家の書庫にあった本を持ってきて、暗い部屋の中、読む。
難解な文字と言い回しに頭が痛くなりながら、わずかながらに読み解くが、俺の求めるものは全然見つからない。
まあ、奥宮に関する記述が、こんな俺の手の届く範囲にあるはずがないか。
分かってはいたのだが、外にも出られず、何も出来ない今、どうしたらいいか分からず、何かが、したかった。
そういえば天もよく、家の本を読んでいたっけ。
あれは、奥宮と先宮について、調べていたのだろうか。

トントン。

軽く、玄関がノックされる。
声を返すと、からからとドアが開かれた。
もう面倒だから襖は開きっぱなしだったので、訪問者の姿がすぐに見えた。

「三薙さん、こんばんは」

制服姿の華奢な少女。
長い髪をさらりとなびかせ小首を傾げて愛らしく笑う。

「栞ちゃん」

昼に会った時の姿そのままで、変わった様子はない。
そのことに、ほっとする。
特に何かされたりしたわけではないようだ。

「天には会えたの?」
「はい、元気でしたよ。三薙さんにもよろしくって言ってました。答えを楽しみにしてるって」
「そっか」

もう一つ、安堵する。
栞ちゃんの言うことなら、信用できる。
深く息を吐くと、栞ちゃんが困ったように笑う。

「三薙さん、しいちゃんと儀式したんですよね?」
「え?」
「共番の儀式」
「………っ」

さらりと言われた言葉に、咄嗟に反応することができなかった。
あの儀式のことも、知っていたのか。
もしかして、ずっと知っていたのか。
俺と天が、どんなことを、したのか。
顔は熱くなったのに、指先は冷たい。
恥ずかしくて、申し訳なくて、いたたまれなくて、どうしたらいいか、分からない。


「三薙さんが一番、しいちゃんが元気かどうか分かるはずですよ」

栞ちゃんは俺の様子を気にすることなく、笑ったまま続ける。

「しいちゃんと今も、つながってますよね?」
「あ」

そうだ、この身の内に溢れる力は、天と一兄のものだ。
もうだいぶ体に馴染んで、自然になってしまって忘れていた。
胸に手を当てて、力の源を探る。
そこには力強い白い力と、ゆったりと落ち着いた深く青い力がある。
白い力は変わらない輝きと強さを保っている。
そうだ、これは、天の力だ。
前と同じく、そこにある。

「………うん。感じる。天の力が、ある」
「はい」
「そう、か」

栞ちゃんがにっこりと笑って頷く。
そうだ、天と一兄に俺の様子が伝わるように、俺も二人の様子が少しは、分かるんだ。
これなら、大丈夫。
天は、まだ、大丈夫。

「妬けちゃいますねえ。本当は私がしたかったのに」
「なっ」

栞ちゃんが悪戯っぽく続けた言葉に、また頭が真っ白になる。
なんて返したらいいのか分からず、馬鹿みたいに口をパクパクとさせてしまう。
屈辱、羞恥、罪悪感。
自分が弟に組み敷かれたなんて、知られたくない。
目の前の女の子の彼氏と、触れ合ってしまったことに対する気まずさ。
でもそれは、俺の意思ではないし。
でも、そんなの言い訳にすぎないだろうか。

「あはは、そんな顔しないでください。私がいじめたみたい」

栞ちゃんが俺の顔を見て、朗らかに笑う。
その少し意地悪で、さも楽しそうな言い方に既視感を感じた。
人をからかって追い詰めて、それで楽しそうに笑う。

「………今の言い方、天そっくりだ」

俺がいじめたみたい、って天もよく言っていた。
あっちはもっと、陰湿な感じだけど。
栞ちゃんは大きな目をパチパチと瞬かせる。
それから困ったように苦笑した。

「ずっと一緒にいたから、似ちゃうのかもしれませんね」
「………ずっと一緒、だったんだもんね」
「ええ、出来れば奥宮と先宮になっても末永く一緒にいたかったんですけどね」

いっそ、俺が、奥宮の座をこの子に譲れば、全ては丸く収まったのだろうか。
いや、でももう、天は、捕えられてしまった。
もう、遅い。
それに、やっぱり、この子を犠牲にして、生き延びるなんて、そんなの、耐えられそうにない。
自分の罪悪感に押しつぶされてしまいそうだ。

「さてと、じゃあ、お大事にしてくださいね。あまり無理しないでください。ゆっくり、休んでくださいね」

栞ちゃんは俺の沈黙をどう受け取ったのか、優しくたしなめるようにそう言った。



***




「三薙。起きてるか?」

夜も更けて、本を読みながらうつらうつらとしていた時だった。
玄関から、また訪問者の声がする。
落ち着いた大人の男性の声に、一瞬で目が覚める。

「………一兄」
「入るぞ」

いい、とは返事はしなかったけれど、扉は開かれてしまう。
どうせ、俺の意思なんて、どうでもいいのだ。
そして現れたのは、想像通りの長兄の姿。
会社帰りなのかスーツ姿で、疲れているように見える。
クマもあるし、少し痩せただろうか。
眠れて、いないのだろうか。

