カチャリと軽い音を立てて、プラスチックの玄関のドアが開く音がした。
一瞬、家の中が静まり返る。
その後、すぐに慌てたような乱暴な足音が響く。

「ま、いちゃん………」
「おかえり、千尋」

千尋が髪をぼさぼさにして、リビングの入り口でこちらを見ている。
いつも完璧な弟の、取り乱した姿。
胸にじくりと、鋭い痛みが走る。
それには気づかないふりをして、私は千尋に向き合う。

「ご飯、作ったよ」
「………なんで」
「ご飯、あんたに作ってあげたのって、もしかして初めてかな」

前にも作ってあげたことはあっただろうか。
幼いころは、あったかもしれない。
でももう、思い出せないほど昔だ。

「何、してるんだよ」
「ご飯作ってる」

作ったのは、ミルクリゾット。
根木に習ってきた。
簡単で、優しい料理だ。
今日はまた学校をさぼってしまったから、丁寧に作ることが出来た。
明日はちゃんと、学校へ行かなければ。

「そんなことは聞いてない!」

千尋が、拳を握りしめてドアのすぐ隣の壁を叩く。
大きな音と、激しい感情に、身が竦む。
震えそうになる体を押さえて、私はキッチンから出て千尋に少しだけ近づく。

「帰ったら、電気をつけて、あんたにおかえりって言ってあげたかった。それでご飯を作ってあげたいって思った」

そう告げると、千尋は怪訝そうに眉を顰めた。
私が何を言っているのかと、探るようにねめつける。
そっとリビングに目を向けると、枯れた花が目に入った。
いつもは千尋が片付けて、快適な空間に保っていてくれた。

「私、あんたに、何もしてあげてなかったね、今まで」
「………」
「あんたは、私に、色々なものをくれていたのに」

千尋は私に、沢山の物をくれた。
整った家、食事、そして千尋の時間。
千尋の思惑がどこにあったのだとしても、それは確かだ。

千尋が嫌いだ。
両親に愛される千尋が、妬ましい。
私をこんな何もできない人間にしてしまった千尋が、憎い。

けれど、優しい弟が好きだ。
ただ一人、私に優しくしてくれる弟が、好きだ。
私をそこまで求めてくれた弟が、可愛い。

それも、確かなこと。
だから、私は。

床に視線を移すと、母と千尋が好きな深いブルーのラグが目に入る。
今更、逃げるな。
顔を上げろ。

千尋は黙って私を見ていた。
距離は、遠くはない。
私を見据える目の動きも、瞬きが多くなった睫の長さも、全て分かる。
けれど、手を延ばしても届かない距離。

「私は家族として、姉として、千尋に色々してあげたいと、思った」

千尋の顔色が変わる。
血の気の引いた顔は、白を通り越して青い。

「………それって」
「ねえ、千尋、このまま行っても、私たちは何にもなれない。なんも救いがない。誰からも認められない」

二人で手をつないで歩いても、周りはただ冷たく暗い。
誰からも理解されず、誰からも祝福されない。
私だけではない。
光に満ちたところにいる弟すら、暗い所に縛り付けられる。

「そ、れが、答え?」
「………」

千尋の唇が震える。
声も、震えている。
青かった顔に、朱がさす。

「あんたはなんでも持っている。頭もいいし、顔もいいし、運動神経もいいし。このまま行けばいい大学入って、いいところに就職して、綺麗な人と結婚して、誰もが納得する未来が待っている」

そして、周りもそれを望んでいる。
父も母も、千尋に期待している。
私が手に入れられないものを、千尋は持っている。

「それなのに、どうしてこんなことで自分の未来を捨てるの?」
「こんな、こと?そんな軽々しく言うな!」
「こんな、ことだよ。下らない。私のせいで人生お先真っ暗なんて、笑えない」

こんなつまらないもののせいで、すべてが台無しだ。
私が欲しいというただそれだけで、そのほかのもの全部が無になる。

「俺にとっては、その誰もが納得する未来っていうほうが、よほど下らない」

顔を歪めて吐き捨てるように言う千尋に、少しだけ苛立つ。
人の望むものを、簡単に下らないと言い放つ弟。

「千尋は、傲慢。あんたの持っているものを、どれほど私が欲しいか知っているくせに」
「俺は、一番欲しいものが手に入るなら、こんなものいらない!」

それが傲慢なのだ。
持っているからこそ、捨てられる。
満たされているから、いらないと言える。
最初から持っていないなら、選ぶことすらできないのに。

いつもとは逆だ。
感情的な弟と、冷静な姉。
千尋が感情を高ぶらせれば高ぶらせるほど、私の心は凪いでいく。
少し離れて見ると、弟は酷く幼く感じる
常に大人びた弟が、小さな少年のように見える。

