学校に、行きたくない。 体が重い。 岡野の顔を見たくない。 彼女が傷つく顔は、もう見たくない。 でも、何事もない顔をしないと。 ここで俺が休んだら、変に思われるかもしれない。 岡野は、俺の大事な、友達。 「………行こう」 逃げても、どうにもならないのだから。 何も、事態は進まないのだから。 今日の玄関には、人影が二つあった。 顔を顰めそうになるが、なんとかこらえて笑顔を作る。 嫌な顔をしたら、ただ喜ぶだけだ。 「おはよう、二人とも」 藤吉はやっぱり辛そうに、小さな声で挨拶を返す。 隣の佐藤が、頭の上の大きなお団子を揺らして、今日も明るく笑う。 「おはよ、生贄君!すごいね奴隷根性!」 あっけらかんと言われた言葉に、もうなんか怒りや呆れを通り越して脱力してしまう。 「むー?」 思わず笑ってしまった俺に、佐藤は不満そうに唇を尖らせる。 そんな佐藤をしり目にため息交じりに、さっさと靴を履く。 「佐藤、ストレートすぎて怒るとか傷つく前に、笑えてくる」 「むー!」 佐藤は頬を膨らませて唸る。 玄関から出る俺の後ろからついてきて、ぶちぶちと何か文句を言っている。 「もう、難しいなあ」 どこか人間離れした気配。 邪気がにじみ出るような笑顔。 人を傷つけることを何より楽しむ、悪意の塊。 この気配は、やっぱり、知っている。 「佐藤は、あの家の、あの子供、だったの?」 振り返って問うと、佐藤は驚いたように目をパチパチと瞬かせる。 それからぱあっと花開く様に破顔する。 ああ、この笑顔が、昔は好きだったな。 「分かってくれたの!」 「なんとなく。やっぱりそうなんだ」 「うん、嬉しいな!ありがと!」 抱きつかれそうになったので、避ける。 意識してみると、本当に動きが早くて隙がない。 油断してたら、そりゃすぐに抱き着かれるよな。 「あ、避けた!もう!ねね、私小さい頃、男の子みたいだったでしょ!」 避けたことに不満げに頬を膨らませたが、すぐにまたにかっと笑う。 無邪気なのに、どこもかしこも邪気だらけ。 確かに人間なのに、バケモノのような異質。 歪な、不思議な存在。 「うん。あの子はずっと男の子だと思ってた」 「えへへ、これでも随分女の子らしくなったんだよー」 佐藤があの家とどう関わっていたのかは、興味がある。 でも、聞いても答えてくれるだろうか。 楽しげに答えるかもしれないな。 「あの時の、家の術は、佐藤がかけたの?」 まるでホラーゲームのように惑わされ、導かれ、弄ばれた。 あれも、仕組まれていたのか。 そういえば、阿部は、本当に無事なんだろうか。 岡野を傷つけようとしたのは許す気にはなれないけど、でも、あいつを利用したのは、宮守、なのか。 じくりと、胸が痛くなる。 「ううん、アレはほとんどは藤吉。中は私だけど。あ、あと、阿部を呼んだのも私ー」 阿部は、どうしたのかと聞きたい。 今どうしているのだろう。 その前に、最初に、あの家に迷い込んだあの時は、あれもこいつらの仕業なのか。 「藤吉は結界張るのがうまいから」 藤吉に視線を向けると、眉をしかめて顔を逸らす。 そういえば、藤吉は、綺麗な結界を張っていたな。 結界系の術は、全部こいつの仕業なのだろうか。 「私は主に肉弾戦ね」 「そっか」 「ね、他に聞きたいことはなあい?知りたいことはないかな?」 佐藤が俺の顔を下から覗き込んで、にやりと笑う。 俺を甚振る、心からの期待に満ちた顔。 乗ったらだめだ。 でも、知りたいことなんて、いっぱいある。 阿部は、平田は、どうなった。 あいつらをああしたのは、お前なのか。 今、阿部はどうしているんだ。 「おい、佐藤、そこらへんでやめておけ」 けれど聞く前に、藤吉が低い声で、制止する。 佐藤は軽く舌打ちをして、俺から離れていく。 「はーいはい。何言っても、どうせ何もできないよ。三薙だし」 そしてそんな皮肉を投げつける。 