「ちゃんと食事もとってるみたいだな。いい子だ」

テーブルの上の夕食の跡をみて、一兄が優しく微笑み、俺の頭を撫でる。
触れられる手に、緊張するが、それでも嫌だとは思わない。
恐怖は覚えても、嫌悪感は、抱かない。
抱けない。

「明日ぐらいから学校へ行くのもいいと思うが、体調は大丈夫か?」
「行って、いいの?」

この家から、出てもいいのか。
別に嫌味でもなんでもなく、不思議に思って聞いてしまった。
この家から、もう出れないのではないかと、思っていた。
まだ、時間は、あるのだろうか。
俺に、まだ日常を過ごす時間は、残されているのか。

「当たり前だ。久々に岡野さんや槇さんに会いたいだろう」

岡野、槇。
名前を聞いただけで、胸が熱くなって、感情が溢れそうになった。
息を飲んで、唇が、震えてしまう。
会いたい。
俺の、大事なもの。
俺の、日常。

「ああ、そうだ。自室にも戻っていい。ここでも構わないが、好きな方にいればいい」

家に帰ると同時に、強制的に離れに連れてこられた。
もうずっと、ここで過ごしている。
この離れが、好きなわけがない。
ここは、小奇麗な、清潔な、息苦しい檻だ。

「………もう、俺に見せたくないことは、全部終わったんだ」

自室に戻ってもいいということは、行動を制限しなくてもよくなったということか。
後始末は、終わったのか。

「天と、志藤さんに、本当に酷いことはしてないよね」
「ああ。してないと言っただろう。本当に信用ないな。仕方ないが」

一兄は俺の詰る言葉にも、苦笑して受け止める。
その顔からは、一兄の感情を知ることは出来ない。
この人が何を考えているのかなんて、俺に知ることは、出来ないのかもしれない。
ずっと一緒にいたのに。
ずっと、大好きだったのに。

「………分かった」

栞ちゃんも、熊沢さんも、大丈夫だと言った。
だったらきっと、大丈夫、なのだ。

「じゃあ、学校、行く」
「ああ、それがいい」

最後に残された日常を、過ごしたい。
ここから出たい。
そしてまだ何か出来ないかを、探りたい。
逃げられはきっとしないだろう。
藤吉と佐藤が見張っているはずだ。
でも、ここにいるよりは、何か出来ないだろうか。
ここにいても、何も、出来ない。

「彼女たちに会えば、少しは気が晴れるだろう」

ああ、でもやっぱり、一番は会いたい。
岡野と槇に会いたい。
天と志藤さんが大変なのに、俺はなんてひどい奴なんだろう。
でも、会いたい。
後、どれくらい会えるか分からない。
一回でもいいから、会いたい。

「いい友人が出来てよかった」

一兄がポンポンと俺の頭を撫でる。
昔から変わらない、涙が出るほどに優しい慰撫。
落ち込んでいる時も泣いている時も、こうしてもらったら、嬉しくなった。
今はただ、哀しくなるのだけれど。

「………」

俺には、ずっと、一兄と双兄と、それに天と、そして最近は岡野や槇、藤吉や佐藤が、いた。
泣いたら慰めてもらって一緒に笑って怒られて遊んで頼って、心を預けた。
天には、栞ちゃんがいた。
双兄には、熊沢さんがいた。

「………一兄は、友達、いるの?」

ふと気になって、一兄を見上げると驚いたように目を丸くする。
それから、苦笑して、俺の頬をその大きなてで包む。

「なんだそれは。心配してくれてるのか?」

心配。
違う、心配じゃない。
俺がこの人に対して、心配することなんてない。
どこまでも、強く揺るがない、弱みなんてない、完璧な人。
理性のバケモノと、熊沢さんは言った。

優しい笑顔。
俺を窘める時の厳しく険しい表情。
家族以外に向ける、冷静で穏やかな次期当主としての顔。
俺が、見てきた、一兄の顔。

大笑いすることは、あったかもしれない。
でも確かに、一兄が激昂したり、悔しさにのた打ち回るなんて姿を見たことはない。
その意味では、天の方が、ずっと感情豊かだった。

「一兄は………」
「ん?」
「一兄は辛いときとか、哀しいときとか、一緒にいてくれる人とか、悩みを相談できる人って、いる?」
「一応、それなりに友人はいるぞ」

おどけて見せる様子すら、計算されているようにも見える。
完璧な人。
揺るがない人。
どっしりとした威圧感と安定感。
これは、誰かにも、感じた。
ああ、そうだ、父さんだ。

「………一兄は、父さんに、似てる」
「先宮に?」
「うん」

いつだって落ち着いていて、揺るがなくて、何をしても傷つきもしなそうな、堅く強い意志
父さんに感じる印象と一緒なんだ。
父さんはめったに笑わないし、一兄以上に感情を見せないから、気付かなかった。
一兄は、いつも穏やかで朗らかで厳しいときもあったけど、笑ったり困ったりしていたから。
でもそれも全部、演じているようにすら、思えてくる。

