どこまでも愚かな千尋を前に、私は深くため息をつく。 それに反応してうずくまった体がびくりと小さく震える。 「千尋は」 「………」 「千尋は、私といても何にもならない。むしろ、不幸になるだけだと分かっていても」 千尋がゆっくりと顔をあげる。 泣いてはいなかった。 けれど赤く潤んで、揺れていた。 二歩程前に踏み出して、千尋を見下ろす。 後少しで、手を延ばせば届く距離。 「それでも、私といたいの?」 千尋が私を見上げる。 何かを言おうとして、唇が震えて、声が意味を成さずに消えていく。 なんて、頼りなくて、情けない姿。 普段の千尋からは想像もつかない、みっともない姿。 それでも、一度唾を飲み込んで、たどたどしく言葉を紡ぐ。 「いたい、とか、いたくない、とかじゃない。あんた以外、考えられない。それ以外の選択肢が、ないんだ」 本当に、なんて。 なんて、この子は幼いんだ。 冷静で頼りがいのある大人びた弟は、その仮面の下に、こんなにも脆い素顔を隠していた。 「あんたは、本当に馬鹿だね」 その言葉に、傷ついたように、痛みを感じたように顔を顰める。 私はそっと、もう一度ため息をつく。 「自分で、視野を狭くしている。他にも道なんて沢山あるのに」 「ない。そんなの知りたくも、ない」 私も、全身に痛みを感じて、眉間に皺が寄る。 ただ、弱々しい弟を見下ろす。 「………本当に、馬鹿」 「なら、逆に考えてみれば?」 「え?」 道隆さんはソファに沈み込んだまま、こちらを見ずに言った。 私は意味が分からず問い返す。 「自分の得になるものじゃなく、自分を活かせるものを選ぶ」 「自分を、活かせる?」 「そう」 やっぱり、意味が分からなくて首を傾げる。 それを横目でちらりと見て、道隆さんはグラスを持った手の指をピント立てた。 「自分がしてもらうんじゃなくて、自分がしてあげる」 そして、言葉を失った私に口の端を持ち上げて笑う。 「どう?」 私が、してあげる。 私が、活かせるもの。 それは、とても新鮮で不思議な言葉だった。 「私が、してあげる」 そんなもの、求められたことはなかった。 しようと、思ったことすらなかった。 私はしてもらうことだけ考えていた。 私はただ欲しがっていた。 「………私に、何か、できることが、あるかな」 「さあ、それは知らないな」 思わずカップを見つめたまま独り言のように漏らす。 道隆さんは律義に、けれどどうでもよさそうに投げやりに返した。 「………」 ぐるぐると迷路の中で彷徨い続けていたところに、矢印が示された気がする。 まだまだ道は遠く険しいけれど、出口の光がうっすらと見えた気がする。 私が出来ること、私がしてあげられること。 何度も何度も心の中で繰り返す。 「さて、そろそろ眠くなってきたな。真衣ちゃんも早く寝ないとお肌に悪いしね」 「あ、はい」 黙り込んでいると、道隆さんがソファから体を起こした。 立ち上がりあくびをして、伸びをする。 しなやかで大きな大人の男の人の体は、慣れなくて少しだけ怖い。 「最後に一個教えてあげよう」 「はい?」 立ったまま、道隆さんが私を見下ろしてにやりと笑う。 そして指をまた一本立てた。 「その大事なものっていうのをAとBとして」 「えーとびー?」 「そう、割り振ってみて」 あの二人を、AとBとしろということだろうか。 混乱はするものの思考は言われた通り処理をする。 「割り振った?」 「はあ」 にこにこと笑って、道隆さんが問う。 私は頼りない返事を返しながら、頷いた。 道隆さんも頷くと、表情を正す。 「俺が選んであげる。Aを捨てな」 「え!?」 突然言われた言葉に、変な声をあげてしまう。 何を言っているんだ、この人は。 瞬きしながら大人の男の人を見上げていると、その人も私をじっと見る。 「あ、やっぱりB」 「は!?」 そして今度は先ほどと正反対のことを言った。 私はまたみっともない声をあげてしまう。 道隆さんが何をしたいのか分からず、ただ言葉を失う。 「どう思った?」 「………どうって」 何を突然言っているんだ、この人は。 としか思わなかった。 けれど道隆さんは楽しそうに私の表情を覗き込んでくる。 「捨てろって言われた時、いや、でもって思った?そう言うなら、仕方ないかなって思った?」 「………」 どきりと、心臓が跳ね上がる。 私は、道隆さんの言葉に、あの時何を感じた。 何を、考えた。 「女の子の相談ってさ、答えは求めてないんだよね」 道隆さんは、私の返事は期待してないらしい。 これは俺の偏見だから怒らないでねと前置きして、にこにこ笑ったままその先を続ける。 「心の中で答えは大体決まってるの。人に話すのは背中を押してほしいか、ただ相槌が欲しいか、一緒に愚痴ってほしいか、そんなもんでしょ。意見なんて、求めてない。欲しいのは同意」 ずいぶん、きつい言葉だ。 表情だけは優しげに笑っているのに、その内容に甘さはない。 「まあ、本当に答えを求めてる時もあるかもしれないけど、占い師とか見ず知らずの人間なんかに話す悩みが本気の相談なんてことほとんどないと思う。相談するのは責任を押し付けたいんだよね。占いで出たから、あの人もそう言ったから。そのくせ、自分が求める言葉がもらえるまで、聞き続けるの。Aがいいよって言われても、自分がBがいいって思ってるなら聞かないんだ」 決めつけられた言葉にムカっとするものの、何も返す言葉はない。 私なりに真剣に悩んで、相談した。 もしかしたらなんか答えが見つかるんじゃないかと。 「で、今の真衣ちゃんは背中を押してほしいのかなって思った」 でも、道隆さんの言うとおりなのかもしれない、と納得してしまいそうだったから何も言えなくなる。 悩んで悩んで、気持ち悪くなるほど、悩み続けていた。 けれど本当は、答えは、私の中にずっとあったのだろうか。 「どう、真衣ちゃんが欲しい言葉はもらえた?」 「………」 「答えが分かったなら、それでいいと思うよ。こういう時は勢いよく決めなきゃいつまでも迷っちゃうからね。本当に欲しいって思った時には欲しいものはなくなってるかもよ。衝動買いもたまにはいいよ」 あ、でも、衝動買いして失敗しても、俺は責任とれないけどね。 そう言って、道隆さんは笑った。 そのどこか胡散臭い笑い方は、根木と似ていると思った。 でも、根木よりももっと毒を含む。 こんな馬鹿げた質問して、この人はもしかして怒っているのだろうか。 「………すいません、変な、質問して」 「ああ、ごめん、別に怒ってたりはしないよ。ごめんね。真衣ちゃんが本気で悩んでいるようだから、真摯に本音で答えてみたんです」 そう言われても、下らない質問してくるなと言われたようで、いたたまれずに俯く。 床でいっぱいになった視界の隅に、道隆さんが近づいてくるのが見えた。 ぽんと頭を撫でて、そのまま通り過ぎる。 「ただ、まあ、捨てられる方がうちの馬鹿じゃないといいかな」 ぐさりぐさりと、この人の言葉は一番嫌なところに突き刺さる。 顔をあげられない。 「それじゃあ、おやすみ。夜更かしは駄目だよ」 最後にそう言って、怖い大人の人はリビングから去って行った。 そっと、つめていた息を吐く。 「私が、してあげられること。捨てるもの、捨てられない、もの」 つぶやいた言葉は誰もいないリビングに小さく響いた。 |