「ひどい顔だなあ」 リビングに行くと、すでに着替えて眼鏡をしている根木がいた。 私の顔を見て、面白そうに眉を吊り上げる。 「………」 「洗っておいで。朝メシ作るから」 黙って頷いて、バスルームへ向かう。 美穂さんがいなくてよかった。 こんな顔、見られたくない。 根木にだって見られたくないけど、もう今更だ。 鏡の中の女の顔は、瞼が腫れてクマがひどくてゾンビみたいだった。 ただでさえ地味な、印象の薄い顔。 なんの取り柄もない、可愛げの一つも見当たらない。 ため息をひとつついて、顔を洗う。 冷たい水が、気分を引き締めてくれる気がした。 瞼に水で何度も浸したら、少しだけ腫れが引いた気がした。 ダイニングに戻ると、根木がトーストとソーセージと野菜を一枚の皿に綺麗に盛り付けて、まるでお店のモーニングのような朝食を作っていた。 シリアルやパン一つで済ますことが多い家に比べて、テーブルの上が豪華に映える。 鼻歌交じりに今は桃を剥いている。 その手つきすら、見とれてしまうほどに器用だ。 「今日は、早いね」 「母さんが帰ってくるからメシ作っておかないとね」 美穂さんは、今日夜勤明けで戻ってくる。 彼女のために、朝食を作って洗濯を済ましておくらしい。 なんの気負いもなく、えばるでもなく、自然に根木はそれをこなす。 「………あんたって、どうしてそんな風に人を気遣えるの?」 リビングの入り口に突っ立って、ぼんやりとそれを見つめる。 私とはまるで違う、人間。 明るくて、朗らかで、優しくて、眩しい。 根木は桃の種に齧りつきながら面白そうにこちらを見る。 千尋は到底しないような、行儀の悪い仕草。 それでも根木がやると、それが魅力的に映るから不思議だ。 「気遣ってる?」 「すごい、自然に、気遣えるよね。うらやましい」 「まあ、母さんに対しては家族の義務つーか、女手一つで育ててもらってるし、少しは負担楽にしたいよね。ロクなことできないけどね」 「………どうして、あんたって、そんなに人に優しくできるのかな」 種を口から取り出してゴミ箱に乱暴に放る。 そして、私に座りなよ、とダイニングテーブルを指す。 私は促されるままに、テーブルにつき根木と向かい合わせになる。 「優しいって思ってくれてる?」 「うん」 この男は優しい。 どこまでも、優しい。 私はただ今、それに甘えている。 「嬉しいな。でも、自分ではあんまり優しいとは思ってないからなあ。人に関わるのは趣味。前にも言ったように興味本位、好奇心。正直、タチ悪いとは思うけど」 「………あんたは優しいよ。私はすごく、あんたといると、楽」 私のためにはカフェオレを。 自分の分は牛乳を。 綺麗に並べて、根木も椅子につくと困ったように笑った。 「人に優しくするのって、楽しいよ。自分がいい人になった気がする。特に清水みたいに素直だと、自分がとても偉い人になった気分だね。人に怒ったり憎んだりするのって、難しい。俺はそこまで人に」 「人に?」 そこで一旦切ると、根木は考えるように天井を仰いだ。 そして小さくため息をつく。 次に続く言葉を待つが、根木はいつもの胡散臭い笑いを浮かべると、指を一本立てる。 「ま、とにかく俺は自己満足のために動いてます。そういうことだから、清水は俺の言うことあんまり信用しちゃだめだよ」 「………それでも私は、あんたといると楽しい。とても、心が、軽くなる」 根木がどこか痛むように眉をひそめて、それでも笑う。 そんな顔を見たことがなくて、何か悪いことを言ったのかと思った。 けれど、次の瞬間には向かい側から伸びてきた大きな手が、私の手を取る。 そして眼鏡の奥の好奇心に満ちた目が、私を見つめる。 「ありがとう。俺たち相思相愛だね!」 「ばーか」 「俺も清水といると、とても楽しいよ。