向きながら、ムキになったように言う。

「私は、三薙さんの真っ直ぐなご気性や不器用な性格を、好ましいと思うんです!」

志藤さんの声の余韻が、しん、と車の中でフェードアウトする。
一瞬訪れる沈黙。
どうしよう、恥ずかしい。
相変わらずの過剰な褒め言葉に、いたたまれない。
別に真っ直ぐとかではない。
性格もそんなによくない。
そう言われるのは、嬉しくは、あるけど。

「あ、その、ありがとうございます」
「あ、え、あ」

志藤さんの横顔も赤くなっていく。
なんていうか、本当に可愛い人だ。
やっぱり、志藤さんのこと、好きだな。
これは、演技じゃ、きっとないだろうし。
真っ直ぐに好意を表してくれるのは、申し訳なくいたたまれなく、でも嬉しい。

「はー、自分でふっておいてなんだけど、聞いてるこっちが恥ずかしいね」

天は、自分で志藤さんを追い詰めておきながらつまらなそうにため息をつく。
どこまでも自分勝手な奴だ。

「………お前はそろそろいい加減にしろ」
「することにする」

それからちらりと後ろに視線を送る。

「後ろ、誰もいないね」
「はい、今日はおそらくはもういないようです」
「え」

志藤さんもバックミラーをちらりと見て頷く。
なんのことか分からず隣にいた天の方を見る。

「なんか、いたのか?」

天は髪を掻き揚げながら、シートに背を預ける。

「どうも昨日一昨日は、熱烈に追いかけてくれる車がいたんだよねえ」
「え」

なんだ、それは。
全然気づかなかった。
そういえばそんなような話を、二人がしていたっけ。
気持ち悪くて、あんまり覚えていないのだが。

「今日はいないみたいだけど」
「どういう、ことだ?」
「さあ」

俺たちの後をつけてくるような人間。
それは、誰なのだろう。
そういえば宮守は大きな家だから、他家からとかも動向を注目されているって言ってたっけ。
では、その辺の関わりなのだろうか。
それとも、違うのだろうか。
宮守ではなく、俺たちを、俺を監視する人間。
それは、他家なんかよりもっと身近にいるはずだ。

「………家の、人?」
「が、一番可能性高いかなあ。他である可能性もあるけどね」
「………そうか」

志藤さんと天をつけてなお、信用できないのだろうか。
俺が逃げ出さないように、見張っているのだろうか。
胸にまた重しが一つ積み上がる。
こうやって俺は、ずっと、逐一監視されてきたのか。

「………もう、いないのか」
「いないみたい。今日は東条家に到着するから、いなくなったのかな」

言いながら、けれどどこか納得いかないように首を傾げる。
天にも理由が分からないのだろうか。
それとも知っていて、黙っているのか。
いや、でも、天は嘘はつかないはずだ。

「少し、スピードを緩めて確かめます」
「そうですね、お願いします」

志藤さんがそう言って、アクセルを緩める。
けれど、しばらく走っても、後ろを追いかけてくる車は見当たらなかった。



***




のんびり来たけれど、すぐに目的地には辿り着いてしまった。
村は変わらず山奥で、けれどそれにそぐわないほどに活気づいている。
この村は林業と農業で、栄えているらしい。
輸入木材が入って危なかった時期も変わらず、質のいい木材と自然災害に見舞われず安定した供給で、黒字で運営されていると聞いた。
この繁栄の裏に何があるのか知ってしまうと、素直に賞賛する気にもなれないのだけど。

けれど車から見える光景は、とても平和で穏やかだ。
時折通りかかる人たちもとても穏やかな顔をしている。
彼らの幸せが平穏で幸せであることを予想させる。
少なくとも、この村の人たちにとって、この安定は必要なものであるのだ。

「………」

この穏やかな光景とは全く違う、東条家のどこか暗い空気を思い出す。
この村を支えるために、礎となっている一族。
ぐちゃぐちゃした感情で、喉がつまる。
何が正しく、何がいいかなど、分からない。