一瞬怒りが腹を突き上げたが、息をそっと吐いて、熱を逃がす。 「………うん、そうだな。俺は何もできない」 それは、事実だ。 こいつの言葉に怒っても仕方ない。 俺は何もできない。 俺が出来ることは多くない。 もうこれ以上何を聞いても、どうすることもできない。 ただ嘆いて、恨み言を言うことぐらいだ。 そう思うと、藤吉が制止してくれて、助かった。 「………ほんと、つまんない。私は前の三薙のが好きだな!」 俺の反応が気に入らなかったのか、佐藤がもう一度舌打ちをして憎々しげに吐き捨てる。 いっそ清々しいまでの、ストレートな悪意。 「俺は………」 思わず苦笑してしまう。 ずっと前にほのかな恋情を抱きかけていた、明るく楽しい少女。 その笑顔に、憧れていた。 「俺は、そうだな。今の佐藤の方が好きかな」 その頃の面影なんて、一切ない。 憧れていた少女はまやかしだった。 でも、今の佐藤は、偽りはない。 ただただ正直な悪意をぶつけてくる。 なんだか、それなら、それでいい気がしてくる。 ここまで正直なら、嘘ばっかりの人間より、好ましい。 「………」 佐藤は面食らったように、その大きな目をまた瞬かせる。 「ひひ!」 それからにかっと、明るく笑った。 教室に着くと、岡野はもう席についていた。 「………岡野、おはよう」 「おはよう」 今の挨拶は、ちゃんと出来ただろうか。 いつも通り、笑えただろうか。 いつも通り、へたれで情けない三薙でいられただろうか。 「今日は暑いな」 「そうだね」 岡野は、いつも通りに見える。 強く光る、吊目気味の猫のような目。 ふわふわの、栗色の髪。 沢山着けた派手な指輪。 いつも通りの、綺麗な岡野だ。 目尻が少し赤いだろうか。 少し、疲れているだろうか。 それともそんなの、自意識過剰だろうか。 「あんた3限の数学の宿題やってきた?やってきてたら教えて。分からないところあってさ」 「あ、うん。いいよ」 やっぱり、この前のことなんてなかったかのように、いつも通りだ。 あれは、俺の勘違いだった、とかかな。 俺のうぬぼれだったとか。 だったら、いい。 だったら、それでいい。 「私は」 ノートと教科書を広げ、宿題の説明をし出すと、岡野がぼそりと言う。 「ん?」 「私は割と、諦めが悪いから」 心臓が、びくりと跳ね上がる。 落ち着け落ち着け落ち着け。 いつも通りの、反応をしろ。 驚きを顔に出すな。 「へ?」 「まあ、今は今を楽しむ。でも、覚えておけよ」 「う、うん、えっと、うん?」 何を言われてるか分からないと言うように、首を傾げる。 表情は取り繕えているだろうか。 俺はいつもの顔をしてるだろうか。 「………ふん」 小さく鼻を鳴らす岡野の表情は、つまらなそうだ。 きっと大丈夫。 きっと、俺はいつも通り出来ている。 岡野は、大事な、友達。 「宮守君、ちょっといい?いいかな?いいよね?」 昼休みのチャイムが鳴ってすぐに、槇が教室に入ってきた。 そして俺の腕をひっぱりぐいぐいと、教室の外に連れ出そうとする。 「え?え?え?」 本当に驚いて、何も抵抗できずに引きずり出される。 後ろから岡野が驚いたように、呼び止める。 「ちょ、チエ!?」 「大丈夫、酷いことはしないから。安心して彩」 「あんた変なこと言うんじゃねーだろーな!」 「大丈夫。私が彩のためにならないことしたことある?」 「数えきれねーよ!」 「あはは、今回は大丈夫。じゃ」 岡野の抗議をものともせず、槇はそのまま俺をひっぱっていく。 強い。 槇ってこんな力が、強かったっけ。 なすすべもなく、引きずられる。 そして連れてこられたのは、いつもの屋上。 まだ昼休みが始まってすぐなせいか、人はまばらだ。 初夏の日差しは強く、もう汗ばむ陽気だ。 「いつもの、早く」 「は、はい」 慌てて呪を唱えて、結界を張る。 大丈夫だと告げると、槇は俺を見上げて睨みつけてくる。 小柄な体には似合わない威圧感に気圧されて一歩後ずさってしまう。 