日々は緩やかに、けれど確実に終わりに向かって過ぎ去っていく。 あまりにも変わらない日常に、逆に強く非日常を感じてしまう。 「もうすぐ期末だな。三薙は勉強してる?」 「まあ、そこそこ」 今日は藤吉一人だけだった。 佐藤が来る日と来ない日の違いはなんだと聞いたら、藤吉は苦い顔で『気分』と答えていた。 佐藤は本当に、自由なようだ。 なんだかもう、突き抜けていて、いっそ爽やかだ。 「って言いながら、三薙勉強できるしなあ」 藤吉は、務めてか、いつも通り接してくれる。 時折痛そうな、息苦しそうな顔をするぐらいで、それ以外はいつも通り笑って、いつも通り話してくれる。 以前のように、ただの友達のように。 そのことに、時に苛立ち、時にほっとする。 ああ、そう言えば、こうして一緒に登下校できるのも、後少しなのかな。 「………誠司、ありがとな」 「え」 藤吉が俺の言葉に驚いて立ち止まり、振り向く。 こうしている時だけは、以前のままのようだ。 以前の、何も知らない、ただひたすら藤吉と一緒にいるのが楽しかった、あの頃のようだった。 この生ぬるい偽りの日常を憎みながら、それでも、やっぱり焦がれている。 「ありがとう」 「え、三薙?」 面食らった顔がおかしくて、笑ってしまう。 佐藤に比べれば、ずっと人間臭くて、不完全。 藤吉を、許せるわけじゃない。 好きだったのに、こいつは俺のことをただの道具だと思っていた。 憧れていたのに、その感情すら導かれたものだった。 ずっと欺いていた。 ずっと利用していた。 岡野と槇すら、利用した。 それが何より許せない。 好きだった、好きだったんだ。 ずっとお前に、憧れてた。 許せるわけが、ない。 でも。 「俺の日常、守ってくれてありがとう」 すべてが露わになってからも、出来る限り俺の日常を守ってくれた。 苦しそうな顔は、態度は、嘘かもしれない。 でも、それでも、俺は、お前の罪悪感に満ちた顔に救われもした。 俺に対して、少しでも感情を動かしてくれたんだって、ほっとした。 「岡野と槇のこと、恨んでる。あの二人を傷つけることになったことは、許せない」 「………っ」 あの二人に、いらない傷を刻んだ。 俺なんかに関わらなきゃ、強く敏くまっすぐなあの二人は、ただ笑っていられた。 俺なんかに関わったから、必要のない痛みを与えることになった。 一兄と藤吉を恨んだ。 あの二人を巻き込んだ二人を、心底憎んだ。 でも、あの二人と出会えなければ、俺はあの温かさを知らなかった。 笑いあう喜び、受け入れられる喜び、許される喜び。 何も、知らなかった。 あの二人にどんなに迷惑をかけても、傷を刻んだことを後悔しても。 「でも、会えて、やっぱりよかった。お前を恨んだけど憎んだけど、会わなきゃよかったって思ったけど」 それは俺のエゴだけど、あの二人には、迷惑でしかないことだけど、それでもやっぱり、嬉しいんだ。 嬉しかったんだ。 あの二人に会えて、唯一の友達に、初めての恋に、俺は確かに、喜びを感じているんだ。 この手に残った数少ない本当が、尊く、大事なんだ。 「それでも、やっぱり、あの二人に会えてよかった。俺の我儘だけど、勝手だけど、やっぱり、嬉しかった。会えて、よかった」 「み、なぎ」 会えてよかった。 嬉しかった 楽しかった。 この一年は、俺の十七年の人生の中で、一番明るい日々だった。 全てがはっきりと思い出せるぐらい、鮮烈な記憶だ。 「後、お前とも、一緒に遊べて、嬉しかった。楽しかった」 嫌った憎んだ恨んだ。 でも、焦がれた。 「お前は太陽みたいで、ずっと憧れてた。