「清水、起きて起きて」 「あ、れ」 明るい男の声が聞こえて、私は目を瞬かせる。 いつのまにか、部屋の中は薄暗い。 どこにいるのか、一瞬分からなくなる。 自分を見下ろす眼鏡の男が、好奇心に満ちた目で楽しそうに笑っている。 「風邪ひくよ」 「あ、ね、寝てた?」 「それを寝てないって言いきるのはさすがに図々しいよ」 根木がくすくすと笑う。 そこで、ようやくここが根木の家だと思いだす。 ソファに横になって、うたた寝してしまったのか。 窓を開けているとは言え、初夏の陽気はじっとりと蒸し暑い。 汗をだらだらとかいていて、Tシャツが張り付いている。 根木がクーラーをつけたのか、部屋が涼しくなりつつある。 「そんなに無防備な姿で寝ていると、手を出さないという誓いが破られそうなんですが」 「え」 「これくらいはいいよね」 ソファに寝転がったままの私の額に、根木がかがみこんで軽くキスを落とす。 その柔らかい感触に、心臓が引き攣れて、跳ね上がる。 驚いて言葉にならない私が戸惑っていると、根木が何事もなかったかのように体を起して話を続けた。 「ご飯食べた?」 「………たべて、ない」 「じゃあ、作るからちょっと待っててね」 ようやく体を起して、キッチンに向かう根木の姿をぼんやりと目で追う。 その手にはスーパーのものらしき袋がある。 そこからは人参なんかの食材がちらちらと姿を見せている。 「あ」 そうかもう夕飯の時間か。 そういえばお昼ご飯食べるのも忘れていた。 お腹、空いたかもしれない。 私は慌ててソファから降りる。 「あ、根木、なにか、手伝えること、ある?」 「あるよ。材料切るの手伝って」 「うん!」 覚えたての言葉を使って、私はキッチンに小走りに駆けよる。 何かを自分でやるというのは、楽しいことなのだと、知った。 根木は色々なことを、私に教えてくれる。 根木が玉子をかきまぜている間、私は不器用に材料を切る。 家では簡単な料理ぐらいはしないこともないけれど、いつもする訳じゃないからあまりうまくない。 ちらりと隣を見ると、大きな手は、材料を切るのもかき混ぜるのもとても慣れている。 千尋といい、根木といい、なんでこんなに料理がうまいんだろう。 「いいねえ。まるで新婚さんみたいだね」 「………ばーか」 「今度おそろいのエプロン買おうね!」 軽口を叩く根木に、笑いながら冷たく返す。 そんな間にも、心がふつふつと沸き立つ。 なんだかむずむずする。 自然と顔が緩む。 ああ、楽しいな。 料理って、楽しいものなんだ。 これまで、自分の空腹を満たすためだけの面倒な作業としか、思っていなかった。 「弟とはこんな風に一緒にご飯作ったりしたの?」 「一緒には、ほぼ、ないかな」 そうだ、私は自分のためにしか料理はしなかった。 千尋はいつも、私に料理を食べるかを聞いてくれた。 また、罪悪感に、肺が重くなっていく気がする。 それを吐き出すようにため息をつく。 「私、駄目だね。甘えすぎている。千尋に、甘えてばっかり」 根木が手を止めないまま、ちらりとこちらに視線を向ける。 フライパンでご飯を炒める、その姿は嫌になるほど手際がいい。 「まあ甘えているけど、まだ極端に走ってるよ」 「え?」 「清水千尋は、君に甘えてもらいたかったの。自分がなんでもやって、清水真衣が何にも出来なくなって、自分に頼るようにするのが目的だろ?自立したいと思うのはいいと思うけど、清水千尋に甘えてたことに罪悪感を覚える必要はない。それがあいつの望むことなんだから」 そう、なのだろうか。 千尋は、自分で望んでそうしていたのだろうか。 私が、甘えすぎている訳ではないだろうか。 私がこうだから、千尋がああなったのか。 それとも、私をこうしたのは、千尋なのか。 