『君はこれからどうする?』

どこか芝居がかった仕草であの男はそう言った。
私は、何も答えることが出来なかった。
答えなんて決まっている。

千尋を捨てて、根木の手を取る。

それが、最善だ。
いや、他にも方法があるのかもしれない。
けれど、今の私にはそれしか、考えられない。

けれど、そうしたら千尋は、どうする。
千尋は今度こそ、私を切り捨てるだろう。
卑怯で醜い私を手酷く傷つけ、顔を歪め、罵倒するだろう。
そしてもう、見てもくれないかもしれない。
なかったものとして、扱うかもしれない。

「………は」

ペンを放り投げる。
胃がきりりと痛んだ。
勉強が進まない。
私は何をしているんだ。
人生がかかった試験を前に、全く別のことを考えている。
イライラする。

うだうだと悩む自分が嫌いだ。
そして、こんな風に悩ませる根木や千尋にすら、苛立ちが向かう。
全く勝手だ。
どこまでも最低だ。
そう思いながらも、そんな自分をどうすることもできない。

でも、わずらわしい。
何もかも捨てて、楽になりたい。
一人きりになりたい。
勉強にだけ集中したい。
受験に、集中しなくちゃならないのに。
その先も、そして今のことも、考えられない。
何も考えたくない。

「…………もう、いやだ」

もう一度ペンを取ろうとして手がさまよい、そのまま机に突っ伏す。
数式も英単語も年号も、何もかも頭に入らない。
苦しい。
なんで私だけこんな苦しい思いをしなくてはならないんだろう。
どうして、皆あんなに幸せそうなのに。
あんなに笑っているのに。
どうして私だけ、ただ笑っていられない。

何もかも嫌だ。
どうしてこうなってしまったんだ。
どこで間違ってしまったんだろう。

あの時。
あの時、手を取らなければ、私は笑っていられただろうか。
千尋を振り払って、根木の手を取れば、こんな苦しい思いをしなかっただろうか。
あの太陽の匂いに、素直に包まれていられただろうか。

身にまとわりつく違和感。
かすかな嫌悪感。
タブーを犯している畏怖。
全てが、重い。

行き場のない怒りが、千尋へと向かう。
自分で選んで、手をとったはずだ。
私は千尋を選択したのだ。

それなのに、引きずり込まれたと思う。
なんて、勝手な女。
ああ、前から何も変わっていない。
千尋を恨んで、拗ねて、執着して、縋って。
今も何も変わらない。
恨んで怒って、けれど縋っている。

けれど、千尋がいなければ、私はもっと楽に生きられただろうか。
根木の手を、とることができただろうか。
もしかして、お父さんもお母さんも、私を見てくれただろうか。
愛して、くれただろうか。

以前に、何度も繰り返した問い。
答えはない。
だって千尋はいる。
消えない。
消せない。
だから、現実は変わらない。

ああ、嫌だ。
こんなことを考えている自分が嫌だ。
私に優しくしてくれた千尋。
ただ一人の弟。
たった一人の家族。
唯一、私に優しくしてくれた人間。

「ただいま」

玄関が開いた音がした。
澄んだ通りのいい、少しだけ高い声が聞こえる。
胃の中の鉛がずしりと重量を持って、増えた気がした。

両親は家にいない。
それなら、千尋は私の部屋に来るだろう。

リビングに行った気配がする。
けれどすぐに、二階に向かう軽やかな足音が響く。

いやだ、今は来ないでほしい。
今はあの柔和な笑顔を見たくない。
想像しただけで、胃がキリキリと痛む。
気持ちの整理がつかない。
今の醜いドロドロとした黒いものを抱えたまま、弟に会いたくない。

せめてもう少し待って。
このままでは、千尋にひどいことを言ってしまいそうだ。
千尋に、嫌われてしまうかもしれない。
けれど、足音は近付いてくる。

いやだ。
来るな。

鍵をかければよかったのだと気付いたのは、小さなノックが響いた後だった。
震える体を押さえつけて、私はドアに向き合う。
まるで化け物がいるように、ドアの向こうが恐ろしく感じる。

「真衣ちゃん?」
「………入ら、ないでっ!」

声はかすれていた。
それほど大きな声にはならなかった。
けれど、千尋の声が怪訝そうに低くなる。

「真衣ちゃん?どうしたの?」
「今は、ちょっと、気分が悪いの。入らないで」

呼吸を整え、なんとか言い訳する。
けれど、こんな言葉で弟が止まらないのは分かっている。
あれ以来、我儘に自分の思うままに振る舞うようになった弟は、私の言うことなんて聞かない。