笑うと、すごくあったかい感じして好きだった。お前が笑うところ、すごい好きだった」 中学の頃から、ずっと憧れていた。 人と交われない俺に何かと声をかけてくれて嬉しかった。 人に囲まれ、真ん中で笑うお前が、どれだけ眩しかっただろう。 「………やめて、くれ」 「誠司、それは本当だ。やっぱり、お前を嫌い抜くことなんて出来ない。だって、本当に楽しかったんだ。嬉しかったんだ。お前と一緒にいれて。お前と一緒に遊べて」 「やめてくれ」 藤吉が顔を歪め、歯を食いしばる。 佐藤と違って、藤吉は、苦しんでくれている。 だからこそ、やっぱり、俺は、お前を憎み切れない。 「ありがとう、誠司。友達になってくれて。たとえそれが嘘でも、俺は嬉しかった」 「やめてくれ!」 藤吉が叫ぶように、制止する。 今にも泣きそうな顔に、小さく笑ってしまう。 その苦しげな顔に喜びを感じてしまうのも、本当だけど。 「少しくらい、苦しんでくれよな。俺は本当に、お前が好きだったんだから」 だから、これくらいの痛みを与えるのは、許してくれよな。 お前にはお前の事情があって、俺を利用したんだろう。 俺に言われるまでもなく、お前もきっと苦しんでいるんだろう。 それを聞いたらきっと俺はもっとお前を憎めなくなる。 でも、俺だって痛かった。 俺だって、辛かった。 だから、これくらいの意趣返し、してもいいだろう。 「違う。今でもやっぱり、お前に憧れて、好きだよ。友達になれて、よかった」 「………っ」 藤吉は歯を食いしばって、呻く。 それから押し出す様な、苦しげな声で言った。 「………その言葉が、最高の復讐だ」 「はは、ごめん」 でも、嘘じゃない。 お前が少しは苦しめばいいと思ってる。 けれど、嘘じゃないんだ。 「でも、本当に、楽しかったんだ」 俺は、それでもお前が、好きなんだ。 「岡野、そこ違う」 放課後、塾の時間まで結構あるらしい岡野に、勉強を教えてと言われて、二人教室に残った。 藤吉には、先に帰ってもらった。 佐藤も藤吉に引きずられるようにして、帰って行った。 佐藤を抑えてくれるところは本当に純粋に藤吉に感謝している。 一緒にこれ以上いるのはよくないと分かっているけれど、でも、抗えなかった。 岡野と二人でいられるという、幸運を。 「ええ!?違うの!?」 「うん、それの公式はこっち」 「あー、くっそー!」 塾のテキストらしきものを睨みつけながら、岡野が自分の髪を掻き毟る。 お世辞にも成績がいい方ではなかった岡野の必死な努力は見ていて微笑ましい。 最近は前よりずっと理解が伸びている。 実は真面目で努力家な、彼女らしい。 「うー………」 岡野が呻きながら黙り込むと、ふと教室が静まり返る。 そうすると聞こえてくるのは、まるでBGMのようにひっそりと響く学校の声。 吹奏楽部かなにかの音楽の音。 開かれた窓から聞こえてくる運動部の掛け声。 どこかの教室で椅子を引く音。 その中に混じって、遠くで、セミの鳴き声が、聞こえた。 「………」 ああ、この学校の音が、好きだった。 静かなのに騒がしいこの音を聞いて座っていると、自分がいることを許される気がした。 こんな風に耳を傾けながら、藤吉と文化祭の準備をした日も、つい昨日のようだ。 窓の外は、梅雨を抜けた空が、遠く青い。 この窓枠から見る光景が、好きだった。 「………宮守?」 外を見ながらぼうっとしていると、岡野が声をかけてきた。 慌てて向かいに視線を戻すと、岡野がじっとその猫のような目で俺を見ていた。 「あ、ごめん」 「どうしたの?」 