「千尋はなんで、そこまでして………」 「自分の生活なんて犠牲にしてもいいって思うぐらい、君が欲しかったから」 根木の言葉が、胸の柔らかいところに突き刺さる。 抜けないままの鋭い棘から、血が溢れだす。 「ただ、清水真衣を自分のものにしたかったから」 もう一度、念を押すように、繰り返される。 言葉は軽くて明るいのに、とても重くのしかかる。 「いやあ、怖いね。その粘着ストーカーぷりはホラーレベルだね」 「………私なんて、そんな価値、ないのに」 「その価値は清水千尋が決めるものだから」 でも、やっぱり千尋がそこまで私に執着する理由は、ない気がする。 根木がチキンライスを取りだし、今度は玉子をフライパンに流す。 私はサラダを作るために、レタスをむしる。 俯いた私に、根木がからかうように笑い交じりに問う。 「さて、それを怖いと思う?それとも、嬉しいと思う?」 「………」 「よーく考えよー。清水真衣はすぐに考えるのを投げ出すくせがあるから」 CMでよく聞く音色に乗せて、茶化すように眼鏡の男は言う。 目を瞑って、大きく深呼吸する。 そして、隣で私を見下ろしている男の目を見て、頷いた。 「分かった」 「ああ、また偉そうに言っちゃった。もしかして俺がよくふられるのって、説教臭いのが原因だったのかな」 「そんなによくふられたの?」 「あ、今は清水真衣一筋だからね!誤解しないでね!」 慌てて手を振ろうとして、根木はフライパンを落としそうになった。 私はそんな根木を見て、笑った。 二人でご飯を食べて、お風呂に入って、テレビを見ながらダラダラと話した。 明日、遊びに行く約束をして、布団に入る。 千尋以外の人と遊びに行くなんて、どれくらいぶりだろう。 千尋とも、一緒に歩くのが嫌でそんなに出かけなかった。 根木と出かけるのは、きっと楽しいだろう。 明日が、楽しみだ。 二人で食べたオムライスは、美味しかった。 根木はケチャップで絵を描いてくれた。 私のはお花柄だった。 似合わないものを描くと言って、と笑った。 清水の顔と言われて書かれたのは、抽象的すぎて人の顔にすら見えなかった。 根木はいじけて打ちひしがれていた。 それを見てまた、私は笑った。 楽しかった。 二人だけど、賑やかで明るい食事だった。 こんな楽しい食事、今まで家でとったことあっただろうか。 自分の家を思い返してみると、暗いイメージしかない。 いつでもどんよりと暗い冷たく重い空気。 ずっと父と母を求めて、寂しかった。 諦めてからは、優秀な弟に嫉妬して、そして縋りついている自分が嫌で、それを許す弟が嫌で、苛立っていた。 そして千尋を選んでからは、違和感と罪悪感で苦しかった。 家は、ずっと、息苦しい場所だった。 でも、あそこしか居場所がなかった。 私と一緒にいてくれるのは、千尋しかいなかった。 千尋。 千尋、あんたは、あの家が嫌ではなかったの? あんたを縛りつける私が、憎くはなかった? 明るい場所に行きたいとは思わなかったの? なぜ、そんなに暗い場所にとどまろうとするの? 『行かないで、俺をおいて行かないで!』 こびりついて離れない、千尋の悲痛な声。 最後に見た、頼りない背中が、消えない。 私がいれば、あんたは幸せになれるの? あんたは、私のせいで不幸になっているように見える。 いっそ、私が消えれば、あんたは楽になれるんじゃないだろうか。 私のせいで、間違ったんじゃないだろうか。 あんたは、私と違って、何もかもを持っているのに。 どうして、不幸になろうとするの。 私と一緒にいても、幸せになんて、なれないだろう。 私は、明るいところに行きたいよ。 私は、あんたをもう恨みたくない。 憎みたくない。 優しい関係で、いたい。 痛いのも、苦しいのも嫌だ。 考え続けても、答えが見つからない。 