私は促されるまま、その手を取ろうとする。 その手を取れば、全てがいい方に行くような気がしてくる。 明るい所に、この手が連れて行ってくれる気がする。 「行くな!駄目だ!」 けれど、狭い部屋の中、大きな声が響く。 驚いて、動きを止めてしまう。 根木の後ろにいる千尋が、こちらを強い目で見ていた。 噛みしめすぎたのか、唇に血が滲んでいる。 その視線が突き刺さるようで、全身が痛い。 「………千尋」 「行くな。許さない。そんなの許さない」 低い声で、弟は私を引き留めようとする。 どうしたらいいか分からず、私は目の前にいる根木を見上げた。 答えを求めるように。 根木はそんな私をじっと見返す。 そして、千尋にも視線をおくり、そっと目を伏せる。 ほんの少しの間止まって、ため息をついた。 目を開けて、苦く笑う。 「清水に任せるよ。俺は下で待ってる。行くなら15分待つから簡単に荷物も用意して。もっと時間必要なら言って。行かないなら、それでもいい」 けれど根木は、答えをくれなかった。 私の目を覗き込んで、頭を撫でる。 そして笑って、一音一音はっきりと、それを告げた。 「君が決めるんだ、清水真衣」 私はきっと、すがるような顔をしていただろう。 無理矢理にでも引っ張って行ってほしい、とそう願っていた。 それをきっと、根木は分かっていた。 だからこそ、私に背を向ける。 「邪魔するなよ、清水千尋。本当にチクるぞ。俺でも一応、やる時はやるのよ」 出ていく途中で、ただ立ち尽くしている千尋の肩をポンと叩いていく。 千尋は身じろぎ一つしないまま、根木を見ていた。 「じゃあ、待ってるよ」 最後に振り返って、根木はにっこりと笑う。 そして静かに部屋を出て、ドアを閉める。 部屋にはベッドに座り込んだままの私と、ドアを睨みつける千尋が残った。 しん、と急に沈黙に耳が痛くなる。 「………」 どうしたら、いいんだ。 根木は答えはくれない。 私がまた流されることを、許さない。 根木に流されることも、許さない。 根木に判断を委ねることを、許さない。 そうだ。 だったら、考えなきゃ。 ここにいたら私はまた、人に何もかもを任せて、流される。 「………千尋、私、とりあえず行く」 ここにいたら、何も考えられない。 ずるずると千尋に引きずられ、後悔しながら破滅を待つだけだ。 ベッドから降りようと、足を下ろす。 カーペットの毛の感触が裸足の足に優しい。 「…………」 「え?」 黙っていた千尋が、ドアを見たまま何かをつぶやく。 それは私の耳まで届かず、途中で消えてしまったようだ。 「………いで」 もう一度、さっきよりは少し大きく千尋の声が空気を震わせる。 私に向けられた、言葉なのだろうか。 「千尋?」 けれどやっぱり聞こえなくて、弟の名を呼び、問う。 千尋がゆっくりとこちらを振り返る。 そしてはっきりと、それを口にした。 「行かないで」 「ち、ひろ」 千尋が近づいてくる。 逃げようか、叫ぼうか、考える。 そのどちらも実行できないまま、千尋がベッドに座ったままの私の前に座り込む。 私の膝に手をおいて、私をまっすぐに見つめてくる。 その表情を見て、驚きで、息をのむ。 「………千尋」 「行かないで、行かないで!」 まるで途方にくれた子供のように、頼りない、今にも泣きそうな顔。 そんな表情の弟を、今まで、見たことあっただろうか。 考えても、思い出せない。 すがるように、私を見上げて、顔を歪める、完璧な弟。 「行かないで、俺をおいて行かないで!お願いだから、行かないで!」 「………あ」 「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、行かないで、お願い、傍にいて」 壊れたように、嫌だと繰り返す。 子供が駄々をこねるように。 ただただ、願うものをくれとそれだけを訴える。 「行かないで、俺をっ」 喉を震わせ、声がひっくり返る。 いつも落ち着いていた通りのいい声が、不快な高音を出す。 呼吸ができないように、顔を歪め、酸素を求めて喘ぐ。 しゃくりあげるように、胸を震わせる。 「俺を………捨て、ないで………っ」 耳障りな、かすれた声。 けれど、きっと、今までのどんな言葉よりも胸に届く。 もやもやとした感情が突き上げて、声が、出ない。 「………ち、ひろ」 弟が長い手を私の腰にまわし、お腹に顔を埋める。 跪いて、許しを請うように。 薄いシャツごしに、千尋の湿った温かい息を感じる。 「苦しいよ、真衣ちゃん。苦しい苦しい苦しい」 本当に、肉体的な苦痛を受けているように、その声は痛みに満ちている。 背に回された手が、熱い。 「苦しいよ、あんたがいないと、息も出来ない。俺を見捨てないで。俺から逃げないで」 「…………」 「なんで、あんたなんだろう。あんたなんていなければいいのに。あんたなんて、どうでもいいって、そう言えればいいのに」 なんて、答えたらいいのか、分からない。 