「あ………」

言葉を忘れてしまったように、さっきから意味を成さない音だけを繰り返す。
何を言ったらいいのだろう。
否定、しなければいけなかったのだろうか。
でも、もう遅い。
千尋の言葉は問いかけではなく、確信している。
嘘なんてついても、信じてもらえる余地はない。

「ねえ、真衣ちゃん?どういうことかな?」

千尋は綺麗に笑っている。
けれどやっぱり答えることが出来ずに、ただ千尋を見つめ返す。
眼を、逸らしたい。
けれど、指先すら動かすことが、できない。

「答えられないんだ?」

笑顔が、消える。
綺麗な顔がくしゃりと歪む。
眉をひそめて歯を食いしばる。
苦しげに、喘ぐように息をつく。
そして顔を伏せた。

「ち、ひろ………」
「………」

言い知れない不安に、なんとか無理やり弟に手を伸ばす。
けれどその指が触れる前に、大きな手が掴んだままだった髪が、再度強く引っ張られる。

「痛っ」

思わず呻くと、ゆっくりと千尋が顔をあげた。
表情はない。
けれどその眼は強くぎらぎらと光って、私を睨みつける。

「……ああ、馬鹿だったな」
「い、たい、ちひろ、痛い」
「馬鹿だったな、馬鹿だったよ!」

急に大きくなった声に、体が震えた。
ぞわぞわと、寒気がする。
怖くて、逃げ出したい。
けれど、髪を掴まれ、退路をふさがれ、逃げることができない。

「本当に、俺って馬鹿だな。どうしてあんたのことを信用したりしたんだろうな」

そこまで言って、また笑う。
眼は相変わらず私を睨みつけたまま。
くすくすと笑う。
とても綺麗に。
眼が離せない。
体の震えが、止まらない。

「あんたみたいな尻軽な女、どうして信じたんだろう。何浮かれてたんだろう。あはは、何度裏切られれば学習するんだろうね。俺って本当に馬鹿」

髪をぐいっと引っ張られ、自然と上半身がかしぐ。
千尋が顔を近づける。
息がかかるほどの至近距離で、私の眼を覗き込む。

「ねえ、あいつはよかった?あいつのでかかった?俺よりよかった?感じた?」

投げかけられた暴言に、頭に血が上る。
屈辱で、羞恥で、怒りで。
それは、私を、そしてあの優しい男を汚す言葉。

「ちが!違う、千尋、やめて!」
「何が違うんだよ!」

叫ぶと、それ以上の声で怒鳴りつけられる。
家中に響くような怒声に、喉の奥で出し損ねた声が変な音を立てる。

「臭いんだよ!あいつの匂いなんかさせるなよ!」

いつもの静かで穏やかな表情を消し去り、激しい感情をあらわにする弟。
最近知った、熱くて強い弟の一面。
千尋はイライラしたように髪をかきむしると立ち上がる。
手を引っ張られ、肩に鈍い痛みを感じて、声を上げる。

「痛い!やめ、いやだ、やだ!」
「うるさい!」

また怒鳴りつけられ、黙りこむ。
千尋の感情が、怖い。
こういう感情を持っていると、知っていたけれど。
この前ようやく、知ったけれど。
それでも慣れない激しい感情が、怖い。
降りかかる、強い感情が、怖い。

黙ったまま、一階まで引っ張られる。
途中足がもつれて階段を落ちそうになったが、千尋は気にする様子はない。
着いていくのに必死で、抵抗することもできない。
そのままバスルームに放り込まれた。
乱暴に投げだされて、バスタブにもたれるように倒れこむ。

「な、何」

聞いても千尋は何も答えない。
黙ってシャワーの蛇口をひねると、勢いよく流れだした水を私に向ける。

「つめたい!」
「………」
「つめたい!いや!けほっ、やっ」
「…………」

頭からかけられる水が鼻と口に入り、咳き込む。
苦しい。
水から必死に逃れようと顔をそむけるが、肩を抑えられ執拗に水をかけられる。
もう初夏で気温は低くないとはいえ、クーラーの効いた部屋にいた体は冷えている。
温めの水でも、冷たく感じた。

「や、め、ちひ、ろ……」
「落としてよ、あいつの匂い」
「ちひ、ろ……」

水の向こうの千尋の顔はぼやけてよく見えない。
服が水を吸って、重くなっていく。
まとわりつく布が、気持ち悪い。
寒い。
苦しい。

「ねえ、俺、あいつに関わるなって言ったよね?あんたは頷いたね?約束したよね?」
「いや、やだ、やだ、千尋」
「どうして何度も俺を裏切るの?必ず誰かを見つけて、誰にでもすり寄って、誰にでも媚を売る」
「いや………違う、違う、違う」
「あんたは俺のものだって言ったよね?あんたは頷いたよね?傍にいるっていったよね?」

何も、応えられない。
頷くことすらできない。
ただ少しでも水から逃れられるように、千尋の怒りから逃れられるように体を抱え込み、身を縮める。

「…………」

きゅ、と蛇口をひねる音がして、水の衝撃がやんだ。
ようやく自由に酸素を吸うことができるようなり、大きく息をする。
寒い。
ガタガタと、抱きしめた自分の体が震えているのが分かる。

「大丈夫?」
「………」

気味が悪いほど優しい声が、すぐ傍で聞こえる。
温かい息が、耳をくすぐる。
顔は上げられない。
でも、柔らかい抱擁が私の体を包む。

「ああ、ごめんね。体冷えちゃったね。あっためないとね」
「ちひ、ろ………」
「服まで濡れちゃった。着替えようか。着替えさせてあげる。ご飯は食べた?スープでも作るよ」