正しい道は、どれ。 私はどんな答えを見つければいいの。 何を考えれば、いいの。 目を瞑って、思考を闇に閉ざす。 考えるのに、疲れる。 でもここで考えるのを放棄したら、いつもと一緒なのだ。 ここにはずっといられない。 私がどうするか、どうしたいか、考えなければ。 千尋はいつから、私を求めていたのだろう。 ずっと私が一方的に、縋っていたのだと、思っていた。 小さいころから私は友達を作るのが苦手だから、千尋とよく遊んでいたっけ。 小学校の頃は、友達がいた。 あの頃は、友達を作ることが、出来たのだ。 千尋も外に友達が出来たし、私も作らなきゃと思った。 あの頃は、普通の姉弟のようだった気がする。 言い争いだってした。 取っ組み合いの喧嘩だってした。 私が千尋に縋るようになったのは、父と母のあの発言を聞いてからだ。 絶対だと思っていた存在に、いらないものと言われた。 全てが、壊れていくような気がした。 今思い返しても、叫びだしたくなる。 壊れた世界の中、そこにあったのは、千尋だけだった。 ただ一つ、確かなものが千尋だけだった。 だから私は、千尋を縛るようになった。 なんでも言うことを聞く弟に、我儘を言って言うことを聞かせて安心していた。 試すことで、私を嫌いじゃないと思って、自分の心を守っていた。 彼女を作る千尋を縛って、傍にいさせた。 置いていかれるのが嫌で、縛り付けた。 一人じゃないと、何度も確かめた。 そして千尋を振り回した。 だったら、やっぱり私が千尋をあんな風にしてしまったのだろうか。 私が、全ての責任なのだろうか。 『真衣ちゃん』 ふと、幼い頃の千尋の声が脳裏に浮かぶ。 あれはいつだったっけ。 ああ、そうだ。 まだ、父と母が私を愛していると信じていた頃だ。 まだ、家が絶対の温かい場所だと、思えていた頃。 父と母は、あの頃もやっぱり忙しかった。 家に不在なことも、今ほどではなかったが多かった。 私たちは母が置いていった料理を二人で食べ、二人で遊んで寝ていた。 まだ、千尋が私よりもずっと小さい存在だった。 あの日、千尋は熱を出した。 私もまだ小さくて、どうしたらいいか分からなかった。 お母さんに電話しても、通じなかった。 お父さんに電話しても、通じなかった。 私は泣きながら、赤い顔で苦しそうに息をする千尋の傍にいることしかできなかった。 冷凍庫からアイスノンを取りだしてタオルでくるんで頭を冷やす。 寒がる千尋に、自分の分の毛布をかける。 自分が熱を出した時を思い出して、喉が渇くからと何度もコップ水を汲みにいった。 薬がどこにあるか分からなかった。 汗を拭いて服を取りかえるなんて考えつかなかった。 もっと温かい服がどこにあるかなんて知らなかった。 ただ泣いて、千尋の傍にいた。 千尋が死んじゃうんじゃないかと思った。 怖かった。 お父さんとお母さんに何度電話しても二人はでない。 世界中に二人きりになった気がした。 ただ、つないだ熱い小さな手が、全てだった。 『………まいちゃん』 『大丈夫、千尋、大丈夫だからね』 『うん、まいちゃん、ここに、いてね。いっしょに、いてね』 幼い、熱に浮かされたたどたどしい声が言葉を紡ぐ。 私は何度も頷いて、その小さな手を握っていた。 夜中にようやく母に連絡がついた時、安心でわんわん泣いたのを覚えている。 『まいちゃん、いっしょにいてね』 『いるよ。ここにいるよ。私はここにいるよ。私は千尋の、お姉ちゃんなんだから』 幼い声が、今の千尋の姿と重なる。 胸が苦しくて、息が出来なくなる。 なんだろう、なんでこんな胸が痛いんだろう。 ねえ、千尋。 どうしてこんなに苦しいの。 どうしてこんなに悲しいの。 嗚咽が漏れる。 私は枕に顔を押し付けて、声を殺して涙を流し続けた。 |