始業ギリギリの時間に、登校することにした。 千尋は、先に学校へ行かせた。 小さい頃を除いて、今まで一緒に登校したことなんてない。。 だから、慣れてないし、この歳で弟と一緒なんて、恥ずかしい。 それに、あの完璧な弟と、外で一緒にはいたくない。 出来損ないな私は、千尋の隣に並ぶのは、好きじゃない。 千尋の束縛に、震えるほどの喜びを感じる。 あの優しい腕に柔らかに抱きしめられて、安心することができる。 息苦しいほどの執着が、心地いい。 2人きりだったら、いい。 薄暗い部屋の中で、2人で寄り添ってられるなら、いい。 弟以外、見ることがなければ、弟の声以外聞くことがなければ。 それでいい。 それなら、いい。 外は怖い。 家の扉を開けたそこにある、明るい場所に曝け出されるのは怖かった。 一歩出たその先にある陽射しに、目が眩む。 薄暗い部屋の、どこか現実感のない浮遊感が、消えう失せる。 自分の醜さと歪さが、浮き彫りにされるようだった。 私が頑なに拒絶したせいで千尋はとても不満気だった。 今まで私の言うことをなんでも聞いてくれた弟は、とても我がままになった。 穏やかで大人しく、すべてを受け止めてくれていた男は、子供のように駄々をこね、怒りと不満をあらわにする。 まるで見知らぬ男のように、激しい感情をぶつけてくる。 それでも早く学校になんて行きたくないという私に、しぶしぶ了承した。 サボリ気味だった、部活にも出ないといけないと言って。 最後にまだ痛みの残る私の右腕に握り締め、千尋はにっこりと綺麗に笑った。 『あの男には、近づかないでね』 私が近づくような人間は、数えるほどしかいない。 弟の指す男は、誰だかすぐに分かった。 眼鏡の奥の好奇心に満ちた目、朗らかな笑い声、力強いその腕。 目を伏せると、私はゆっくりと首を縦に振る。 近づかない。 近づけるはずがない。 じわじわとした嫌なものが胸を覆う。 それはきっと、どす黒くてどろどろとしている。 そもそも、あの男が近づかないだろう。 千尋は納得しないようだったけど、ため息を付くと額にキスを残して登校した。 長く降り続いた雨の後の、晴れ渡る空の下。 陽射しの下の弟の後姿は、綺麗で、なんにも汚いものなんて感じない。 誰からも信頼され、愛され、それを柔らかに受け止める、優等生そのもの。 薄暗いところにいる自分が、とても遠くに感じる。 まるで昨日までのことが嘘だったみたいに。 知らず、包帯が巻かれた右腕をなぞる。 鈍い痛みが、それが現実であることを私に教える。 夢ではないことに失望しているのだろうか。 それとも現実で安心しているのか。 千尋の束縛に、震えるほどの喜びを感じる。 あの優しい腕に柔らかに抱きしめられて、安心することができる。 息苦しいほどの執着が、心地いい。 千尋がいて、私はようやくここにいることができる。 千尋がいない世界なんて考えられない。 千尋が他の女を見るなんて、許せない。 千尋がいないと、息ができない。 千尋がいないと、私は1人きりだ。 それは想像するだけで、地面がなくなってそこから落ちていってしまいそうな、恐怖。 だから、今はとても満たされていて、幸せで、ずっと望んでいたことで。 その、はずだ。 予鈴のチャイムが鳴り終わるのと同時に、教室に滑り込んだ。 いまだぱらぱらと散っていた生徒達も、徐々に席に戻り始める。 しばらく休んでいたせいか、微妙な違和感を感じた。 知らない場所に来た時のような、居心地の悪さ、拒絶されているようなぴりぴりとした空気。 誰も私を見ない。 私も誰かを見ることはない。 それは、いつものことなのに。 爪が食い込むのを感じるほど手を握り締める。 痛みに少しだけ、心が落ちついた。 誰も見ないように、静かに隠れるように席に座った。 しばらくして、前の席の主が、身軽な動きで腰を下ろす。 私は持ってきていた本に、逃げるように目を落とした。 内容なんて、頭に入らない。 ただ、字面を追うだけだ。 見ないようにしていても、視界に入ってきてしまう、見慣れた背中。 顔が歪むのが分かる。 私に泣く資格はない。 泣いたりなんか、許されない。 感じる痛みすら、おこがましい。 この背中が好きだった。 この男の声が好きだった。 どこか突き放したような、でも優しい言葉が好きだった。 この男が、好きだった。 目の前の男は振り向かない。 振り向いたりしないだろう。 振り向いて欲しくない。 その言葉を、その手を、手放したのは私。 元に、戻っただけだ。 私には元々千尋しかいない。 千尋を手に入れることが出来たんだから、それ以外何もいらないのだ。 それなのに、この緑に囲まれた涼しい空間に、あの男がいない。 それが哀しい。 寂しい。 切ない。 笑わせて欲しい。 慰めて欲しい。 心を軽くして欲しい。 抱きしめて欲しい。 その好奇心に満ちた目で、私を見て欲しい。 あさましい私。 自分で捨て去ったくせに、またあの男を望むのだ。 千尋を手に入れたくせに。 千尋がいれば、何もいらないとそう思ったくせに。 千尋の腕を、選んだくせに。 千尋にもあの男にも、何かを望むことしかしない。 汚くて、醜くて、卑怯で、あさましい。 木陰を渡る風が、生い茂った木を揺らす。 汗ばむ陽気に、涼しい風が気持ちいい。 心は晴れない。 パンの味がしない。 早く、家に帰りたい。 千尋と2人きりになりたい。 閉ざされた空間で、あの腕に囚われて、溶けるような安心感を感じたい。 何も考えたくない。 痛みは、嫌い。 うつむいて、もう一口味気ないパンを齧った。 また、がさがさと音がして、木陰が揺れる。 風は吹いていない。 不審に思って、顔を上げた。 「まーた、1人でこんなところでメシ食ってる」 懐かしい、低くくて、明るい声。 そして、眼鏡の奥の一重の目が、楽しげに細められた。 |