砂のように感じる食事を済まし、学校へ行く用意を整える。
何も知らないらしい母さんの前で、笑うのは、疲れる。
とても敏い人だから、下手な態度をとれば、すぐに悟られる。
でも、悟らせたい訳じゃない。
どんな結末になるにせよ、母さんには、何も知らないでほしい。
だったら最後まで、笑っていないといけない。

「おっはよー、三薙!学校行こう!」

玄関先に向かうと、明るい声が響いた。
いつの間に訪れたのか、そこには二人の友人の姿。
いや、もう、友人では、ないのか。

「久々だねー。早く学校行こう!」

今日も高い位置で結ったお団子が活発な印象を与える、元気で愛嬌のある女の子。
佐藤は邪気のない笑顔で手をぶんぶんと振っている。

「………」

胃がずしりと、重くなる。
ため息が漏れそうになって、唇を噛みしめる。
この子に、一時、恋情に近い感情を持っていたことがある。
それは形を持つ前に友情に変わったけれど、明るくて楽しくて、一緒にいるだけで元気をもらえるような気がした。

「三薙、体、大丈夫か?」
「………別に、どこも悪くない」

隣の眼鏡をかけた真面目そうな印象を与える男は、堅い表情でそう聞いてきた。
気遣う様子が、わずらわしい。
俺のことなんて、なんとも思ってないくせに。
二人とも、俺を監視するために、傍にいるだけのくせに。

「四天君と旅してたんでしょ?どこ行ってたの?」
「………」

振り切るようにさっさと靴を履き、早足で歩く。
二人は後ろから、着いてくる。
ああ、鬱陶しい。
こんな風に思ってしまうことにも、苛立って、哀しくて、胸が痛い。
好きだったのに。
大好きだったのに。
二人とも、大事な、人たち、だったのに。

「あ、なんかおつきの人とも一緒だったんだっけ?その人と仲いいの?」

佐藤の言葉は、裏があるのだろうか。
探ろうとしているのだろうか。
ぼろを出すな。
志藤さんは、何があっても巻き込むな。

「海」
「え?」

だから、それだけ答えた。
何も話さなければいい。
表情にも出すな。
こいつらに必要な情報なんて、何一つ与えるな。

「海、見たよ。綺麗だった」

あの海を思い出すと、少しだけ、胸が温かくなる。
鈍色の空の下、黒に近い藍色に染まっていた海。
想像していたような青い海では、なかった。
それでも綺麗だった。
潮の香りを、潮騒の音を、足の裏の砂の感触を、覚えている。
大事な人たちと一緒に見た、大切な光景。
キラキラと光る、大事な宝物。

「夏に一緒に行くって言ってたのにー。自分だけ行っちゃったの?ずっるーい!」

佐藤の無邪気さを装う高い声に、苛立ちが増す。
後ろを振り向いて、つい嘲笑ってしまう。

「俺は夏を迎えられるの?」
「さあ?私は知らなーい。私宮守の人間じゃないし」

けれど俺の棘のある言葉なんて、勿論佐藤は気にすることはない。
なんだか、ムキになる自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。
落ち着け。
感情を揺らすな。
感情を揺らしたら、きっと佐藤は喜ぶだけだ。
そうだ、そういえば、佐藤は、宮守家の人間では、なかったのだっけ。

「誠司は、宮守の遠縁なんだよな」
「………うん」

藤吉は気まずそうに眼を逸らしながら頷く。
そのびくびくとした様子にも苛立ってしまう。
ああ、本当に、落ち着け。
二人にあたっても、何もならないのに。

「そうだよー、藤吉は妹のために汚れ役を買って出ている優しいお兄ちゃんなんだから」
「え」
「佐藤!」

佐藤が言った言葉に、俯きかけていた顔をあげる。
藤吉は鋭い声で佐藤を叱責した。
けれどにこにこと笑う佐藤の口は閉ざされない。

「えーとね、確か家のために、宮守家に絶対服従なんだって。今時珍しい美談でしょ。やばい、泣ける!くー、感動の二時間スペシャルだね!」

内容の方が気になって、その茶化す様子は気にならない。
藤吉の方を向くと、藤吉は忌々しそうな顔で首を横に振る。

「………誠司?」
「気にするな、三薙。お前が気にすることじゃない」
「藤吉ったらやさっしー」

佐藤が感動にしたように口に手をあてて騒ぐ。
藤吉は佐藤を睨みつけて、吐き捨てるように言う。

「佐藤、やめろ」
「はあい。こっわーい」

佐藤の言葉の意味を知りたくて藤吉を見つめるが、藤吉はもう一度首を横にふった。

「………気にするな」

それ以上答える気はないように、口を閉ざした。
さっきの佐藤の言葉は、なんだったのだろう。
藤吉も、誰かのために、何かのために、やりたくないことをしているのだろうか。