千尋の声は、先ほどまでの嵐のような感情が嘘のように静かだ。
優しく、柔和な声がバスルームの中に響く。
それは涙が出そうなほど、優しい声。

「………千尋」
「全部全部、俺がやってあげる。面倒みてあげる。あんたは何もしなくていいよ」
「千尋」
「真衣ちゃん、何もできないもんね。出来そこないだしね。頭悪いし、性格も悪いしね。なんであんたなんかに、みんなひっかかるんだろう」

優しく優しく、毒を吹き込む。
流れるように歌うように、私を突き刺す言葉の刃。

「ほんと、どこにもいいところないのにね。あんたもうまく騙すよね。よくやるよ」
「やめ、て、千尋」

確かに私は馬鹿だ。
卑怯だ。
けれど、私だけが悪いんじゃない。
千尋さえ、いなければ。
千尋さえいなければ私だって、もっと明るい所にいられたのではないのか。

「タチ悪いね。最悪な女。媚売って振り回して利用して」
「千尋!!」

恐怖と共に、怒りの衝動がこみあげる。
耐えられなくて、顔をあげて目の前の弟を睨みつける。

「……あ」

けれど、そこで言葉を失った。
顔をあげた先の弟は、予想に反して笑っていた。
ただただ優しく笑っていた。
昔のように。
ただ私の全てを肯定してくれていた、あの頃のように。

「でも、安心してね。俺はそんな真衣ちゃんが大好きだよ。俺、たった一人の弟だしね。大丈夫、俺はずっと一緒にいるよ」

長い手が、濡れた体に絡みつく。
じっとりと、服が肌に擦れて気持ちが悪い。
不快感が突き上げる。

「大好きだよ、真衣ちゃん。ずっとずっと傍にいるよ」

優しく、綺麗で心地よい言葉に、寒気がする。
柔らかな抱擁は、昔のままなのに。
おかしいおかしい、こんなの、おかしい。

「………千尋」
「どうしたの?」
「………千尋、駄目だよ、こんなの、駄目だ」
「それもあの男に言われたの?」
「違う!根木は関係ない!私、私が………」
「あの男の名前を口にするな」

柔らかな声は、急にトーンを変えて低くなる。
一瞬息を飲んで、怯む。
でも、駄目だ。

「あのね、千尋、千尋」

千尋から、なんとか体を離す。
上から私を朗らかに、けれど冷たく見下ろす弟をまっすぐに見る。
こんなの、駄目だ。

「あのね、千尋」
「…………」

言わなくちゃいけない。
全てを間違った、そこからやり直さなければいけない。
もう手遅れだけど。
それでもこのまま間違っていたら、いけない。

「あのね」

苦しくて、眼をつぶる。
大きく息を吐く。
吸う。

『俺と幸せになろう!』

どこか軽薄な男の明るい声が聞こえる。
太陽の匂いが、した気がする。
顔を上げる。
弟を、見上げる。
たった一人の、弟を。

「私は、千尋を、弟として、好き」

言ってしまった。
ついに言ってしまった。
全てが壊れるかもしれない。
罵倒されるかもしれない。
でも、受け止めなければいけない。

だって、こんなの駄目だ。
こんなのいやだ。
私は、明るいところに、行きたい。

苦しくても、悲しくても、辛くても。
それでも。

「だから?」

そして、帰ってきた言葉に、全ての感情が凍りつく。
見上げる男の表情は変わらない。

「え」
「だからどうしたの?知ってるよ、そんなの」

どこか疲れたように、投げやりに吐き捨てる。
そして、千尋は心底馬鹿にしたように小さく笑った。
くすくすと、こらえきれなくなったようにそのまま笑い続ける。

「あんたは別に俺を最初から男としてなんか見てない。ただ一人傍にいて言うこと聞いてくれる弟って名前の奴隷だ」
「………」
「あんたは嫌なんだ。俺をコントロールできなくなるのが。無害で居心地のいい弟じゃなくなるのが。あんたが欲しいのはただ自分が好きにできるぬいぐるみ」

千尋が笑う。
綺麗に笑う。
ただ一人の、私の弟。
何でも出来て、誰からも愛される優秀な弟。

ずっと、いなくなればいいって思っていた。
ずっと傍にいてほしいと、願っていた。
好きだった。
嫌いだった。
弟であることが憎かった。
弟であることが誇らしかった。

「そんなの、知ってるよ。だからどうでもいい。もうあんたの意思もどうでもいい」
「違う、千尋」
「もういいよ。これまで俺はあんたの都合のいい弟だったでしょ?だったら今度はあんたが俺の都合のいい存在になってよ」

違う、違う。
そういう訳じゃない。
私は千尋を。
千尋を。

「違う!千尋、聞いて!お願い、聞いて!」

千尋から笑顔が消える。
私とは違う、母によく似た硬質の整った顔。
そういう顔をすると、まるで作りもののようだ。

「聞かない」
「………あ」
「なんで、あんたの言うことなんて聞かないといけないの?あんたは俺の言うことを何一つ聞いてくれないのに」

ぎゅっと、また抱きしめられる。
もう二人とも服がずぶ濡れだ。
冷えた体と指先が、痛い。
うまく体が、動かない。

「どこまでも勝手だよね。自分だけ不幸な悲劇のヒロイン。自分は何一つ悪くないって被害者面。全部俺が悪いの?」

冷たい。
怖い。
寒い。
痛い。
苦しい。

「だから俺も勝手にするよ」

柔らかい抱擁が、私を包み込む。
昔から変わらない温かい腕。
昔と変わってしまった、温かい腕。

「ね、真衣ちゃん。大好きだよ」

優しい優しい声が、冷たく響いた。





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