「えっと、セミの声がするな、って」 俺の言葉に岡野が目を瞑って耳を澄ます。 「あ、本当だ。ちょっとフライングじゃね」 「はは、確かに」 梅雨を終えたら、もう夏は間近だ。 でも、まだちょっと早い。 夏が待ちきれなくて、逸る気持ちが押さえきれずに出てきてしまったのだろうか。 「でも、もう夏だな」 あのセミはちょっと早いけれど、でももう夏だ。 後少しして、期末試験があって、そして、夏休み。 「………夏休み」 「ん?」 「夏休み、遊びに行くんでしょ」 岡野が机につっぷすようにして、俺を見上げてくる。 胸がつきつきと針で刺されるように痛む。 でも、動揺は、見せたらいけない。 いつも通り笑わなきゃ。 「うん、遊びに行こう。海に行って、お祭りに行こう」 「忘れるなよ」 「忘れるわけない」 忘れるわけが、ない。 はじめて、友人と過ごせるはずだった、夏休み。 みんなで海に行こうって言った。 ずっと夏を待ち焦がれていた。 「ならいい」 岡野はどこか不機嫌そうに唇を尖らせると、またノートに目を落としてペンを滑らせる。 眉間に皺を寄せて、ガリガリと頭をかき乱す。 そんな乱暴な仕草も、可愛い。 綺麗に整えられた眉を寄せる岡野は、そんな顔をしていてさえ綺麗だ。 猫のような吊目気味の大きな目。 筋の通った鼻。 赤く色づいた、少しだけ上向いた唇。 いくら見ていても、見飽きない。 カーテンを巻き上げて、ぬるい風が教室に吹き込む。 岡野の髪も一緒に揺れて、初夏の日差しに照らされて光る。 外から聞こえる、部活動の音、歓声。 光が差し込む薄暗い教室。 埃っぽい、教室の懐かしい匂い。 岡野の髪が、キラキラ、光る。 「………」 この光景を、ずっときっと、覚えてる。 絶対に忘れない。 綺麗な綺麗な、光景。 俺の中の、本当。 「………何?」 「あ、ごめん、綺麗だなって」 「はあ?」 言葉を失うほどに、綺麗で綺麗で、ただ、それしか言えなかった。 いつだって岡野がいるだけで、世界は明るくなった。 強くて優しくて真っ直ぐで、一緒にいるだけで、俺も強くなれる気がした。 綺麗な綺麗な、岡野。 「岡野の髪がキラキラ光って、綺麗」 ずっとずっと、そのままでいて。 真っ直ぐで強くて綺麗な、岡野でいて。 「はあ!?ば、ばっかじゃねーの!何言ってんのあんた!このアホ!」 岡野は顔を真っ赤にして、その手を伸ばして、俺の頭を思いきりはたいた。 「って!」 「ほんっとに、あんたアホ!」 「ひどいな」 岡野はしばらくそっぽを向いて、耳を赤くしてぶちぶちと口の中で何かを呟く。 そんな仕草が可愛くて頭をさすりながら笑ってしまう。 すると岡野がこちらに視線を戻し、俺を睨みつける。 「………なんか、やっぱり、変」 「ん?」 「そんな、なんか、大人みたいな、顔、しないでよ」 不機嫌そうに強い目で睨みつけたまま、けれどその声は、消え入りそうなほど小さい。 「大人、俺が?」 「………なんか、やなんだよ」 「………」 やっぱり、いつも通りは、出来てないんだな。 本当に俺は弱くて情けない。 「そんな顔すんなよ、宮守」 岡野こそ、そんな顔しないで。 そんな顔をさせたいわけじゃないんだよ。 「なんか、こんな風に勉強してると、本当にもう後少しなんだなって、思って」 だから、いつも通りの岡野でいて。 俺の最後の最後に焼き付けられる記憶まで、岡野でいて。 「学校生活が、後少しだと思うと、寂しくて」 「………」 「なんか、感傷的になる」 嘘は言っていない。 毎日毎日、胸が締め付けられる。 なんでもない日常。 友人たちに囲まれて、一緒にメシを食って、ふざけて笑いあう。 