足音が、聞こえた。
もう、すぐ近くだ。
この気配は、一兄だ。
一兄と天の気配は、前よりもずっと敏感に感じる。

慌てて横たわっていた体を起こし、涙を拭う。
泣いて、伏せていても、どうしようもできない。

落ち着け落ち着け落ち着け。
俺が出来ることはなんだ。
俺は何が出来る。
あの二人のために、俺ができることは、あるのか。
落ち着け。

とりあえず、状況を把握する。
天と志藤さんが、どうしているのかを知りたい。
俺がどうするかは、それからだ。

カラカラと引き戸を引く音が聞こえる。
そして襖の向こうから声をかけられた。

「三薙、起きてるか?」
「………いち、にい」
「入るぞ」

襖が開くと、穏やかに笑いながらお盆を持った一兄がいた。

「夕食を持ってきた。腹が減っただろう」

そういえば、昼から、何も食べていない。
でも、空腹なんて、感じていない。

「天は………四天は、大丈夫なの」

一兄が困ったように笑って、テーブルの上にお盆を置く。
お盆の上にはおにぎりと、何かポットが乗っていた。

「勿論大丈夫だ。屋敷の奥で謹慎してもらっている」

一兄の顔をじっと見るが、そこはいつも通り穏やかな表情があるだけで、嘘を言っているのかどうかなんてわからない。
天は、何も酷いこと、されてないだろうか。
そもそも、謹慎なんて、する必要はない。

屋敷の奥とは、どこだろう。
宮守の家は広すぎて、見当がつかない。
きっと、人があまり入らない一画なのだろう。

「天は、何も、してない」
「そうだな、まだ何もしていない」
「だったら!」
「まだ、な」

天の強い意志。
宮守ごと奥宮を消したいと言う激しい怒り。
確かにまだ何もしていない。
けれど、これからは、するつもりだった。

「………でも」

なおも言いつのろうとする俺の前に一兄が座り、そっと俺の頭を撫でる。
穏やかで優しい声で、宥めるように言う。

「あいつの怒りも理解できる。だが、一族を落ち着かせるまでは、大人しくしてもらう。はっきりと叛意が認められてしまったからな。さすがにお咎めなしという訳にはいかない」

俺の目をじっと見つめ、真摯に告げる。
一兄の黒い目に、引き込まれる。
まるでその声自体に力があるように、俺の心を縛り付けていく。

「悪いようにはしない。信じてくれ」

頷いてしまいそうになる。
信じてしまいそうになる。

「信じたい、よ。信じたいよ、一兄。信じられれば、いいのに」

目を逸らし、顔を伏せ、畳を見つめる。
一兄の言葉をすべて信じて、何もかもを委ねたくなる。
今まで、一兄の言うことを聞いていれば、全てがうまくいった。
この人は、何もかもを、解決してくれた。
でも、もう、全てを、この人に投げ出してはダメだ。

「そうだな」

一兄がぽんぽんと頭を軽く叩く。
泣きたくなるほどに、優しい。
この人に頭を撫でられるのが、大好きだった。
駄目だ、引き込まれるな。

「………志藤さんは?あの人は、大丈夫?」

もう一度顔をあげ、一兄の顔を見つめる。
飲み込まれるな。
この人に、負けたら、駄目だ。

「彼にも謹慎してもらっている」
「酷いこと、してないよね」
「お前らは俺をなんだと思ってるんだ」

一兄は眉を寄せ、ため息をつきながら肩を竦める。
癇癪を起す子供をなだめるように、苦笑する。

「俺は別に無意味に人を傷つけるようなことはしない。彼もなんともない」
「………信じるよ。一兄、信じる」
「ああ」

信じられない。
信じられるわけがない。
でも、この人の言葉に縋るしかない。

「志藤さんも、天と同じところにいるの?」

一兄はそれに応えることなく、微笑ましそうに目を細める。

「随分仲がいいんだな」
「………うん、志藤さん、優しいから」

今の言葉は、不自然じゃなかっただろうか。
俺らしかっただろうか。
俺は優しくしてくれる人が、好きだ。
優しくしてくれる人には、すぐに好意を寄せた。
好意をすべて否定すれば、逆に不自然だ。
志藤さんなんてなんとも思っていないと言うことは、俺にはありえない。