ずっと一緒にいれたら嬉しいと思う。まあ、ずっと一緒、なんて保証はできないけど」 相変わらずどこか突き放したような現実的な、けれど優しい言葉。 耳に心地よい、温かい言葉。 「でも、清水と一緒にいれたら、楽しいだろうな。清水が、好きだよ」 お昼前に美穂さんがふらふらになって帰ってきて、入れ違いで私たちは二人で出掛けた。 特に何をする訳でもなく、隣の隣の大きな駅まで出て、一緒にカフェでお昼を食べて、街をぶらぶらとした。 根木が私の服を見立ててくれて、ワンピースを買った。 服にほとんど興味がない私だから、かわいい服を選んでくれるのは助かった。 買って上げると言われたが、それは断った。 お金は、ないわけじゃない。 代わりに根木は私が負担に思わない程度の値段の、かわいいネックレスを買ってくれた。 好きな子を着飾りたいのは男の見栄だと言って。 くすぐったくて、嬉しかった。 自然に気遣いが出来る、この男といると、とても楽しい。 出かけるのは嫌いだったが、とても楽しかった。 ずっと笑っていた気がした。 暗くなる前に、美穂さんのためにケーキを買って家に帰った。 ケーキは私が買った。 食費は受け取ってくれなかったから、全然足りないけれど、せめてものお礼だ。 マンションにはすでに明りがついていた。 リビングからはテレビの音がする。 「おかえり」 「ただいま、もう起きてたんだ」 「もう6時じゃない。起きるわよ。おかえり、真衣ちゃん」 「た、ただいま?」 私を指定してもう一度言われ、思わず驚いて飛び上がってしまう。 ただいまが、疑問形になってしまった。 美穂さんはそんな私を見てにっこりと笑った。 それを見て、安心すると同時に嬉しくなった。 それでいいのよ、って言われてる気がした。 美穂さんが伸びをして、椅子から立ち上がる。 「さ、ご飯の準備しちゃうか」 「俺、風呂洗ってくる」 「ついでに洗濯もの畳んでおいて」 「はーい」 そして根木はバスルームに、美穂さんはキッチンに向かう。 私はきょろきょろと二人の背中を見て、どちらについていけばいいのか考える。 少しだけ迷って、キッチンに駆け寄った。 「あ、あの、何か、お手伝い、すること、ありますか?」 「あら、ありがと。じゃあ、材料切るの手伝って」 「あ、これ、おみやげ。ケーキです。えっと、嫌いじゃなければ」 「わあ、嬉しい!ありがとう!大好きよ。ああ、太っちゃうわ。でも後で食べましょ」 ケーキの箱を渡すと、美穂さんは大げさに声をあげて喜んでくれた。 ちょっと冷たく見える印象が、すっと崩れて親しみを感じる。 嬉しくて頬が緩んで、胸が温かくなる。 エプロンをつけて、渡された野菜と包丁で不器用に材料を切っていく。 隣で手際よく材料を鍋に放り込む美穂さんは、ふふっと小さく笑う。 「なんかいいわねえ。娘欲しかったわ。こんな風に一緒に料理って楽しいわ」 「わ、私も、お母さんと一緒に料理って、楽しいです」 「ああ、かわいいわ。宏隆、あんたもこれくらいの可愛げ見せてみなさい!」 いつの間にか洗濯ものを抱えてリビングに戻ってきていた根木に、美穂さんの声が飛ぶ。 すると根木は洗濯ものを畳みながら、こちらを見ずに返してきた。 「お母さんと一緒に料理するのって楽しい!お母さん大好き!」 「やめて、気持ち悪いわ」 「ひどい!」 そのやりとりを見て、私は笑ってしまう。 温かい、楽しい、嬉しい。 いいな。 こういうの、いいな、と思う。 料理が出来て、三人で食事のセッティングをしていると玄関が開く音がした。 誰なのかと驚いていると、リビングに背が高くてやっぱり切れ長の目の茶髪で頭がツンツンした人がやってきた。 「ただいまー」 そしてテーブルの上を見て、朗らかに笑って両手を上げる。 一見、どこか怖そうな人なのに、そうするととても優しく見える。 