気が付けば、朝だった。
室内は温かな光に満たされている。
眠ったつもりはなかったが、いつの間にか眠っていたらしい。
布団にも入らず、横たわっていた。
食事を置いて行った一兄は、勿論いない。
あの後、眠ってしまったのか。

「………」

畳の上に寝ていたせいか、体がギシギシとする。
あまり睡眠が足りていないので、頭痛がする。
食事をとっていないせいか、胃もしくしくと痛む。

「これ、じゃ、駄目だ」

こんなじゃ、駄目だ。
こんな風に全てを放棄して、現実から目を背けていても、何もならない。
時間は流れ、事態は、俺を置いて進行していくだけだ。
もう、何も知らないまま、進行していくなんて、嫌だ。
例え選択肢が少ないのだとしても、自分で選びたい。

「食べなきゃ」

一兄が昨日おいて行ったおにぎりは、そこにあった。
食欲はないし、だいぶ渇いてしまっているそれはあまりおいしそうではない。
でも、胃に何かを入れた方がいいだろう。

「………誰」

おにぎりに手を伸ばそうとしたその時、家の外から気配がした。
すぐにカラカラと玄関が開かれる音がする。

「入ってもよろしいでしょうか?」

襖の向こうから聞こえてきたのは、涼やかな少女の声。

「栞ちゃん………」
「大丈夫ですか?入りますね?」

許可を出すことを忘れていると、もう一度確かめられ襖がさっさと開かれる。
髪の長い小柄で愛らしい少女は制服を着て、朗らかに笑いながらそこにいた。
そういえば、今日は何曜日なんだっけ。
もう日付感覚もあいまいだ。
俺はいいとして、天はこんなに休んでいいのかなんて、馬鹿なことを考えてしまう。

「なんだかお久しぶりです、三薙さん。朝食お持ちしました」

手にはサンドウィッチの乗ったお盆を持っていて、入ってくるとそれをテーブルに置いてくれる。
そこで、ようやくそこに思い至る。
今まで考え付かなかったなんて、馬鹿だ。

「………大丈夫、だったんだ」

天と一緒に、宮守に仇なそうとしていた遠縁の少女。
もう一人の、奥宮候補。
彼女は、捕らわれたりはしていないのか。
特に変わった様子はない。
それに今更ながらに、心底安堵する。

「え?」

けれど当の本人は不思議そうに首を傾げる。
口元に手を当ててちょっと考えた後、ひらめたと言うように手を叩いた。

「ああ、疑われてはいるでしょうけど、今のところ特に拘束されたりはしてませんよ」
「………よかった」
「しいちゃんも馬鹿ですよねえ。おうちに立てつくなんて。まあ、仕方ないです、反抗期ですからね」

呆れたような、馬鹿にしたような、言葉。
栞ちゃんが天に向けるとは思えない、冷たい言い草。

「………」
「それでも私はしいちゃんが好きだから、しいちゃんが戻ってくるの待ってますけどね!」

栞ちゃんはいつもの通り明るく笑う。
これは嘘?
これは本当?
分からない。
この子の本心が、見えない。

「でも、残念です。夢だったんですけどね、しいちゃんが先宮になって、私が奥宮になって、ずっと一緒にいるって」

栞ちゃんは、天と一緒に奥宮になるのが夢だと言った。
一緒の夢を持っていると言っていた。
ずっと、幼いころからの夢。
ただ、目的が違う、だっけ。
この子の本心は、どうなのだろう。

天と一緒に、奥宮として生きたかった?
天と一緒に、奥宮として死にたかった?

