「おはよー」
「おはよう」
「早いね」
「あんたは遅いね」

美穂さんは仕事だと言って、出かけてしまった。
それから二時間ほどして、十時頃になって根木が起きてきた。
長袖のTシャツとスウェットパンツを着たラフな姿の根木だ。
そういえば、この男の私服姿を見たのは、初めてかもしれない。
眼鏡も、ない。
なんだか知らない人のようで、じっと見てしまう。
それに気づいて、根木は首をかしげる。

「ん、どうしたの?」
「………なんか、知らない人みたい」
「ああ、眼鏡か。何、新たな魅力でドキドキしちゃう?」

いつものようににやりと笑う。
その笑い方は変わらないのに、眼鏡がないだけで別人のようだ。
根木の言うとおり、少しだけざわざわと、心臓が変な風に動く。
でも正直に言うのは癪だから、普段通りに茶化す。

「………パジャマで寝ぐせの男に?」
「しまった。でもほらちょっとだらしないところに母性本能がきゅん、みたいな」
「………可哀そうな子をどうにかしてあげなきゃって、母性本能は働くかも」
「それもまた愛さ!」

朝からテンションの高い男につい笑ってしまう。
この男といると、自然に笑ってしまう。
優しくて、温かい気持ちに、なれる。

「さて、メシ喰う前に洗濯機回しちゃうか」

それは根木の仕事らしい。
一つ伸びをすると、バスルームに向かう。
私は手持無沙汰で、なんとなくその後ろについていってしまう。
根木はバスルームの洗濯機置き場の横で洗濯物の仕分けを始める。
私はやっぱり何も出来ずにただそれを見ている。
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
うろうろとしていると、根木が小さく笑った。
そして楽しげな顔で、こちらを振り返る。

「清水、こういう時はね、何かすることあるって聞けばいいんだよ」
「あ」
「さ、どうぞ」
「あ、えっと、なんか、手伝えること、ある?」

教えられたとおりに繰り返すと、根木はにっこりと笑った。
どこか胡散臭い、けれど優しい笑顔。

「ここはないね。パンの場所分かるなら、トーストしておいて。後、牛乳出しておいて。すぐ行くから」
「わ、分かった」

私は頷くと、それを実行するためにリビングに戻る。
そうか、聞けばいいのか。
聞いていいのか。
することが出来て、なんだか嬉しい。

パンの場所はすぐに分かった。
食パンを一枚トースターに放り込む。
コーヒーメーカーにコーヒーが出来ているが、淹れた方がいいのだろうか。
いや、根木はコーヒーが嫌いだ。
玉子ぐらい、焼いておこうかな。
それくらいなら、出来る。
玉子は、大丈夫かな。

「ありがと」
「あ」

考えて冷蔵庫の前でウロウロしていると、根木がやってきてポンと私の頭を撫でる。
そう広くないキッチンの中、後ろから手を延ばして皿を取る。

「あ、あの、目玉焼きとか、食べる?それくらいなら、作れる」
「お、本当に?作って作って。清水の手料理食べたい!」
「うん」

根木は頭の上で嬉しそうに笑った。
私もその笑顔を見て、胸がじんわりと温かくなる。
根木が、喜んでくれるのは、嬉しい。

フライパンを借りて、なんとか目玉焼きを作る。
その間に根木は立ったままトマトを丸ごと齧りつき、トーストにバターを塗っていた。
行儀が悪い。
千尋とは、大違いだ。

目玉焼きは半熟を目指したのに、堅焼きになってしまった。
それでも根木は手料理だと喜んで食べてくれた。
次作ることがあったら、もうちょっとはうまく作りたい。
私はコーヒーをまた淹れて、向かい合って食事を取る。
さっきは美穂さん、今度は根木だ。

「俺、今日午後からバイトだから、午後は一人にするけどごめんね」
「バイト、してたんだ」
「してたのよ」

大きな口で、トーストがあっという間になくなっていく。
根木は本当に食べるのが早い。
眼鏡があるときは分からなかったが、奥二重なんだな。

「夜には帰る。母さんは今日は帰らないから、夕飯は大丈夫そうなら待ってて。お腹空いたら冷蔵庫のもの好きに使っていい」
「………分かった」
「そのほか家の中のもの、なんでも使っちゃって。鍵は置いていくね」
「うん」