ずっと、俺が欲しかったもの。 ずっと憧れていた普通。 それを惜しんで失いたなくて、毎日噛みしめる。 「………そうだな。私も受験勉強しないと、いけないし」 岡野は納得したようなしないような顔で、頷く。 「そう、勉強しないと。すぐ期末だし」 「う」 「頑張らないとな」 頑張ろう。 頑張らないと。 「あんたは、どこ行くの?」 「家から近い所かな。あんまり離れられないし」 「なら、会えるね。いつでも会える」 その声に縋るような響きを感じるのは、俺のうぬぼれだろうか。 やっぱり、何かを感じているのだろうか。 「そうだな。いつだって会える」 だから、いつも通り笑おう。 頑張って、笑おう。 君にこれ以上不安を与えないために、笑おう。 「えっと、その、岡野は、会ってくれる?」 「あったりまえだろ!ボケ!分かりきったこと聞くな!」 少しだけ不安げに問うと、岡野が頭を叩きながら乱暴に答えてくれる。 そう、岡野は、そうしていて。 ごめんね、こうして望むのも、俺の我儘、なのかな。 「ありがと、岡野」 ありがとう。 ごめんね。 ありがとう。 それでもやっぱり、君といられて、よかった。 「………」 岡野が赤い唇をきゅっと噛み、少しだけうつむく。 「岡野?」 急に黙り込んだ岡野の名前を呼ぶが、岡野は俯いたまま。 少しだけそのまま沈黙して、それから、小さく口を開いた。 「………な、ぎ」 心臓から血が、一気に押し出された気がした。 頭にその血が駆け巡り、目頭が熱くなった。 落ち着け落ち着け落ち着け。 「え?なに?」 俺は、何も聞いてない。 知らない。 分からない。 「………なんでもない!!」 「いて!え、ええ!?」 岡野が顔をあげて、また俺の頭を叩く。 戸惑ったふりで頭を押さえる。 ああ、苦しい苦しい苦しい。 息が、止まってしまう。 「………」 大切なもの、いっぱいだな。 沢山の記憶。 沢山の大事な大事な光景。 薄暗い教室の中でキラキラ光る岡野の髪。 天と志藤さんと見た、曇天の下の灰色の海。 それにそれに、他にもいっぱいある。 幼い頃に一兄と遊んだ、庭一面の雪景色。 双兄に手を引かれ連れられた縁日。 皆で行った、旅行、バーベキュー。 ああ、いっぱいある。 こんなに、俺の中には、いっぱいあった。 空っぽなんかじゃない。 何もなくなんかない。 全部偽物なんかじゃない。 俺の中には、こんなに、いっぱいあった。 だから怖くない。 何も怖くない。 最後に君がくれた贈り物も、絶対に忘れない。 「………あ」 そしてそれは、唐突に訪れた。 叫び声のような、不快な音が、辺りに木霊する。 音ではない、脳内に直接響くようなこの不快な音は、知っている。 そしてそれは、いつもよりも長く長く強く響いた。 「………」 カーテンを開いて、窓の外を見る。 そこには生い茂る木と暗闇が佇んでいて、庭の先が見えるわけじゃない。 でも、確かに、あれは、『声』だった。 トントントン。 硬質な、けれどらしくなくどこか焦ったような、ノックの音。 ノックの主は、誰か分かっている。 半ば、予想してもいた。 「………はい」 「三薙、入るぞ」 「うん、どうぞ、一兄」 入ってきた長兄は、疲れは見せているものの、やっぱりいつもと同じ穏やかで冷静な表情だった。 でも、ちょっとは堅いだろうか。 気のせいかな。 「三薙。先宮の部屋まで来てくれるか」 「………二葉叔母さんが?」 問うと、一兄がゆっくりと頷いた。 「ああ、奥宮が、本日そのお役目を終える」 ついに、来たか。 思ったよりも、ちょっと早かったかな。 結局、夏休みは迎えられなかったか。 |