「………」

栞ちゃんは座る俺を見下ろし笑っている。

「どうせなら三薙さんは逃げちゃえばよかったのに。お馬鹿さんですね」
「………ごめんね」

困った子供を見るような、優しい目。
年下の女の子なのに、お姉さんみたいだ。

「俺は、栞ちゃんほど、強くなれなかった」

逃げることも、立ち向かうことも、受け入れることも、選べない。
まだ、選べていない。
栞ちゃんのような、覚悟は、出来ていない。

「栞ちゃんは、強いね」
「というか、私にはそれしか選択肢がありませんでしたから」

俺の言葉に、栞ちゃんはあっさりとそう言った。
怒りも、悲しみも、そこにはない。
ただただ、朗らかで、明るい。
この子はこれを受け入れるまでに、どれだけ時間がかかったんだろう。
何を想い、どう受け入れてきたのだろう。
四天と何を語り、何を目指してきたのだろう。
詳しく聞きたい。
でも、ここでは、誰かに聞かれているかもしれない。
ここでは、聞けない。

「………今日は、何しにきたの?」
「しいちゃんに会いに。それとついでに、三薙さんのお食事をお持ちしました」
「ついで、なんだ」
「勿論です。彼氏を最優先!それが女子高生のあるべき姿ですよ!」
「そう、だね」

いつもの決め台詞を言うと、握り拳を握って愛らしく主張する。
どこか歪な明るさ。
でも、ほんの数か月前を思い出して、ちょっとだけ、ほっとする。
この子の愛らしい仕草が、いつも微笑ましくて、愛される天が羨ましかった。

「来てくれて、ありがとう」
「いいえ、思ったよりもお元気そうでよかったです」

元気なんかじゃない。
何をしたらいいか分からない。
まだ迷ってる。
まだ惑ってる。
まだ何も決められない。

でも。

「………四天に、伝えてくれる?俺は、自分で、選ぶから。ちゃんと、選ぶから」
「はい、承りました」

栞ちゃんは何が、とかは聞かずにすぐに頷いてくれた。
俺の答えを選ぶ。
天は俺の約束を守ってくれる。
だから、俺もお前との約束は守る。
時間はきっとない。
選べる選択肢もほとんどない。
でも、選ぶから。

「じゃあ、私はそろそろ行きますね」

しいちゃんに会える時間はあまりないから、と続ける。
俺は会うことは許されていない。
でも栞ちゃんは、会えるのか。

「うん。………俺、ここから出ていいのかな?聞いてる?」
「ごめんなさい、私には分かりません」
「そうか。誰かに会ったら、俺がここから出たいって言ってたって、言ってくれる?」
「分かりました。たぶん大丈夫ですよ。奥宮候補の意思は尊重されますから」
「………生贄にするのに大事にするんだ。とんだ矛盾だ」
「生贄だから大事にするんですよ。快く生贄になってもらえるように」
「はは」

栞ちゃんが悪戯めかして言うから、思わず笑った。
生贄のための自由。
生贄のための庇護。
なんて、空々しいんだろう。

「三薙さん、嫌なら私がお役目交代するからいつでも仰ってくださいね」

悪戯っぽく笑って言う栞ちゃんに、俺も笑う。

「相手は一兄かもよ?」
「そうですね。出来ればしいちゃんがいいですが、仕方ないです。私は奥宮にならないと、本当に意味がないから」
「………」
「ですから、遠慮なさらず」

にっこりと、なんの曇りもない笑顔で言う。
そういえば、この子の笑顔以外の表情を、見たことがない気がする。
いつだって明るく朗らかに、笑っている。
この子が泣き怒りをぶつける場所は、あったのだろうか。
四天の前では、笑顔以外の表情を見せられたのだろうか。

「………栞ちゃんは、四天が、好きなんだよね」
「勿論です!大好きです!」

栞ちゃんは躊躇いなく、極上の蕩けそうな笑顔で頷く。
どこか、見ていると不安になる、笑顔。
でも、大丈夫だ。
この子は、大丈夫。

「例え、しいちゃんが宮守家に反抗するような馬鹿な真似しても、私はしいちゃんの考えが変わるまで待ちますよ」

この子は、天を裏切らない。
間違いなく、この子の気持ちは、本当だ。
二人の夢も想いもきっと、同じ。
そう、根拠もなく思った。

「四天が、元気かどうか、後で教えてくれる?」
「ええ、了解です。あ、食事はとった方がいいですよ。倒れて点滴なんてされたくないでしょう?」
「うん」

そう言いおいて、栞ちゃんは軽やかに去って行った。
テーブルにはスープが入った魔法瓶とサンドウィッチ。

「食べなきゃ。食べて、眠る」

じゃなきゃ、何も考えられないし、出来ない。
サンドウィッチを齧ると、バターとレタスとハムとマスタードの味が広がる。

「………うん、おいしい」

なら、まだ、頑張れる。



***




屋敷内を歩き回る許可はあっさりと出た。
外は行くなと、言われはしたが。
天と志藤さんがいるのは、どこなのだろう。
でも、俺がすぐにうろついて見つかるような場所にはいないだろう。
探して会っても、今のままじゃ、何も出来ない。