「………」

そんなことを聞いたら、藤吉に対してどうしたらいいか分からなくなってしまう。
だったら、俺はどうしたらいい。
この怒りを苛立ちを憤りを、どこにぶつければいい。
憎むことすら、出来なくなる。
一兄も天も双兄も父さんも、藤吉も、誰も、憎めなくなってしまう。

「あれ、気にしちゃった?三薙は気にしなくていいんだよ?」
「………佐藤は、なんで、協力してるの?メリットってあるの?」

あくまで茶化す様子の佐藤に、怒鳴りつけそうになるのを堪える。
けれど、言葉には険がこもってしまった。
こいつは俺が怒り詰るほどに、きっと喜ぶのだろう。
案の定、俺の問いかけに佐藤は目をキラキラと輝かせる。

「知りたい知りたい?」

そんな風に言われると、素直に頷きたくはなくなる。

「………別に」
「なんか三薙落ち着いちゃってかわいくなーい、つまらなーい」
「そうか。悪かったな」

俺の態度が気に入らなかったのか、佐藤は鼻を鳴らして不満を示す。
そして聞いてないのに、教えてくれた。

「私は宮守の隣の管理地の人間なんだけどね、エサもらう代わりにお手伝いしてるの」
「エサ?」
「興味沸いた?」
「………」

興味が沸かないと言えば、嘘になる。
でも、興味が沸いたとは言いたくない。
口をつぐんだ俺に、佐藤が嬉しそうににんまりと笑った。

「えへへっ」

それは以前と変わらない明るく朗らかな、惹きこまれてしまう笑顔。
それなのに、受ける印象は、まったく違う。

「ナワバリではこれ以上喰うなって言われてるから、お隣から調達させてもらってるの」

その言葉に、ぞっと、背筋に寒気が走る。
エサ、喰う、ナワバリ。
その言葉が指す意味は、あまり考えたくない。
それにしても、佐藤に、変な気配なんか、今まで感じたことなかった。
本当に、普通の、明るい少女だった。
今だって、邪気などは、一切感じない。
それなのに、今感じる、この禍々しさは、なんなのだろう。

「………佐藤は、人間だよな」
「うーん、多分ね?」

佐藤は、俺の問いに不思議そうに首を傾げる。

「私もよく分からないや。お化けとは違うから、たぶん人間。ただ、私は家にエサを持って帰るの」
「家って」
「佐藤、いい加減にしろ。三薙も、こいつに必要以上に関わるな。こいつが喜ぶだけだ」

俺が問いを続けようとすると、藤吉が静かに割って入った。
もっと話を聞いてみたい気もするが、確かに、深入りはしない方がいい気がする。
今までの話からして、宮守家とは関係ないことだ。
だったら、俺に必要な情報などを持っている訳ではない。

「なによー、ひどーい」
「………佐藤」
「なになに?やっぱり私の話聞きたい?」

でも、ひとつだけ聞きたくて、佐藤の目をしっかりと見つめる。
藤吉が静止しようとするのを横目に見ながら、先を続ける。

「佐藤は、楽しくなかった?一緒に遊んだり、皆で旅行行ったりして、楽しんでたのも、嘘?」

俺の問いに、佐藤は鼻に皺を寄せる。

「………うーん、つまらないなあ」
「………」
「もっと三薙が苦しんでのた打ち回ってくれれば、楽しいよ?」

それから朗らかに笑って、そう言った。
とても無邪気に、純粋に。
そこには躊躇いも演技らしきものもない。
ただただ、本当に楽しそうだった。
ああ、純粋な悪意って、こういうことを、言うのだろうか。

「三薙、これ以上聞くな。気にするな。そいつの言うことに惑わされるな」

藤吉の言うことに、ひとつ頷く。
嘘の中に、本当を見つけようとした。
砂浜に落ちた小さな宝石を見つけようとするように、本当を探していた。

大好きだった女の子。
でも、探した本当は、砂の中に消え去ってしまった。



***




「宮守」

教室に入ると、岡野が駆け寄ってきた。
吊目気味の目が更に吊り上り、口をへの字にした不機嫌そうな表情。

「仕事だったんでしょ?怪我はねーだろーな?あんた本当にドジなんだから」
「ないよ。ありがとう、岡野」

でも、それが心配から来てる表情だって、もう知ってる。
岡野がとても優しいって、よく知ってる。

「なら、いいけどさ」

そっぽをむいて、唇を尖らせる。
そんな仕草一つ一つが懐かしくて、涙が出そうになるほどに、嬉しい。
ああ、また、戻ってくれた。
砂の中に紛れていない、ほんの少しだけ残った本当。
まだ、触れることが出来る。