「なんでそんなことあんたが決めるんだよ!何度、俺が考えたと思ってるんだよ!俺が、どれだけ、考えてきたと思ってるんだよ!分かんないだろ!俺が、どんだけ………っ」

駄々っ子のように、拳を握りしめて叫ぶ。
胸が、チリチリと、弱い炎で炙られるように熱く、痛い。

確かに、千尋は私の何倍も、考えてきたのだろう。
いつから私を欲しがっていたのかは知らない。
その間にも私は千尋に甘え、千尋を振り回してきた。
そして、この子はずっと苦しんできた。

「私が縛ってきて、私が気付かない間、あんたはずっと苦しんできたんだね。辛かったんだね。ごめんね、何も気づかなくて」
「な、に、謝ってるんだよ」

千尋が私を睨みつける。
ああ、苦しい。
酸素が足りない。
言葉が、出てこない。
唾を飲み込んで、渇いた喉を少しだけ湿らせる。

「………千尋、よく考えて。私と一緒にいることは、私のためにも、あんたのためにならない」

千尋が顔をくしゃりと歪める。
それはあの日、千尋を置いてこの家を出た時はじめて見た、弱々しい少年の顔。
今にも泣きそうな、怯えた顔。

「俺のためにならないなんて、誰が決めたんだよ!違う、分かってる、そんなことは分かってるんだよ!それでも、俺は!」

そこまで叫んで、顔を覆う。
肩が震えている。
なんて、痛々しい。

「私、ずっと根木といた。根木の家は温かかった。根木のくれるものは温かいものばかりだった。私は根木が好きだと思った」
「………っ、だ、まれ!」
「あんたがくれるものは優しいけれど、苦しい」

私に目隠しして、自分の腕の中に囚えようとする。
息もできないほどに、拘束する。
私は何も考えなくて済んで、ただ全てを周りのせいにできる。
千尋の腕の中で、ただまどろんでいられる。
それはひどく優しく、楽で、そして暗くて苦しい。

「私は根木の明るさと温かさが欲しいと思った」
「…………」

千尋と一緒にいた時。
部屋の中なら、家の中なら私は安心出来た。
けれど一歩外に出て、陽の光を浴びてしまえばそれはすべて不安に変わる。
明るい所に引きずりだされると、私の心のよりどころにしているものがひどく脆く歪つなものだと思い知らされる。
常に隣にある、違和感と罪悪感。
家の中でしか、千尋の隣でしか、安らげない。
そして、それはきっと千尋も一緒。

「もし、私があんたと一緒にいることを選んだとする。そうして、あんたは安心することができる?」
「…………」
「あんたはきっと、ずっと疑い続ける。私を信用できない。そして苦しむ。ずっと苦しみに続ける」

いつ私が心変わりするか、いついなくなるか、いつ誰かに奪われるか。
千尋はずっと疑い続けるだろう。
そこに心の安寧はない。

「そして私もきっとずっと、違和感と罪悪感を抱える。時にはあんたを責める。あんたを恨む。憎む。そんな関係を、あんたは望んでいるの?」

ずっと、傷つけ合う。
疑い合う。
憎み合う。
痛みを抱え続ける。

千尋は膝の力が抜けたように、顔を覆ったままその場に跪く。
泣いているのかと思った。
けれど、聞こえてきた声は震えていなくて、しっかりとしていた。

「………でも、考えられない。あんたがいない世界なんて、いらないんだ」
「思い込みじゃない?」
「それだったら、とっくに他の女に靡いている。あんたみたいなどうしようもない女なんて、諦められるなら諦めたい。どんな女と付き合っても、どんな女を抱いていても、考えるのはあんたのことだけだ」

背筋に寒気に似たものが走り、全身が粟立つ。
苦しくて、酸素を求めて、大きく呼吸をする。
喉と、唇が震える。

「あんたの言うことなんて、分かってるよ。何度も考えたよ。何度も何度も考えて、それでも諦められないと、思い知らされる。逃げられない。どこまでいっても追いかけてくる」

表情が見たいと思った。
今、千尋はどんな顔をしているのだろう。

「あんたの言うとおり、あんたといれば俺はずっと苦しいだろう。猜疑心と嫉妬でいっぱいになって、あんたを憎むだろう。あんたなんて、信じられる訳がない。俺はずっと安心できない」

どうしてそんな思いつめるの。
どうしてそんなに苦しむの。
そんなもの捨ててしまえば、ずっと楽になれるのに。

「でも、駄目なんだ。あんたがいない方が苦しい。あんたが他の男のものになるなんて、考えられない。あんたが傍にいないと、息ができない」

なんでも出来て、誰からも好かれる太陽のような弟。
それなのに、今こんなにも幼く、弱い。
ずっとこんなものを抱えてきたのだろうか。

「苦しい、考えたく、ない。考え、られない。」

あんたはなんでも持っているのに。
なんだって、出来るのに。

「………真衣ちゃん」

消え入りそうな声は、小さく震えていた。

「寂しい………」

なんて、弱々しい。
なんて、痛々しい。
なんて、脆い。

可哀そうな子。
可哀そうな、千尋。





BACK   TOP   NEXT