でも、二人の安否は気になる。
天については、栞ちゃんがきっと、教えてくれる。
志藤さんについては、誰に聞いたら、分かるだろう。
そして思い付く人は、一人しかいかなかった。

使用人の住むエリアに行き、目的の部屋の扉をノックする。

「熊沢さん、いますか?」
「はい?」

幸い中から声は返ってきた。
すぐに扉を開いてもらう。
熊沢さんは出かけるところだったのかスーツ姿だった。
俺の姿を見て、片眉を器用にあげておどけた表情を見せた。

「これは三薙さん、いらっしゃい」

特に驚く様子もなく、笑顔で迎えてくれる。
いつもだったら使用人の住むエリアに来てはいけないなどの小言を言われるが、今日は何も言われなかった。

「どうぞ、お入りになりますか?」
「もし、よろしければ。ちょっとだけ」
「かまいませんよ。まだ時間はあります」

部屋の中に入れてもらい、座ることを促される。

「お茶、お飲みになりますか?」
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「聞いておいてあれですが、俺は飲みたいのでおつきあいください」

熊沢さんはそう言うと、さっさと手際よくお茶を淹れてくれた。
ふわりと緑茶の甘い香りがする。
俺の向かいに座って、優しく聞いてくれる。

「どうされましたか?」
「………」
「あ、申し訳ないのですが、お力になれることは、あまりないですよ。俺は宮守家の奴隷なもので」

きっちり線を引きながらおどけて見せる熊沢さんに、笑ってしまう。
確かにこの人は、俺の全面的な味方にはなってくれないだろう。
でも今まで沢山よくしてくれた。
色々教えてくれた、助けてくれた、志藤さんに会わせてくれた。
それで十分だ。

「………双兄の奴隷、じゃなくて?」
「あはは、そうかもしれませんね」

それにこの人は、天の言うことを信じるなら、双兄は裏切らない。
それだけは、真実。
何が嘘で、何が本当か、もう分からない。
ただ天は俺に嘘はつかない。
だったら、天の言葉を頼りに、俺は道を辿るしかない。
天と、そして志藤さんしか、この家では信じられる人はいないのだから。

「味方になって、とかじゃないです。ただ、志藤さんが無事かどうか、知らないかと思って」
「ああ」

熊沢さんがお茶を飲みながら得心がいったというように頷く。
そして笑いながら首を少し傾げた。

「大丈夫だと思いますよ。会ってはいないですけどね」
「………」
「いや、そんな顔しないでも本当に大丈夫だと思います」

どうでもよさそうな言葉に、つい落胆してしまう。
この事情をよく知る人なら、状況を分かっているのではないかと思ったのだけれど。

「………」
「いや、そんながっかりした顔されないでください。大丈夫ですよ、一矢さんのことですし」

黙り込み俯く俺に熊沢さんが慌てるように、言いつのる。
その言葉に思わず顔を上げる。

「………一兄だと、大丈夫なんですか?」

今、家の中で、一番怖い人、なのに。
一番、分からない、人だ。
けれど熊沢さんは、こくこくと頷く。

「一矢さんは無意味に暴力をふるったりする人じゃありません。今回の場合、拷問とか労力がかかる上に、実りがなさそうなことしないと思いますよ。もし、志藤君が四天さんの目的に無関係だった場合は、それこそ傷つけたりするのは無駄な上に、大事な人材を失います。逆に四天さんの目的に力を貸そうとしていた場合、四天さんに対する取引材料ぐらいにはなるかもしれませんしね」
「………」
「まあ、死体を作り上げるよりは生かしておいた方が楽でしょう。今のところ、たぶん」