「………あれ、東条家じゃない?」

重い感情を振り払うために顔をあげて、気づく。
村の中心にある東条家には向かわない車を不思議に思って問うと、横で寝ていた天が起きて伸びをする。

「うん、今回は宿の方に来てくれってさ」
「そう、なのか。なんで?」
「多分、会わせたくないんだと思うよ。あの娘さんたちに」
「………」

子供を失った二人の女性。
半狂乱になって泣き叫ぶ姿は、未だに脳裏に焼き付いている。
忘れることなんて、出来そうにない。
俺と会ったら、彼女たちの傷を抉ることになるだろう。
それに俺も、由紀子さんとはどんな顔をしてあったらいいのか、分からない。

「そう、か」

そして到着したのは、村のやや外れにある旅館だった。
比べるのは悪いが、昨日泊まった宿が豪華で綺麗だったから古く小さく感じる。
けれど、その年季にこそ風情を感じもする。

「まあ、ようこそおいでくださいました。東条家のお客様ですね。どうぞお入りください。静子様にすぐにご連絡いたします」

宿に入るとすでに手配されていたようで、女将さんが部屋まで案内してくれた。
8畳ほどの部屋は、古いがよく清掃されていて小ざっぱりとしていた。
テレビと冷蔵庫と小さな床の間があり、花が活けられている。
志藤さん用にも一室用意されていたので、二人だと広すぎるぐらいだ。
部屋に入りお茶を淹れてもらい、しばらく休んでいると女将さんがドアをノックする。

「静子様がいらっしゃいました。お通ししてよろしいでしょうか」
「はい、お願いいたします」

天が応答すると同時に、俺と志藤さんも居住まいを正す。
ドアが開いて現れたのは、背筋のぴんとのびた、和装の威厳のある老女。
一年前から変わらず鋭い視線を持ち、張り詰めた空気をまとっている。

「失礼いたします。ああ、お茶は結構です。案内ありがとう。下がっていてくれて結構よ」

静子さんが穏やかに告げると、女将さんは頭を下げて部屋から去っていく。
それを見送った静子さんは、改めて向き直しその場に座り綺麗な仕草で頭を下げる。

「お久しぶりです。再びのご来訪、嬉しく思います」

天も営業用の顔になり、東条家当主である大刀自に向き合う。
そして深々と頭を下げた。

「お久しぶりです。またお会いできて光栄です。急な申し出にも関わらず、快く承諾してくださって恐悦至極に存じます」
「本来なら当家でお迎えするのが当然のところ、このような場所での出迎え、誠に申し訳ありません。東条の母屋は現在事情があり、お客人をお泊め出来るような状態ではなく、ご不便おかけいたします」
「こちらが無理なお願いをしているのです。そのようなことおっしゃらないでください。宿も手配までしていただき、感謝しております。このようなところまでお運びいただき、こちらこそ申し訳ありません」

当主と当主代理同としての堅苦しい挨拶が何度か交わされる。
ぼうっと見ていると、やっぱり俺はこんなこと出来そうにないなと感じてしまう。

「このたびのご用向きは、ワラシモリにお会いしたいとか」
「はい、東条家の神に拝謁願えればと図々しくも訪れた次第です」
「………そうですか」

静子さんはそっと、少しだけ目を伏せた。
そこには、これといった感情は、見えない。
ただただ、穏やかに、けれどどこか冷たく、静かな目をしている。

「あれは姿通り子供のように気まぐれな神。いつでも出会えるとは限りません。それでもよろしければ、どうぞ村の中でご自由になさってください。ただ、森の中は危険ですので、お入りにならないように」
「心得ております」

自分で頼んでおいてなんだが、よく許可してくれたものだ。
嫌じゃなかったのだろうか。
管理者の家は、他家の立ち入りを嫌う。
この家も、そうだったはずだ。
必要以上に、関わられるのを、嫌っていた。
宮守家とは付き合いが長いって話だが、それだけ親しいのだろうか。
頼みが断れないぐらい。

「では、私はこれで失礼させていただきます。お構いもできませんで申し訳ありません。何かお困りのことなどございましたらいつでもご連絡ください」
「お心づかい感謝いたします。こちらこそ不躾なお願いで申し訳ありませんでした」
「いえ、ごゆっくりお過ごしください」