駄目だ。
泣くな。
普段通りに、しなきゃ。
笑え。
岡野には、最後まで、日常でいてもらわないと。

「怪我したら、岡野に怒られるしな。しない」
「分かってればいい」

偉そうに頷く様子も、ただただ愛しい。
優しいものと嬉しいものをいっぱいにして、岡野にあげたい。
楽しいものだけで、囲まれていてほしい。
哀しいものなんていらない。

「宮守君、大丈夫?」
「うん。大丈夫だってば、槇。怪我してないよ」

槇が心配そうに首を傾げて聞いてくる。
きっと、槇は色々悟っている。
その上で、心配してくれている。
優しい優しい、賢い少女。
彼女にも、辛い思いも悲しい思いもさせたくない。

会えて、嬉しい。
嬉しい嬉しい。
俺の日常。
俺の友達。

「ただ勉強はかなり遅れちゃったな。教えてくれる?」
「仕方ねーな」
「とりあえず今どこまで進んでいるかだけ、教えてあげるね。後でノート貸してあげる。ちょっと待ってて」
「ありがとう」

連れだって岡野の席に行く二人の後ろ姿を見つめる。
槇には何か気づかれているかもしれない。
でも、最後まで、こんな日常を過ごしたい。

「みーなぎ!私もノート貸したげる!」

佐藤が後ろから抱き着いて、耳元で囁く。

「優しいね、二人とも。大事にしたいよね?」
「………」
「三薙があ、奥宮にならないと、あの二人にも被害が及ぶ可能性もあるんだよね?たーいへん!あ、それに三薙のせいで四天君もお付きの人も今監禁中なんだっけ?」

朗らかに笑う様子に、苦笑してしまった。
佐藤の腕を引きはがし、後ろを振返り、向き合う。

「佐藤は、俺をいたぶるのが楽しいの?」
「うん!」

佐藤はお団子が揺れるぐらい勢いよく頷いた。
本当に楽しそうににこにこと笑う。

「私はね、人が痛がったり苦しんだりするのが、楽しいの」
「そっか」

もうなんか、ここまでくると、怒りも呆れも通り越し、いっそ清々しさすら感じる。

「分かりやすくて、いいな。佐藤は」

憎みきれない人達に比べれば、純粋な悪意の塊である佐藤は一番分かりやすい。
悩まなくていい。
怒りと敵意を向けてもいい、相手だ。
毒気がありすぎて、逆にこっちの毒気は抜かれてしまったけど。

「………その反応は、つまんない」
「悪いな」
「つまんなーい!」

口をとがらせて地団太を踏むように、不満を漏らす佐藤。
その声を聞き咎めて、こちらに帰ってきた槇がやんわりと聞いてくる。

「何がつまらないの?」
「三薙がなんか落ち着いちゃって、可愛くなくなった!」

槇と岡野が顔を見合わせる。
それから岡野がまじまじと俺の顔を睨みつけるように見てくる。
強い視線に、思わず後ろに一歩下がってしまった。

「確かに、あんたちょっと雰囲気変わった」
「えっと、そう?」
「うん、なんか、落ち着いたっていうか、大人っぽくなったっていうか………」

大人っぽく、なったのだろうか。
落ち着いているのだろうか。
分からない。
ただ、感情を昂ぶらせることも、疲れてはしまったけど。

「なんか、変」
「変ってひどいな」
「だって、変」

こんな時、俺はどんな態度を、とってたっけ。
困ったように、笑って目を逸らせば、いいだろうか。

「えっと、俺、なんか、変わったかな」
「………」
「いで!」

答えは拳で返ってきた。
思いきり頭をはたかれて、思わず間抜けな声をあげてしまう。

「な、なに!?」
「一人でうじうじ悩むなよ!あんたが悩んだって余計なこと考えるだけなんだから!」
「………」

指を突きつけられて、一瞬言葉を失う。
驚き、そしてそれから浮かんできたのは、喜びと、嬉しさ。

「あ、はは」

本当に、岡野は、爽快だ。
真っ直ぐで、強くて、眩しい。

「そうだな。うん。ありがと、岡野。ぐじぐじ悩まない」
「そうだよ、悩んでんだったら、とっとと言えよ」
「うん」

岡野の隣にいた槇も小首を傾げてにっこりと笑う。

「宮守君、なんかあったら言ってね?」
「うん、ありがと」

笑っていないといけない、なんて思わない。
二人といると、自然と笑ってしまう。
楽しくなってしまう。

大事な二人。
大事な日常。

俺の守りたい、世界。





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