そう、か。 一兄が学校に行くのを許したのは、そういうことか。 本当に、一兄は俺のことがよく分かってる。 そうだ。 だってずっと一緒にいてくれて、ずっと俺を見守っていてくれて、ずっと俺を導いてくれた。 俺が誰よりも敬愛して、そして俺を誰よりも理解してくれている。 ねえ、一兄。 俺は、この世界を壊したくないよ。 岡野と槇だけでいい。 この二人を、どんな些細な悲しみからも、遠ざけたいよ。 そんなことは不可能なんだけど、それでも、俺がその一助になるのなら、それで構わない。 俺が奥宮になることで、彼女たちの助けに少しでもなるなら、それでいい。 そう俺が思うことは、分かってたよね、一兄。 それに俺がさっさと決断すれば、きっと天も志藤さんも、解放されるだろう。 俺が少しでも何かの役に立てるなら、それは、嬉しいことだ。 ずっと役立たずで何も成せないこの身を呪ってきたんだから。 それなら、もう、それでいいのではないだろうか。 「宮守?どうしたの?変な顔して」 「いや、なんでもない。あ、チャイム。始まっちゃった」 予鈴が、鳴り響く。 違うクラスの佐藤と槇は軽く挨拶をして、教室を出ていく。 槇は最後まで心配そうに、俺の顔を見ていたけれど。 「宮守、本当にどうしたの?」 岡野がいつも勝気な表情を浮かべる顔を、不安で曇らせている。 いけない。 心配させたらいけない。 この子には、笑顔で、いてほしい。 「あー、ノート見せてもらう時間なかった…」 「しょうがねーな。後で見せてやるよ」 やっぱり心配そうな顔をしているけど、偉そうにそう言って、軽く頭をはたく。 優しい優しい女の子。 岡野を守れるって訳じゃないけど、ほんの少しでも岡野のためになれるのなら、それで、いいのかもしれない。 天も志藤さんも、それで、解放されるのかもしれない。 「うん。お願いします。後で見せて」 「分かったよ」 不敵に笑って、自分の席に戻っていく。 隣にいた藤吉に視線を向けると、藤吉は以前のような朗らかな笑顔を浮かべていた。 中学で出会った頃から、藤吉いつだって笑っていた。 眩しくて辺りを照らす太陽みたいなやつだって、そう思っていた。 「誠司」 「………何、三薙?」 名前を呼ぶと少しだけ笑顔に苦みを浮かべる。 佐藤とは違うその人間味に、嗜虐的な気持ちが浮かぶ。 こいつにあたっても仕方ないのに。 これは八つ当たりだ。 全ての元凶は、宮守家なのに。 でも、もっと傷つけたい。 もっと苦しむ姿を見たい。 だって、痛かった。 だって、苦しかった。 だって、お前に傷つけられた。 「俺、岡野と槇と、出会えてよかったよ。でも、出会わなければよかった」 「………」 出会えて嬉しい。 出会ってしまって後悔する。 彼女たちを傷つけたくないのに、俺の存在が優しい彼女たちをきっと悲しませる。 「そしたら、こんな苦しくなかったのに」 藤吉が今度こそ眉を顰め、顔を歪める。 その痛みに満ちた顔に、暗い喜びを覚える。 そういう顔をするお前には、嘘ばかりじゃないと思える。 傷ついてくれるのは、少しでも俺に同情でも後ろめたさでもあるのだと思える。 俺がまだお前に与えられる感情があるのだと、思える。 だって、痛かった。 だって、苦しかった。 だって、お前に傷つけられた。 だって、お前がずっと、大好きだった。 休み時間になったら、岡野が席でノートを見せてくれた。 量が多いから大部分はコピーすることにしたが、次の時間のものだけは写せと見せられている。 「ほら、ぼーっとしない。さっさと写せ」 「は、はい!」 「ったく」 岡野は律儀にも前の席に座って、俺を見張っていてくれる。 授業の合間の休み時間は、それほど長くない。 焦って写していると、岡野のでかい指輪をした指がノートをトントンとたたく。 「そこ違う」 「はい!」 なんていうか、スパルタだ。 いや、岡野がつきっきりで見ていてくれるって、嬉しいけど。 すごく、嬉しいけど。 「なんていうかさあ」 「ん?」 必死にペンを動かしていると、岡野がふいにぼそりと言う。 