言葉はすれ違う。 心は通わない。 すぐ傍にいるのに遠い。 触れているのに、体温は伝わらない。 すべてがちぐはくで、違和感だらけ。 ただただ不快感が、そこにある。 「千尋、やめて!!」 千尋の手が、確かめるように執拗に這う。 全身を貫く不快感に、震えが止まらない。 濡れた体と髪に、クーラーの効いた部屋の中、体温を奪われていく。 首筋を湿った生ぬるい感触が伝って、背中が跳ねる。 「ひっ」 「体が冷たい。堅いままだね。気分が乗らない?」 「………いや、だ、こんなのいやだ。いやだ」 「ついこないだまでは足を開いて爪を立ててたのに。本当に心変わりが早いよね。その計算高さとずる賢さは思わず尊敬しちゃうよ」 バスルームで服を脱がされ、部屋まで引きずられてきた。 私の抵抗なんて千尋にとってはなんでもないもので、グレーのベッドに投げ出される。 それでも手足をばたつかせ、なんとかその大きな手から逃れようと足掻く。 運動不足の体はちょっとの動きで、すぐに息があがる。 「千尋、私は、姉弟で、いたい」 「姉弟だよ」 「違う!」 こんなのは違う。 こんなのは望んでない。 千尋の顔が、首筋から更に下にさがってくる。 嫌だ。 「っつ」 「あ………」 顔を押しのけようとして、爪が白い肌にひっかかった。 皮膚を抉る、嫌な感触。 うっすらと、赤い筋が頬に出来る。 千尋は軽く舌打ちして、顔を上げた。 強く私の肩を押さえつけ、見下ろし嘲る。 「あいつのほうがうまかった?俺下手かな、ショックだね。他の男を知ったら幻滅した?」 「私と根木はそんなじゃない!」 「ああ、そう」 私の言葉なんて信じていない。 千尋は私の言葉なんて、聞いていない。 私を見ても、いない。 それが、辛い。 悔しい。 悲しい。 「他の女の子には結構好評だったんだけどな。ああ、あれも演技だったのかな。女は演技がうまいから。まあ、あんたほどじゃないけどね。みんな、素直で可愛かった」 綺麗な整った顔を醜悪に歪めたまま、弟は笑う。 その言葉を聞いて、吐き気がするほどの不快感を感じた。 思わずもう一度、その秀麗な顔を叩きつけようと手を上げようとするが、肩が押さえつけられてそれもできない。 「………千尋っ!」 「黙っててよ」 「千尋!」 もう一度、私の体に顔を寄せる。 どこまで、私の意思を無視するんだ。 怒りと悔しさで、涙が滲む。 「いい加減に、して!私はあんたのおもちゃじゃない!」 「…………」 何が私の都合のいい存在だ。 どこがだ。 昔から何もかも、私には自由にできないことばかり。 昔から、あんたが全て奪っていった。 私が自由にできることなんて、何一つなかった。 そして今度もあんたは私を自由にする。 「あんたに好きなように遊ばれる存在じゃない。私は、私は」 「だったら俺も、あんたのおもちゃじゃないよ。さっきも言ったようにね」 私が怒りで顔を赤くして怒鳴りつけても、千尋は気にする様子はない。 けれど動きを止めて、体を起こした。 拘束がなくなり、私は急いで体を起こしシーツを体に巻きつける。 その一連の動作を、弟は黙って見ていた。 そして睨みつける私に、静かに問いかける。 「あんたは、俺にどうしてほしいの?」 どうしてほしい。 聞かれて、考える。 ただ、こんなのはいやなのだ。 こんな、苦しいのはいやだ。 「私は………」 「私は?」 「私は、ただ、普通の、姉弟として」 そうだ、他の家の姉弟の同じように、距離があって、ケンカして、そして、仲良くて、笑いあって。 そういう、普通の、変わらない、関係で、いたい。 「普通って何?あんたの言うこと聞いて、あんたに優しくして、あんたのためだけに生きる弟?」 「………ちが、う」 「違うの?」 「違う!」 違う、別に私の言うことなんて、聞かなくていいのだ。 ただ、前みたいに。 前のような優しく柔和な弟に戻ってほしい。 いや、今の千尋が、本来の姿なのか。 それなら、前の千尋を望むのは、間違っているのか。 私は本当に、千尋を人形として見ているのか。 自分の都合のいい存在に戻ってほしいと、そう言っているのか。 違う、そうじゃない。 そうじゃないんだ。 そうじゃない。 そんなはずない。 「そうじゃない、そうじゃない。ただ、ただ、普通に、普通に………」 普通に、笑い合っていたい。 優しい関係になりたい。 罪悪感も違和感も、そんなもの感じない、こんな傷つけあう関係じゃない。 傍にいて自然な、そんな存在でいたいのだ。 「無理だよ。