「俺みたいなやつでも、普通に接してくれたんだ。優しくしてくれた。笑ってくれた」

優しかった。
本当に優しかった。
だから縛り付け、傷をつけた。
大切な人、大事な人、愛しい人。

でも、それを悟られてはいけない。
志藤さんならきっと、俺が変なこと言わなければ、うまく切り抜けてくれるはずだ。

「いい人だったんだ。俺なんかに優しく、してくれた。だから、こんなの、巻き込みたくない」
「そうか」

一兄の表情からは、何も読み取れない。
逆に俺の表情を、観察しているのだろう。
いつだってこの人に嘘をつけたことはない。

誤魔化せているだろうか。
俺は、いつものように答えられているだろうか。
その上で、あの人のためになることを、言えてるだろうか。

「四天もあいつを気に入っていたようだな。随分力もあるようだ」
「うん、確かに、仕事の時、すごく世話になった」
「ああ。そんな有能な人材を無為に傷つけたりはしない」

そうだ、あの人はとても強く聡明な人だ。
だから、大丈夫。
きっと、大丈夫。

「ただ、四天に力を貸そうとしていたことは、やはり放置しておくわけにはいかない」

落ち着け。
落ち着け落ち着け。
志藤さんは何も知らないんだ。
一兄には、ばれていない。

「力を貸すって、四天の、その、目的のことだよね」
「宮守の傾覆を、四天と共に狙っていただろう」

どう答えればいい。
否定すればいいのか。
落ち着け。
一兄を見つめ、首を横に振る。

「………それは、分からない。でも、でも、たぶん、違うと思う。そんなこと、する人じゃない。きっと違う。違うよ………っ」

これは本当のことだ。
あの人は俺を助けるために逃げようとは言ってくれたけど、宮守をどうこうしようなんて考えていない。
天は利用しようとしていたいたいだけど、あの人は宮守については特に敵意も何もなかった。
ただ、あの人は、俺を好きになってくれただけ。

「………」
「………一兄」

一兄がじっと俺の目を見つめる。
怖い。
謝って全てを、白状してしまいそうになる。
負けるな。

「………なんにせよ、少し話を聞かせてもらう」

目を逸らされた時に、ほっと息をつきそうになる。
でも駄目だ。
そんなことしたら、嘘をついているとばれるかもしれない。
一兄の腕をつかみ、もう一度懇願する。

「お願いだから、二人に、酷いことを、しないで」
「しないと言っただろう」

一兄は俺の手の上に大きな手を重ね、苦笑する。

「信用をすっかり無くしているな。まあ、無理もないか」

俺に、何が出来る。
何が、あの二人のために出来る。
俺に、何か出来ることはあるのか。
俺の利用価値は、どれくらいなんだろう。

「………ねえ、一兄。俺が、奥宮になれば、天を、二人を解放してもらえる?」
「………」
「だって、俺が奥宮になったら、天の目的はもう、終わりだよね」

奥宮に一度なってしまえば、中々手は出せない。
先宮も奥宮も、侵せない存在になってしまう。
だから、狙うのは、代替わりの儀式のとき。
次代の奥宮になるための儀式がいつになるかは、分からない。

「奥宮は」

でも、きっと、それは遠くないんだ。
一兄はまだ時間があると言った。

「今の奥宮はもう、寿命なんでしょう?だから、こんな、急いでるんでしょう?」

でも、ここしばらくのこの急な動きを見ていれば、それはきっと嘘だ。
俺を早く奥宮として、器として育てるために、焦っているように見える。
二葉叔母さんの限界が、たぶん、近いんだ。