声につられて顔を上げると、岡野はノートに目を落としながら不機嫌そうな表情をしている。 「家の事情なんだろうけどさあ、少しは仕事だっけ?とかって控えられないの?」 「え」 「あんたも、受験すんでしょ。こんなじゃ受験失敗すんじゃねーの。………まあ、あんた頭いいけどさ」 ぼそぼそと、低い声で言う言葉は、ぶっきらぼうで乱暴だ。 けれど、思わず、ノートを写す作業を止めて、頬が緩んでしまう。 その言葉の内容は、岡野らしい、労わりが満ちている。 「へへ」 「なんだよ」 「心配してくれて、ありがとう」 「ば、ばっかじゃないの!」 途端に顔を赤くして、俺の頭をはたいてくる岡野。 けれど、嬉しくて仕方ない。 つい、にやにやしてしまう。 どうせ、受験なんて、出来ないだろうけど。 どちらにせよ、もう勉強する気にもなれない。 学校にいるのは楽しい。 勉強も楽しい。 でも、先に何も繋がらない。 いつか来る終わりは、たぶんそう遠くない。 ならば、受験なんて、するだけ無駄だ。 大学に行くことを夢見た。 家から出れるかもしれないと期待した。 愚かで身の程知らずな、希望だった。 「………そういえば、岡野のノート綺麗だよな。なんか前よりずっと丁寧で綺麗。写しやすい」 思考を振り払うために、ノートにもう一度視線を戻す。 前に貸してもらったノートよりもずっとまとめられていて、分かりやすく、綺麗だった。 岡野が丁寧に書いたのが分かる。 「………べ、別に、前と変わらないし。丁寧とかじゃないし。いや、えっと、ほら、私も受験生だし」 「そっか。うん。勉強頑張ってんだな。岡野、偉い」 「………」 「岡野?」 もう一度顔をあげると、岡野はなんだか顔を赤くしていた。 褒めたのが照れくさかったのだろうか。 「えっと、ほら、そりゃ、私は後に二人つかえてるから、浪人なんて出来ないし、出来れば返済なしの奨学金ほしいしさ。うちは、私で終わりじゃないし」 「え?」 なぜか慌てるように続ける岡野の言葉に、何かひっかかった。 「まあ、あんたんところは金持ちだし、残りは四天君だけしね。あの子はあんたよりしっかりしてるし、心配することないだろうけど。あんたの方が心配される立場か」 「………悪かったな」 いつもと変わらないように、拗ねた風を装って言う。 そうだな、四天は、しっかりしているから、大丈夫。 あいつはきっと、そつなく受験もこなして、大学に行くことだろう。 何にも囚われず、自由に生きてくれれば、それでいいかもしれない。 そう想像すると、羨ましいような、悔しいような、嬉しいような何とも言えない感情が沸く。 あいつに一緒に、苦しんでほしい訳じゃない。 でも、自由になるのは羨ましくて、ずるいと思ってしまう。 「うちは本当に、下二人が馬鹿だからなあ」 「………下、二人」 「そ。あんたは弟がああだからいいけどさ。馬鹿な弟妹持つと大変なんだから。私も頭よくないけど、せめて見本になってやらないと、あいつら絶対勉強しねえ」 岡野の弟と妹は、岡野に似て真っ直ぐで明るくて、とてもかわいかった。 馬鹿馬鹿言いながら、岡野の言葉には愛情が籠っている。 それは、とても微笑ましい。 俺もこんな風になれればよかった。 「見本、か」 「何よ。私じゃ見本にならないとか言いたいんだろ。どーせ、私は馬鹿だよ」 「い、言ってないよ!岡野はしっかりしたいいお姉ちゃんだし!」 「な、ば、馬鹿か!」 一人で言って一人で納得して怒り出す岡野を慌てて宥める。 本心からの言葉に、なぜか殴られたけど。 「………」 何かがひっかかる。 なんだろう。 後に続く、人間。 見本になる。 終わりじゃない。 「………そうだ、終わりじゃない」 「え」 「あ、なんでもない」 奥宮になってもいいと思った。 少しでも俺が何かの役に立てるならそれでいいと思った。 それが皆から望まれているなら、もうそれでよかった。 でも、俺が奥宮になったら、その後はどうなるんだろう。 それで、終わりじゃない。 後に、続く人間。 次の奥宮は、誰になるんだ。 この忌まわしいシステムは、この後も続いていくのだろうか。 |