そんなもの、元々ない」 「…………っ」 「この家にそんなもの、最初っからないんだよ」 必死に、考えながら言葉を紡ぐ。 それなのに、向かいに座った千尋は冷たい表情で言い切る。 少しだけ哀れそうに笑って、そしてそれを突き付ける。 「真衣ちゃんが望むような愛してくれるお父さんとお母さんも、優しくて頼もしい弟も、そんなもの最初からない」 シーツを更にきつく、体に巻きつける。 冷えていく体を、温めるように。 それなのに、クーラーの冷たい風は、私の体温を奪っていく。 「真衣ちゃんがどんなに夢見ようと勝手だけど、そんなもの、ないんだよ」 子供に言い聞かせるように、声だけは優しい。 ゆったりとはっきりと丁寧に、私にその言葉を届ける。 「分かってるでしょ?生まれた時からずっとこんなところにいるんだから」 知らない知らない知らない。 分かりたくない。 いや、分かっている。 ずっと知ってる。 ずっとずっと、知っている。 「ここにいるのは、あんたに無関心な両親と、あんたに欲情する狂った弟だけだ」 ああ、それでも 「普通の姉弟、幸せな家庭、なんてものはないんだよ」 眼を瞑っていたかった。 見ないで、いたかった。 「いい加減認めてよ。諦めてよ。何もしないくせに望むのだけは人一倍。待っててもあんたに都合のいい現実なんてやってこないよ」 「…………う」 「まあ、あんたをそういう風にしたのは、俺のせいでもあるんだけどね」 千尋が自嘲気味に、小さく笑う。 そしてもう一度まっすぐ私を見つめる。 迷いなく、静かに。 「あんたが今の俺をいらないと言っても、もう優しい理想の弟は戻ってこないよ。前にみたいには、なれない」 キリキリと胃が痛む。 胸が軋む、音がする。 何かが壊れていく、音がする。 「だから、あんたが俺に傍にいてほしいって言うなら、あんたは我慢するしかないんだよ。今の俺にね。当たり前だろ、何かを犠牲にしないで何かを手に入れられるなんてことはないんだよ」 そうだ。 だから私は一度、気付かないふりをした。 深く考えないで千尋の手を取った。 そうすれば、変わらないと思ったから。 変わらない毎日が続いていくと思ったから。 千尋が傍にいて、守ってくれる。 息苦しくて寂しいけれど、穏やかな日々が続いていくと、思ったから。 「俺はあんたの心を無視して、あんたを手に入れる。それでいい」 けれど、息苦しさは増すばかり。 違和感が消えない。 罪悪感が苛む。 穏やかな弟はいなくなってしまった。 何も変わらない日々は、なくなってしまった。 「………ち、ひろ」 「あんたが俺をどんなに嫌おうと憎もうと、もうどうでもいい。元々嫌われてたしね。もう、そこにいるだけでいいよ」 「嫌ってなんか………」 「ない?」 小首を傾げて、弟が笑う。 綺麗な弟。 優しい弟。 その柔らかな仕草は、何も変わらないのに。 そう、千尋を嫌いつつ、縋っていたあの日々から、何も変わっていないのに。 「………違う、嫌いだった。大嫌いだった。あんたなんていなければいいって思ってた」 「知ってるよ」 そう、嫌いだった。 大嫌いだった。 「嫌いだった。嫌いだった!あんたがいるから、私が愛されない!あんたなんていなければ、私はきっともっと幸せだった!」 「そうかもね」 嫌いだった。 大嫌いだった。 でも、それでも。 「………でも」 「………」 「でも、好きだった。あんたがいるから、私は耐えられた。一人じゃなかった」 だから、その日々を続けていたかった。 少なくとも、私は一人じゃなかった。 変わらない、変わることのない弟という絆を持つ存在が、いたから。 「………そう」 「だから」 そうだ。 分かった。 私の望んでいたこと。 「変わって、欲しくなかった。変わりたくなかった。変わりたいと思ってた。あんたから離れたいと思っていた。でも怖かった。だから」 そうだ。 だから私は千尋の手を取った。 「だから、あのままで、いたかった」 「知ってるよ」 千尋は疲れたように頷いた。 「でも、無理だよ」 千尋が私を抱きしめる。 変わらない、やわらかな抱擁。 「ごめんね真衣ちゃん、俺は無害な弟なんて、もうなれない。あんたの欲しい千尋はいない」 耳元で囁く、苦しげな小さな声。 私は、ただ泣くしかできない。 「そんな俺はいらない?でもね、俺はあんたを離さない。離せないよ」 ああ、疲れた。 苦しい。 何もかも、投げ出してしまいたい。 なんでこんなに苦しいのかな、千尋。 求めているものは似ている気がする。 それなのにどうしてこんなに、苦しいのかな。 苦しいね、千尋。 疲れたね。 |