拷問とか、死体なんて怖い言葉を、出さないでほしい。
寒気がして、お茶の入った器を握ると、冷たくなった指先にわずかに熱が灯る。
でも、熊沢さんの言葉からすると、利用価値があるから、大丈夫、なのか。

「事情聴取と謹慎、本当にそれくらいだと思います。多少、痛めつけられることは、あるかもしれませんが、そこまで酷いことには、たぶんならないんじゃないですかね」

信じきれない、曖昧で不安な言葉。
この人に苛立っても、どうしようもないのだけれど。

「一兄は、本当に酷いこと、しないですか?」
「明言はできませんけどね。まあ、俺や四天さん相手なら酷い目に遭うこともあるかもしれませんが、俺たち感情的なので」

そういえば、前に志藤さんを二人とも本気で殴りつけていた。
怖くて、身が竦んだのを覚えている。
暴力は、嫌だ。
血は嫌い。

「ただ、一矢さんは、あの方は、理性の怪物ですから」
「理性の、怪物」

熊沢さんの言葉を繰り返すと、熊沢さんが頷く。

「ええ。合理的じゃないことは絶対にしません。効果的で結果が伴うものでなければ、人を傷つけることなんてしません。無意味ですから。俺、あの人が本気で動揺するところとか感情を荒げるところとか見たことないんですよねえ」

最後はまるで独り言のように言う。
一兄が動揺したり、感情を荒げるところ。
そういえば、俺も、見たことない。
俺たち弟を叱ったりたしなめることはあった。
驚いたりすることもあったと思う。
でも、感情的に怒ったり笑ったり、まして泣いたりなんて、見たことはない。

「まあそこまで親しい訳じゃないんですが、俺が知る限り、あの人が無駄な行動したことないですよ」
「………」
「三薙さんがどう思ってらっしゃるかは分かりませんが、一矢さんでしたら、理に沿わない行動をすることはまずないと思います。だから今回は多分平気じゃないですかね」
「そう、ですか」

でも、それで言ったら、理由があって意味があれば、なんでもするということになる。
天も、そんなことを言っていた。
理性の怪物。
確かに、その通りかもしれない。
目的のためなら、なんだって出来る、感情一つ揺らさない、怪物。

「………俺が知る一兄は、確かに穏やかで落ち着いていて冷静で、大人な男の人でした。人を無意味に殴ることなんて、しない」

それは、一緒なのに。
言葉にすると以前と全て一緒なのに。
なのに、印象が、まったく違う。
そのことに、胸が痛い。

「俺は、一兄のことも双兄のことも、天のことも何も知らなかった」
「………」

熊沢さんはただじっと黙って俺の話を聞いてくれている。
一兄も双兄も天も俺に隠し事をして、本当のことなんて言ってくれなかった。
本当の自分なんて見せてくれなかった。
俺が大好きな兄たちと弟のことを、俺は何も知らなかった。

「でも、俺より双兄も一兄もよく知っている熊沢さんが、そう言ってくれたら、ちょっと安心しました」

一兄が、合理的な理由がなければ何もしないということは分かった。
でも、それは何か理由があればするということだ。
安心はできない。
でも、熊沢さんの言葉を今は信じておこう。

「何も関係のない志藤さんが、酷い目にあったら、嫌だから」
「………三薙さんは、お優しいですね」

それは褒め言葉だったのだろうか。
揶揄だったのだろうか。
分からないから、答えなかった。

「双兄は、元気ですか?」
「相変わらずですね」

相変わらず思い悩み、酒を飲んでいるのだろうか。
強くて飄々としていつだって明るくて頼もしかった次兄。
こんなにも脆く弱い人だとは、知らなかった。

「………そうですか。あまり、飲みすぎないようにって言っておいてください」
「はい、お伝えいたします」

熊沢さんが頼もしく笑って頷いてくれる。
双兄はいいな。
ずるい。
熊沢さんがいてくれるから。
四天にも、栞ちゃんがいる。

ああ、いいな。
羨ましい。
心から信頼し、自分を預けることのできる人間がいる。
そして一緒にいれる。
なんて、羨ましいんだろう。

俺にも岡野や槇や志藤さんがいる。
もう、一緒にはいられないけれど。

そういえば、一兄には、誰か傍にいてくれる人は、いたのだろうか。





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