そして別れの挨拶を告げ、静子さんが立ち上がる。
ドアを開き外に出ようとしたところで、天が声をかけた。

「そういえば、東条家では慶事があったとか。ご挨拶が遅れました。お喜び申し上げます」

静子さんが振り向き、にっこりと綺麗に笑う。
とても綺麗な笑顔だったが、なぜか背筋がぞっとした。

「これはありがたいお言葉、いたみいります。あの子たちにも伝えておきます」
「心身ともに健やかなるよう、心よりお祈り申し上げます」

そして今度こそ、静子さんは出て行った。
最後の会話がよくわからなかったので、天に問う。

「慶事って?」

天が楽しそうに小さく喉の奥で笑う。

「あの娘さんたちが二人揃ってご懐妊らしいよ」
「かいにん………て」

何度かその言葉の意味を租借して、ようやく、飲みこめる。
ああ、だから、東条家には、立ち入れなかったのか。

「子供、が」
「とりあえず今回は、とられる恐れのない子供だ。よかったね」

血の気が引いていく。
眩暈がして、吐き気がした。

「次は21年後、あ、もう20年後か。誰が生むんだろ。殺すために子供を産むって、どんな気分なんだろうね」

ぐらりと視界が揺れて、体が傾く。

「三薙さん!」

倒れこむ寸前に、背中を大きな手が支えてくれた。
嫌な汗を掻いて、服が張り付く。
ああ、気持ちが悪い。

「ご当主はまったく顔色一つ変えず。鋼の意思だね」

天が顔を歪めて笑う。
とても忌々しそうな、苦いものを噛んだような、笑顔。

「本当、当主って生き物は、厄介だ」



***




昼食を食べる気にはまだなれなかったので、早々に、花畑に訪れた。
どんよりとした曇天の下で白く輝く、シロツメクサの群れ。
それは一年前と何も変わらない、どこか不安になる、けれど美しい光景だった。

「変わらない、な」

幼い少女の声が、聞こえてくる気がする。
ここで花を編むと約束したのは、もう1年の前なのか。
会ったのはたった一度きり、けれど胸に強く刻み込まれた、愛らしい姿。

「………」

あどけない笑顔で、お母さんのために腕輪を作ると言っていた。
母思いのあの子は、最後、何を思ったのか。
辛い思いは、しなかったのだろうか。

「こちらに、東条の神がおわすのですか?」
「ここっていうか、村中に現れるみたいだね。前に会ったのがここ。しかし、神っていうのかねえ。ただのバケモノでしょ」
「………」

遠くまで見渡せる花畑に視線を巡らせても、特に人影はない。
そういえばこんな楽しそうな場所なのに、子供が訪れたりも、しないんだな。
立ち入らないように、されているのか。

「………ワラシモリ、いるか?」

辺りはしんとして、風の音しか聞こえない
何かが現れる気配はない。

「………」
「出てこないねえ」
「人ならぬものは、本当に気まぐれですからね」

そのまましばらく待ってみたが、やっぱり現れない。

「………いないな」
「森にはいかないよ」
「分かってる」

あの森には俺だって、もう入りたくない。
思い出したくないことが、多すぎる。

「俺、お腹へった」
「一度、戻るか」

夜になったら、また現れるかもしれない。
人ならぬものの領域である夜に出歩くのは危険だが、天も志藤さんもいるなら大丈夫だろう。

「行くか、っと」

突風が吹いて、目に砂が入り、思わず目を瞑る。
異物を流すために、自然と涙が溢れる。

「つっ」

何度も瞬きをすると、涙が流れて異物感が消える。
安堵にふっとため息をつく。

「大丈夫?お兄さん」

声が、響いた。
まだあどけない、小さな少女の高い声。
強い既視感。
一瞬にして、その場の空気が変わる。
まるで神域のような人を寄せ付けない清浄な圧迫感。

「お久しぶりね」

振り返ると、白い世界に、毒々しいまでの赤が存在していた。
白い布にたらされた、一滴の血のように。

「花の腕輪を作りましょう?」

赤い着物を身にまとい、肩で切りそろえたつややかな黒髪がさらりと風に揺れる。
幼い少女は、大人びた様子であでやかに笑った。





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