「ああ、そうか」

堅牢な理性と意思と行動。
どんな状況でも冷静な対応が出来る、宮守の当主としてあるべき姿。

「俺が奥宮として作られたのだとしたら、一兄は先宮として、作られたんだね」

一兄は特に表情を変えることなく、首を傾げる。

「一兄は完璧な、宮守家の当主として、作られたんだね」

俺が、弱く不安定で、人を求め頼り、けれど周りとうまく溶け込めず家に執着するように作り上げられたとしたのなら、一兄はまったくの逆なのだ。
強く揺るがなく、誰にでも受け入れられそつなくこなし、一人でも立っていられるように、作られたのだ。

「四天は、その意味では、出来そこない、なんだ」

天は、迷い、栞ちゃんを頼り、時に揺れ、感情を発露する。
長兄と比べると末弟は、不安定だ。
一兄は困ったように笑う。

「四天は、力も頭も判断力行動力すべて、当主に向いていた。資質は誰よりも持ち合わせている」
「でも、一番大事な、家への………、家を、大事にする、心?忠誠心?みたいなのだけ、なかったんだね」

その違いは、なんなのだろう。
二人とも力を持ち、頭もよく、武術も得意で、冷静な判断力と行動力を持っている。
力の多少を別とすれば、二人の資質に、違いがあるとは思わない。
けれど、一兄は堅固で、天は不安定だ。
一兄と、天の、違いはなんなのだろう。

長兄と末弟の差?
天は甘やかされていた?
いや、そんなことはない。
傷だらけの天の体。
一兄の体よりも、傷は多かった気がする。
甘やかされてるなんてことは、ない。
どこで二人は、異なる存在になったのだろう。

歳の差、それはあるかもしれない。
経験の多寡。
家への忠誠心、無私の心、責任。
ああ、そうか、責任。

「………天は、仕事はいっぱいしてきたけど、家の行事とか、表の仕事は、あんまり関わってなかった」

力があるから、管理者としての仕事はよく駆り出されていた。
だが一族が集まる行事や、表でやっている会社経営などは、また若いこともあって参加することはあまりなかった。
俺よりは全然あるし、一兄の次ぐらいに教育を受けていたけれど、それでも、目の前の人は、違う。

「一兄は、昔から、家の仕事とか、会社のこととか、いっぱい、してきたもんね。一族の人も、一兄が一番、知ってる。一族の人は、一兄をずっと跡取りとして、扱ってる。責任の重さも一族の期待も一番背負ってる。一番知ってる」

正月などで集まる一部の人間を見ても、一族の人間は多い。
会社に関わる一族外の人も含めれば、それはもっと多いのだろう。
この人はずっと、それを見てきて、その肩に背負う覚悟をしてるのだ。
今の俺よりも幼い頃から、表と裏の仕事をこなし、一番教育を施され、家では俺の面倒を見て、弟たちの父親代わりでもあった。
そして先宮になれば、その身を今後も家のために費やすのだ。
きっと父さんのように、眉間に皺を刻み、滅多に笑わなくなるのだ。

その重さは、どれほどなのだろう。
その辛さは、想像がつかない。
俺は家のために生贄になれと言われた。
でももしかしたら、一兄も、生贄なのだろうか。

「………ねえ、一兄は、辛くない?苦しくない?」

俺は家のために生贄になれと言われて、辛かった苦しかった嫌だった。
この人は、嫌じゃないのだろうか。
家のために身を捧げることを嫌だと思うそぶりを見たことはない。
なにかに不満を漏らす姿すら、見たことはない。

「………」

俺の顔をじっと見ていた、一兄は表情を消す。

「お前は………」

それから眉をさげて、困ったような、怒ったような、不思議な表情で笑う。
ふいに、そっと抱き寄せられる。

「………一兄?」

強く、けれど優しい力で、その胸に引き寄せられる。
肩に顔を埋めると、一兄の表情が、分からなくなる。

「………そうだな。俺は一番きっと、先宮に、父さんに似ているのだろう」
「一兄?」

それは小さく低く、独り言のようだった。
問い返すけれどそれには答えてもらえず、頭をゆっくりと撫でられる。

「俺は、お前が信じてくれたから、一番の兄でいられた。辛いことも苦しいこともない」

一兄は、一番のお兄ちゃんだから、一兄。
そう言ったのは、いつだったっけ。
一兄はいつだって優しくて厳しくて、一番大好きな、尊敬する兄だった。

「いい子だ、三薙」

一兄が、俺の頭をもう一度撫でてから体を離す。
そして、優しく優しく、俺が幼い頃に向けてくれていたように笑う。

「三薙、お前はお前のしたいように、望むままにするといい」

ああ、やっぱり、何も見えない。
一兄の表情は、まるで能面のようだ。
この人の堅牢な意思を崩した先には、いったい何があるのだろう。





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