「やったー、夕メシ間に合った」 「あんたの分ないわよ」 「嘘!作って、お母様!」 その言い方はとても根木に似ている。 この人が、根木のお兄さんだろうか。 じっと見ていると、お兄さんもこちらに視線を向けて目を大きく開いて瞬きする。 不思議そうに小首を傾げる。 「あれ、母さん、いつ娘作ったの?」 「一昨日」 「わあ、かわいい。俺、妹欲しかったんだよね。名前は?」 「本人に聞きなさい」 美穂さんが冷たく返すと、お兄さんは私の前までやってきて私の手をとる。 大きな、堅くて荒れた手。 びっくりしてされるがままになってしまう。 「そうだね。はじめまして妹よ。お名前なあに?」 「あ、あ、えっと、し、清水、真衣と言います」 「かわいいね、真衣ちゃん。よろしく。道隆お兄ちゃんって呼んでいいよ」 どう返したものか分からなくて、ただぶんぶんと振られる手をそのままにする。 すると、根木が道隆さんを後ろから蹴って、いつになく低く平坦な声を出す。 「俺のかわいい同級生に手を出さないでね、馬鹿兄貴」 「俺ですら家に連れ込むなんて真似してないのに、何してんだよ、このクソガキ」 「そんなんじゃねえよ。清水にも失礼」 「あ、ごめんね真衣ちゃん」 「は、はい」 どこか殺伐としたやりとりに、やっぱり反応することが出来ない。 こんな根木、始めて見た。 やっぱり、兄弟と私とでは見せる顔が違うんだ、なんて当たり前のことを今納得した。 「とりあえず手洗ってきなさい」 「はーい」 美穂さんに言われて、ようやく私の手を離した道隆さんはバスルームに向かう。 驚いてばっかりだった私は、ようやくそこで安堵のため息をつく。 「ごめんなさいね、真衣ちゃん。あれの言うことは聞かないでいいわよ」 「え、えっと」 「本当に俺に輪をかけて馬鹿だから、まともに相手にすると疲れるよ」 「あ、えっと」 美穂さんと根木に畳みかけるように言われて、なんと応えたものか困る。 馴れ馴れしくてびっくりしたけれど、嫌な気分はしなかった。 やっぱりその人好きする雰囲気は、美穂さんとも根木とも、似ていると思った。 「なーに、陰口叩いてるんだ」 そこにしかめ面した道隆さんが戻ってくる。 いつもなら近寄ろうとも思わない怖い外見の人だが、根木の兄弟だと思うと親しみすら感じるから、不思議だ。 美穂さんが結局四人目の食事を用意して、四人がけのテーブルが全て埋まる。 不思議なメンバーだが、流れる空気は温かい。 「そういや聞いてよ、ひどいんだよバイト先の店長がさあ」 「兄貴が悪いよ」 「そうね、道隆が悪いわ」 「俺、まだ何も言ってないよ!?」 息の合った会話に、ついくすくすと笑ってしまう。 すると、道隆さんがこちらに視線を向ける。 私は慌てて顔を取りつくろう。 けれど道隆さんは気にした様子なく、泣きそうな顔で訴えてくる。 「ひどいよねえ、真衣ちゃん。俺家庭内いじめにあってるんだ。もう相談所にかけこもうかな」 「あ、えっと、あの」 「真衣ちゃんが慰めてくれたら、きっと立ち直れる」 そして、向かいに座る私の手を取ろうと手を延ばしてくる。 その手を、隣の根木がばしりと叩いた。 美穂さんも道隆さんの頭を拳で殴る。 「兄貴、殴るよ」 「道隆、明日からメシ抜くよ」 「だから酷い!」 私はそんな三人を見て、ただ笑った。 なんて、楽しいんだろう。 ああ、きっと、こんな光景が、私はずっと欲しかったんだ。 お風呂に入って、根木の部屋で二人で話す。 Tシャツでいったら、ノーブラはNG!と言ってカーディガンを着せられた。 そういうところが鈍感だよね、と言われた。 よく分からないけど、そうなのか。 私の胸なんか見て、興奮するものなのだろうか。 