「だったら、俺が、奥宮にさっさとなれば、四天を解放してもらえる?」

もう、天は、俺に手を出せない。
そうすれば、謹慎している理由はない。
だったら、それも選択の一つだ。

「どちらにせよ、まだ奥宮の代替わりの準備は整っていない」

一兄は、静かにそれだけ言った。
また、誤魔化された。
もう、その日は、近いはずだ。
俺のことなのに、教えてもらえない。
怒りがふつふつと、沸いてくる。

「………じゃあ、天を解放してもらわないと、奥宮になんてならない。絶対にならない」

なら、これならどうだろう。
俺の準備を急ぐぐらいなんだから、焦っているはずだ。
共番の儀式のときのように、いざとなったら押さえつけられてても、奥宮にさせられるかもしれない。
でも、徹底的に抵抗することぐらい、してやる。

「別にそれでもかまわない」
「え」
「言っただろう。お前の選択に任せると」

けれど一兄はあっさりとそう言った。
呆然とする俺に、一兄は静かに、けれど厳しい声で続ける。

「だが、お前の選択とあの二人の謹慎は別問題だ。四天が宮守に弓引く意思を見せたことが問題だ」

これでも、駄目なのか。
これじゃ、交渉は出来ないのか。
俺の価値は、そんなものなのか。
こんなに追い詰め囲い込み大事に育ててきた器を、いらないのか。

「………俺が、奥宮にならなくてもいいの」
「ああ。決定権は奥宮にあるからな」
「でも俺がならなかったら、栞ちゃんか、五十鈴姉さんが、なるんでしょう」
「二人にもその意思を問う」

一兄は俺の頬を挟みこみ持ち上げ、真摯な声で告げる。

「先宮は奥宮のために存在している。奥宮の意思を叶えることが優先だ。少なくとも俺はそう教わり、そのために生きてきた」

温かく優しい声。
嘘だ。
そんなの嘘だ。

「………でも、俺の意思を無視して、俺を育ててきた」
「奥宮としての素質を伸ばすことはさせてもらった。お前は、誰よりもその才能があった。俺には、宮守には、お前が必要だった。だが、最後はお前に意思を問う」

必要だ、って言われたかった。
みそっかすの俺は、その言葉が何より欲しかった。
駄目だ、駄目だ駄目だ。
誤魔化されるな。

「………誰も、ならなかったら?」
「それで終わりだ。当代奥宮がお役目を果たされた後に、この地は荒れる。宮守一統の力の基盤を失う。死人が増え、一族は離散、この地も他の管理者がやってくるかもしれない」
「………」
「それだけだ」

だいたいは天と同じことを言っている。
それだけ、なんて言えないくらいの、犠牲。
この地が荒れる。
俺の数少ない大事なものが、消えてしまう可能性がある。

「そんなこと、言われたら………っ」
「そうだな。だが、事実だ」
「どうにか、ならないの。こんなシステムじゃなくて、なんかもっと………っ、俺あんなのなりたくない!他の人にもなってほしくない!」

抑えていた感情が、吹き出してしまう。
理不尽だ。
こんなのない。
こんなどうしようもない世界、嫌だ。

「少なくとも今すぐはない」

けれど、一兄はやっぱり静かに告げる。

「お前も管理者の家を見てきただろう」
「………」

見てきた。
誰かが、犠牲になり、悲しみ、苦しんでいた。
その上で、成り立つ小さな平和。
それが、管理者としての、役目、なのか。

「さあ、疲れてるだろう。夕食を食べて、少し休め」

一兄が俺の頭をくしゃくしゃと撫でる。
それから俺を引き寄せ抱きしめる。
こんなことになっても、この人に抱きしめられるのは、嫌じゃない。
優しい優しい声が耳元で囁く。

「三薙、お前の望むとおりにすればいい」

それは、天と同じ言葉。
天もそう言ってくれた。
一兄も天も、俺を道具として利用しようとした。
二人とも、同じ。

「………一兄は、望むとおりにしろと言いながら、逃げ道を塞いでいく」

天の言葉は、俺を惑わせ、悩ませる。
一兄の言葉は、俺を追い詰める。





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