「彩を、傷つけないで、ほしかったんだけどな」 ああ、もう伝わったのか。 岡野は、槇にはもう言ったのか。 槇の怒りは、当然だ。 大事な岡野を傷つけたのだから。 「………ごめん。ごめんな」 俺には謝ることしかできない。 傷つけたくなんてなかった。 大事にしたかった。 泣かせるなんて、考えたくもなかった。 でも、これしか、できなかった。 言い訳すら、出来ない。 「………」 槇は悔しそうに、眉間に皺を寄せる。 ぎゅっと、目を閉じて、唇を震わせる。 そして、3呼吸しただろうか。 ゆっくりと、息を吐き出す。 「………何もかも投げ捨てて、彩と逃げる、ぐらい言ってくれればいいのに」 「そうだな、言えればよかったな。言えるぐらい、強ければよかった」 何もかもを投げ出して、岡野の手をとって、一緒にどこかに行けたら。 それは、なんて、魅力的な妄想。 「でもごめん。俺、へたれだったから、無理だった」 でも、そんなの出来ない。 俺はどちらにせよ、先は長くない。 そもそも岡野を連れて逃げ出すほどの知識も力もない。 電車の乗り方もおぼつかない世間知らず。 金もない。 あまりにも途方もない、夢物語だ。 「後は、頼む、槇。ごめん、本当にごめん、いっぱいごめん」 ただ、俺を少しでも早く忘れてほしい。 こんな薄情で鈍感で間抜けでへたれな男に、一瞬でも好意を持ったなんて、気の迷いだったと思ってほしい。 君を傷つける俺を、忘れて。 「槇には、色々、頼んでごめん」 槇が唇を噛んで、拳を握る。 そして、絞り出すような声で言った。 「………宮守君は、可哀そうだけど」 「………」 「彩と、それと、四天君も、可哀そうだよ」 胸が、痛い。 痛くて張り裂けそうだ。 「………うん」 全てを投げ出して、押し付ける。 岡野も天も、振り回す。 「………知ってる」 分かってる。 分かってるんだ。 どんなに謝っても、許されない。 「きっと二人は、宮守君が頼めば、なんだってするのに」 「………でも、天はともかくとして、岡野を引きずり込んだら、それはそれで槇は怒るだろう」 「………」 槇が、くしゃりを顔を歪める。 トラブルに巻き込まれた時だって、泣き顔を見せなかった槇の、泣きそうな顔。 「悔しい、悔しいよ、宮守君。悔しいね」 「………」 「宮守君の無力感、今、すごくわかるよ。責めて、ごめんね。私だって、何も出来ない。宮守君も彩も救いたい大事にしたいずっといたい」 その表情をさせているのは、俺だ。 「………でも、何もできない」 芯の強い、俺よりもずっと頼りがいのある小さな少女。 そんな子に、こんなことを言わせているのは、俺だ。 「悔しい」 「ごめんな、槇。ごめん」 「………」 「共犯者にして、ごめん。辛さを、押し付けてごめんな。謝ることしかできなくて、ごめんね」 ただ一人の、純粋な意味での友人。 俺の、本当。 優しい優しい強い、友人。 「逃げる気は、ないんだよね」 「ないかな」 「………そう」 槇は顔をあげて、笑う。 泣きそうな顔で、それでも笑う。 「じゃあ、約束は、守るよ」 「………槇」 「絶対に、守るよ。宮守君の唯一の友達として、私は友達の約束を守るよ」 握った拳を自分の胸に押しあてて、静かに、けれど強く告げる。 この小さな少女を、抱きしめたくなる。 慕わしさが、溢れる。 「でも、許さないからね。彩を傷つけたこと、私を置いていくこと」 「うん」 「私から、大事な大事な友達を奪うこと」 「………ごめん。ありがとう」 優しい優しい、友人。 押し付けて、逃げる、俺を許容してくれた、強い人。 尊敬と感謝となによりの友情を。 「………ありがとう、槇。槇と、友達になれて、よかった」 これで、俺が、出来ることは、すべて、終わった。 多分、これで全部。 全部全部人任せだけど、俺が、考え付くのは、もうこれだけ。 後は、終わりの始まりを、待つだけ。 |