「楽しい、お兄さんだね」 「………うーん」 「根木に、似てる」 「いや、本当にやめて」 本当に嫌そうに根木が顔を顰める。 心底嫌そうなそんな顔は、見たことがなかった。 だから楽しくて笑ってしまう。 道隆さんは食事中ずっとふざけて話していた。 あの人の前だと、根木が真面目に見えるから不思議だ。 二人はたまに本当に険悪に見えるぐらい罵り合って、でもじゃれ合っていた。 けれどどこか自然な距離感があって、すごい仲がいいという訳でもない。 食事が終わったら会話もほとんどなく、お互い好きにしていた。 「こういうのが、普通の、兄弟、なのかな」 「どうだろう、あんまりよその兄弟とか分からないからなあ。まあ、平均範囲内かもね」 「そっか。いいね、こういうの。楽しい」 「そう?ならよかった」 根木がベッドの上であぐらをかいて笑う。 多分、なんでもないことなんだろう。 明るい食卓も、笑い声が溢れる会話も。 根木にはお父さんがいない。 それは、きっと悲しいこと。 私はそれに比べたら恵まれているのかもしれない。 比べるのは失礼だとも思うけれど。 父も母もいるし、家庭は裕福だ。 でも、根木がうらやましいと思う。 これは贅沢なことなのだろうか。 私は、求めすぎているのだろうか。 でも、美穂さんも、お兄さんもうらやましい。 こんな温かい食事をずっと取りたい。 根木といれば、こんな温かさがずっと手に入るのだろうか。 そう考えて、ふとそれに思い至った。 それは当然なことなのに、今まで考えもしなかった。 最初に考えるべきことだったのに。 体温が、急激に冷える。 「………ねえ、もし」 「ん?」 「もし、私が、千尋を選んだら、私はあんたを、失うんだよね」 一度は、覚悟したことだ。 一度千尋の手を取った私は、根木を失うことを受け入れた。 それなのに今、また図々しく根木の温かさを享受している。 この温かさをずっともらえるものだと、いつのまにか思っていた。 そんな訳、ないのに。 根木を見上げる。 根木は、じっと私を見下ろしていた。 いつになく真面目な顔で、静かに私を見ていた。 そして、目を伏せて大きく頷く。 「もちろん」 「………」 ずきん、と胸が一際ひどく痛む。 根木が目を開けて、にっこりと笑う。 それはいつもの好奇心に満ちた朗らかなものだったけれど。 「俺だって彼女じゃない女の子にこんなに親身になったりは出来ないよ。ましてや自分をふった女となんて、気まずくて仲良くしたくないしね。顔も見たくなくなるかもしれない。今優しくしてるのだって下心ですし」 「そう、だよね………」 「うん、俺は下心ありありの嫌な男だからね。清水が俺をふったら、俺は清水を切り捨てる」 分かっていたことだ。 一度は覚悟したことだ。 当然だ。 両方手に入れるなんて、できるはずがない。 何を馬鹿なことを聞いているんだ。 分かっていたのに、胸が痛い。 寒い。 怖い。 この温かさを失うのが、怖い。 この男を、失いたくない。 一度失って、また手に入れて、そしてより怖くなってしまった。 手放したく、ない。 「現状況では俺と清水千尋、二択だね。どちらかを選べばどちらかを失う」 「…………」 「どちらも選ばずに一人でいるって選択肢もあるよ。その場合、清水弟と俺がどういう行動に出るかはまだ分からないけど」 根木の顔を見ていられなくて、顔を伏せる。 このままではみっともなく泣いてしまいそうで、目をぎゅっと瞑る。 いつもだったらここで優しく甘やかす根木は、けれど先を続けた。 今度は、甘やかしてくれない。 「だから、よく考えてね。両方取るなんてことは、出来ないよ」 「………分かった」 そう、私は何を選択しても、必ず何かを失うのだ。 大切な温かいものを、絶対に一つは失うのだ。 そんな当たり前のことを、今ようやく理解した。 覚悟しなければ、いけない。 |