と言われても出かける気にはなれない。
今日は一日、考えなくちゃいけないことを、考えよう。
いつまでもここで甘えている訳にはいかないのだから。
美穂さんや根木の好意に慣れてはいけない。
二人だって、自分達の生活が、あるのだから。

「そういえば、美穂さんは、なんの仕事してるの?」
「看護婦さん。今日はこのまま一日お仕事」
「根木は、なんのバイトしてるの?」
「知り合いの食べ物屋さんでウェイターさん」

根木と親しくなって、そろそろ二カ月だ。
毎日のように放課後一緒にいた。
色々なことを話した。
根木のことは詳しいつもりだった。
でもこんな基本的なことすら知らない。

「知らなかった」
「知ろうとしてなかったからね」

思わず漏らすと、根木はあっさりとそう返した。
その言葉に、一瞬胸がきゅっと絞られるような気がした。

「清水、基本的に受け身だよね」
「………うけみ?」
「与えられるものを受け取る、そこにある状況に順応する。自分から取りに行くこと、あまりしないね」

根木は牛乳を飲みほして、そのグラスをテーブルにトンと音を立てておく。
そして困ったように笑って、黙り込んだ私を見つめてくる。

「あまり人に関わろうとしないし、自分から他人のことを知ろうとも、考えない」
「………あ」
「責めてないよ。そういう風な環境だったんだからしょうがないと思う」
「………」
「そのままでもいいとは思う。そういう清水もかわいいし。ただ、自分でもそう思って、それをなんとかしたいと思うなら、考えた方がいいかもね」

相変わらず、どこか突き放すような、でも確実に私の芯をつく言葉。
そうだ、私は、すべてが受け身だ。
人に関わるのが怖くて、ただ時間が流れるのを待っていた。

やっぱり怖い。
人と関わるのは、怖い。
人を知るのは、怖い。
積極的に人を知ろうとして、また裏切られるのは、怖い。

それを根木は知っている。
知った上で、私が見ないようにしていることを、突き付けてくる。
目を逸らすことを、許してくれない。
守ってくれない。
答えはくれない。

「………根木は厳しい」
「なんかどうも、清水には説教臭くなっちゃうのよねえ。俺も人の性格に物申せるほど、偉くも人生経験豊富でもなんでもないんだけどね」
「でも、だから、根木と話していると、楽」

私の何もかもを許容するわけではない。
私のやらしいところも、汚い所も、弱いところも、知っている。
それを突き付ける。
それをいいとは言わない。
でも、一緒にいてくれる。
それを私に告げた上で、私の間違いに目を逸らさないまま、一緒にいてくれる。

「厳しいって、優しい、ね」
「え?」
「間違いを、指摘されるのって、嬉しい」

父も母も千尋も、私を怒ることはなかった。
間違いを正すことを、しようとしなかった。
父と母は私を見なかった。
千尋は、私の全てを許容しようとした。
私はその環境に、甘えていた。

「私もっと、色々分かろうとするね。もっと、自分で考える」

そう言うと、根木は片眉を器用に吊り上げて困ったように笑った。
小さくため息をつく。

「清水は変なところで素直だよね。あんまり俺の言うこと鵜呑みにしても駄目よ。俺の言うことこそ、間違いだらけかもしれないんだから」
「分かった、信用しない」
「いや、そこは信用するって言って!」

慌てた様子でつっこむ根木に笑ってしまう。
根木の言葉は一つ一つが、痛い。
ずっとずっと被ってきた殻を、はがされるような痛みを感じる。
けれど、その度に、目の前が明るくなっていく気がする。

そうだ、もっとよく考えなきゃ。
根木の言葉、千尋の言葉。
その意味を考えて。
その上で、自分の考えを、知りたい。

私は、何を知りたいのだろう。
私は、何を知らなきゃいけないのだろう。

受け身。
そう、私は今まで全てを受け取ってきた。
両親の無関心も。
人のいない環境も。
弟の過保護も。
ただぼんやりと受け取って、それを無駄に費やす。
何も変えようとしない。
変わらなきゃと思いつつ、ただ流されていた。
だから、千尋にも流された。
そして後で後悔する。

昔は改善しようとしていたのかもしれない。
でも、いつからか、諦めてしまった。
いつから諦めてしまったのだろう。

私はいつから、何もかもから、逃げていたのだろう。





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