本当に息ができなくなるはずがない。 本当に体が痛むわけじゃない。 けれど、今私も、痛みと息苦しさを感じている。 本当に呼吸が、止まってしまうんじゃないかと思うぐらい。 「あんたなんて、大嫌いだ」 千尋のかすれた声が、なおも響く。 苦しい。 痛い。 「大嫌いだ。いつでも好き勝手して、どんなに優しくしても縛り付けても、いなくなる。俺を振り回して、惹きつけて、それで簡単に捨てようとする。いつだって、俺を裏切る」 背中の食い込む指が、痛い。 お腹にかかる息が、熱い。 「消えてしまえばいいのに。あんたなんて、いなければよかったのに」 私も、あんたなんていなければいいと、思っていた。 消えてしまえばいいって、何度も思った。 「どうして、どうして俺を捨てるの。どうして傍にいてくれないの。どうして」 思わず、千尋の頭に手を置く。 少しでも、その痛みが和らげばいいと願いながら。 「……どう、して………」 指が触れた瞬間、しがみつく体が小さく震える。 何かから逃れるように、身を固くして、しばらく動きを止める。 それが痛々しくて、そっと柔らかく頼りない細い髪を梳く。 私のシャツが握りしめられて、背中が軽く引っ張られる。 「助けて真衣ちゃん。苦しいよ。助けて。もう嫌だ。嫌だよ。これ以上、苦しいのはいやだ」 うん、私も嫌だ。 これ以上、苦しいのは嫌だな。 楽に、なりたい。 どうしたら、私たちは楽に、なれるのかな。 「お願いだから、傍にいて。なんでもするから。あんたの望む弟でいてほしいなら、そうするから」 千尋が、顔を上げる。 苦しそうに眉をよせて、唇を震わせている。 泣いているかと思った。 でも、涙は、出ていなかった。 「だから、お願い、捨てないで」 息が、出来ない。 「………千尋」 千尋を抱きしめたい衝動に駆られる。 ずっと傍にいると、言いたくなる。 でも、それでは繰り返しだ。 頭を、冷やせ。 私は本当に、千尋を必要としている? 私は本当に、ずっと千尋と一緒にいる覚悟がある? 後悔しないで、いられる? 今は答えは、分からない。 目を伏せて、胸の中の鉛を吐き出すように、深呼吸する。 そして、千尋の目を、覗き込む。 「………ごめん」 「………っ」 「ごめん、ごめんね、千尋」 「い、やだ」 千尋の体が震えている。 顔が強張る。 「千尋」 「聞きたくない、嫌だ!」 目を逸らして、また私の膝の上に顔を伏せる。 胸が、痛い。 でも、ここで逃げたら、いけない。 「千尋、聞いて」 「嫌だ!」 「千尋、私は、逃げない」 「い、やだ………」 「でも、少しだけ、考えさせて。お願い」 「………」 「根木の言うとおり、私は自分で、考えなくちゃ」 そう、私は、自分で考えなきゃ、いけない。 千尋に流されてはいけない。 根木に流されてはいけない。 そうでないと、私はいつまでたっても、苦しいままだ。 「またここであんたに流されたら、私はまた、あんたを恨んでしまう」 「………それでも、いい。恨んでも憎んでも、いいから」 「そんなの、私が嫌だ」 千尋を、愛しいと思う。 傍にいてほしいと、思う。 だからこそ、恨み続けたくなんか、ない。 結果的に千尋を裏切ることになっても。 千尋から恨まれても。 憎まれても。 私はもう、憎みたくも、恨みたくもない。 これは私の我儘だろうか。 千尋の望むとおり、私を与えるのが、千尋のためだろうか。 でも、私は自分で選びたい。 「いっそ、もう、俺を消してよ」 「………千尋、必ず、答えを出したら、戻ってくるから」 「聞きたくない、そんな答え」 千尋はそれでも、耳を塞ぐ。 きっと、弟は何度も何度も考えてきたのだろう。 考えて考えて、それでも選んだのが、この道だったのだ。 「もう、考えなくてもいいよ。俺に流されてよ。どうして、今更」 「今まで考えてなかったツケが、来たんだね。ごめんね、あんたを振り回す」 「俺を振り回さないでよ。俺をもう、裏切らないでよ」 「ごめんね、ごめん。勝手な姉で、ごめんね」 身をかがめて、顔を伏せたままの千尋の耳元で謝る。 謝ってもきっと、どうにもならないけれど。 千尋が欲しいのは、謝罪なんかではないのだから。 「だからごめんね、少しだけ待って」 「…………」 でも謝ることしか、できない。 そっと千尋の体を、押しのける。 ベッドから、降りて、立つ。 千尋は途方にくれたような顔で、そのまま座り込んでいた。 「ごめん、ね」 もう一度だけ謝って、私は千尋に背を向ける。 千尋は、ベッドに向かったままこちらを見なかった。 「………ごめんね、千尋」 扉から出る前に、もう一度だけ、謝った。 きっと、聞こえなかっただろうけれど。 ごめんね、千尋。 知らなかったよ。 ごめんね。 ずっとずっと自分だけが、苦しいんだと思ってた。 ずっとずっと自分だけが、囚われていたのだと思っていた。 ごめんね千尋。 あんたもずっと、苦しかったのか。 ずっとずっと、もしかしたら私なんかよりずっと。 苦しんでいたのか。 |