「真衣ちゃん?大丈夫?入るね」
「はいら、ないで………」

ドアノブが回る。
体が震える。
吐き気がする。
怖い。

弟だ。
大好きな弟だ。
愛しい弟だ。
ずっと一緒にいてくれた千尋だ。

「真衣ちゃん?」

ドアが開く。
柔和な整った顔。
気遣うような柔らかい声。
懐かしい、声。

それなのに、こんなにも怖い。
何が怖いのか。
分からない。

「どうしたの?」
「………なんでも、ない」
「顔が真っ青だよ?風邪ひいた?」

心底から心配する、優しい声。
不安そうに顔を曇らせても、その顔は整って綺麗だ。
この弟さえいなければ、私は、幸せだっただろうか。

「真衣ちゃん?」

長い脚は、二歩で私と弟の距離を詰める。
その白い顔を、ただ呆けたように見上げる。
細くて綺麗な形をした手が、椅子に座ったままの私の頬を撫でようとする。

「さわら、ないで」
「真衣ちゃん?」

俯いて、そっとその手から逃れる。
千尋が不思議そうな声で、名を呼ぶ。

嫌悪感。
罪悪感。
安心感。
焦燥感。
せめぎ合う。

「どうしたの?」
「なんでも、ない。今日はちょっと、もう寝ようと思って」
「本当に、熱でもある?」

千尋が熱をはかろうと、額を私の顔に寄せる。
瞬間、ざわりと全身総毛だった気がした。

「いや!」

思わず千尋の体を、押しのける。
そのすぐ後に自分の行動が信じられなくて、戸惑う。

「あ………」
「………真衣ちゃん?」

千尋の声に不審が滲む。
違う、こんなことしたい訳じゃない。
千尋の柔らかい腕の中は、どこよりも安心する場所だった。
触れられたくない訳じゃない。
でも。

「………あ」
「………」

もう一度、千尋が私に手を伸ばす。
その手が、とてつもなく怖いものに感じた。
逃れようと体を引く。
ガタガタと音を立てて、椅子から転げ落ちた。

「…………」
「あ、ちが………違う………」

お尻と背中が痛かったが、それどころじゃなかった。
拒絶してしまった弟を、恐怖と共に見上げる。
怒っただろうか。
また、ひどい言葉を言われるだろうか。

見上げた先の千尋は、ただじっと静かな顔で私を見つめていた。
その表情は、怒りも驚きも何も映していなかった。

「………」
「………ごめん、ごめん、千尋。ごめん、今日は」

それが余計に怖くて、私はひたすらに謝る。
怖い。
唇が震えて、うまく話すことができない。
逃げたい。
けれど、床に座り込んだ私の前に立つ弟から逃れることは、できない。

「どうして?」
「……今日は、ちょっと調子が悪いの。ごめん、ごめんね」

千尋が、少し喉の奥で笑った。
体が、小さく震える。
止まらない。

「ふーん」
「ごめん、少し、休むから」
「確かに、顔色が悪いね」
「………あ」

長身の体をかがめ、私の前に座り込む。
ずり下がるように体を引こうとするが、すぐに机が背についた。
これ以上、下がることはできない。
この檻から、逃げられない。

「気分が悪い?」

優しい、穏やかな声。
いつもの優しい柔らかい千尋の表情。
柔和なたたずまいの、弟。
それなのに、どうして、こんな。

「俺もね、気分が悪いな」
「………ち、ひろ?」

千尋の手が、私の伸びる。
避ける間もなくいきなり走った衝撃に、呻き声が漏れる。

「っつ!」

大きな手が私の髪を引っ張る。。
小さな、けれど鋭い痛みに顔が歪む。
千尋が鼻を鳴らして、手にした私の髪に顔を寄せる。

「臭い」
「な……に……」

突きつけられた言葉の意味が、分からない。
確かに今日はまだお風呂には入っていない。
もう初夏の陽気だ。
確かに汗臭いかもしれない。
けれど、突然なんなんだ。

疑問に思うと、千尋は低い声で、それを告げる。
弟が指しているのはそんなことではなかった。

「なんでここ最近、あんたの髪から煙草の匂いがするのかな?」

呼吸が、できなかった。
ひゅっと、自分の喉から変な音がした。

汗の匂い。
太陽の匂い。

そしてタバコの匂い。

「………あ」
「ねえ真衣ちゃん?」

千尋が笑う。
柔らかく。
綺麗に。
優しげに。

「これって真衣ちゃんが気分悪いのと関係ある?」

眩暈が、する。





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