次の日、清水は学校に現れなかった。 何かあったのは明白。 弟君の、せいなんだろうなあ。 同じ家ってのは、どうにも分が悪いな。 ふらふらして不安定な清水真衣は、すぐに人の言葉で揺れてしまう。 人付き合いをしてこなかった少女は、人の言葉に疎くて弱い。 だからこそ弟君にいい様につけこまれるし、俺に簡単に騙くらかされる。 いや、騙してないけどね。 昨日の10分ほどで、あれほどダメージを与えられた清水だ。 一晩たったら、もしかしたら再起不能になってたり。 考えれば考えるほど、不安になる。 清水千尋は、潔いほど姉しか見えてなかったから。 でも家に上がりこむわけにはいかないし、うちに引っ張りこむわけにもいかない。 学生という身分は、こんなにもへぼくて情けない。 金なし家なし力なし。 好きな女1人、守ることもできない。 何もかも捨てて、一緒に逃げる。 そんなのもあるかもね。 そこまでいかなくても、プチ家出ぐらいなら。 それでも、そんな風に逃げてもどうにもならないことは見えてしまっている。 金もなければ逃げる場所もない。 先が見えた逃避行。 下手すればお互い悪影響ってことで、引き離されるだけ。 そんな馬鹿らしい結末の分かる賭け、したくないな。 それに、弟君には清水自身が向き合わなきゃ、どうにもならないだろうしな。 逃げるにしても、闘うにしても。 俺のできることは、こんなにも少ない。 ただ、優しく中身のない言葉をかけるだけ。 お姉さんを抱いていた男の腕。 大人の腕は、あんなにもたくましく見えたのに。 図体だけでかくなった俺の腕は、まだまだ弱っちい。 あの男も実際にはもうギリギリまで追い詰められてたんだけどさ。 それでもあの男の腕は、あんなにも頼もしく見えた。 お姉さんを、守っていた。 あの強さを、俺を持つことが、できるのかな。 なんとなく、習慣と気まぐれで訪れたその場所に、見慣れた姿が座っていた。 いつものように少し涼しい緑の中、少女は風景に溶け込んでみえる。 どこか現実感のない空間。 緑の中に埋もれてしまいそうな清水真衣は、いつもよりずっと小さかった。 青くて、やつれていて、目を腫らして、みっともないぐらいに、頼りない。 本当に保護欲を誘う女だなあ、清水真衣。 反則だって、そのすがるような目は。 手を差し伸べたくなってしまう。 「ひっどい顔色!」 清水は俺が声をかけると、あからさまに安心したように肩の力を抜いた。 本当に弟君にいじめられたんだなあ、こりゃ。 「学校サボったんなら、ゆっくり家で休んでりゃいいのに」 「あんたに、会いたかったの」 「うわ、出会った早々ものすごい熱烈歓迎。何々、一晩会えなくて寂しかったの」 迷子の子供のように頼りなく不安げな顔をした清水は、嬉しいことを言ってくれる。 きっとすがるものが俺しかないってことなんだけど、俺はすがられるのが嬉しいんだ。 どんどん俺を利用して。俺に頼って、清水真衣。 いつものベンチに座った清水の前に立つと、俺はその小さな頭を胸に押し付けた。 温かな湿った吐息を感じる。 「そうね、寂しかった」 「うわー、ヤバ。そんな事言われたら襲っちゃうって、今すぐ」 猫のように顔を俺のシャツに擦り付ける清水が、腰に抱きついてくる。 その力は弱弱しいけど、背中に立てられた爪に軽く悪寒が走る。 やば、勃っちゃうって。 この体勢で勃っちゃったらまずいでしょ、これは。 それに、清水はそれどころじゃないだろうしね。 「ムードない」 「誘う方が悪いんでしょー」 「で、どうしたの?弟君と何かあった?」 「………」 「休んでたはずなのに、昨日よりひどい顔してるし」 「そんなに、ひどい……?」 「そりゃあもう。誘われてんのに、襲うのためらっちゃうほど」 「甲斐性なし」 「それは言わないでー」 サラサラと腰のない弱い髪を優しく撫でる。 へにゃへにゃしてるけど、触り心地はいい。 ごめんね、甲斐性なしで。 黙って襲える獣になりたいよ、俺もね。 清水は大きく息を吸って、吐いた。 腹に当たる湿った感触が、ちょっと気持ち悪くて気持ちいい。 「千尋に、大嫌いって言われた……」 ふーん、そういう作戦できたのか。 そうだよね、そんなこと言われたら清水は駄目になっちゃうよね。 あんなに信頼して、依存して、ぐるぐるに縛られていたんだから。 「………それはそれは」 「清々したって、もう干渉するなって」 「うんうん」 「私が泣いてたら、いい気味だって。これは罰だって」 「あー、そう来たか」 「根木……?」 一度、体を離す。 子供にするように、目線をあわせるためにしゃがみこんだ。 すでに潤んでいる目が、あどけなく俺を見つめる。 この1日で随分やつれた顔を、ゆっくりと手で挟みこんだ。 「辛い?」 「…………」 「弟離れするんじゃないの?」 「………だって……」 昨日決心したばかりなのに、清水はすぐに揺れてしまう。 どんなに説いても、俺の中身のない言葉は届かない。 いや、届いていても清水千尋の強い目に揺らされてしまう。 過ごしてきた年月が違うといわれれば、そうなんだけどね。 その弱さが、愛おしくて悔しくて憎らしいよ、清水真衣。 そんなに清水の心を絡めとっている清水千尋に、ちりちりとした感情が煽られる。 俺の自嘲の入ったため息交じりの声に、責められていると感じたのかくしゃりと顔をゆがめる。 みるみる涙の膜がはって、目尻に粒がたまる。 ここまでこらえていた感情が、溢れ出す。 「だって!千尋が……千尋ずっと一緒にいるって、いるって言ったのに!ずるい!ひどい!分かってる!私が悪い!でも……でも、千尋が嫌いってっ!嫌いってっ……!」 泣いて、俺の背にまわした腕に、力が篭もる。 すがって、慰めを期待してる。 俺の中身のない甘い言葉を欲している。 疑り深くて用心深くて、小市民でちょっと打算的な清水。 泣いてる清水が、愛おしい。 ぶつけられる感情が、気持ちいい。 しいていえば、その感情の元が、俺じゃないのが悔しいだけ。 ああ、本当に楽しいな清水は。 好奇心がうずうずと刺激される。 ねえ清水、今君はどんな気持ち。 俺の欲しいものをくれるから、俺は清水の欲しいものをあげる。 温かくて、優しくて、薄っぺらな言葉を。 「本当にそれはひどいねー」 そうすると、清水は小首を傾げて俺を見つめる。 頼りなく子供のように純粋で残酷な清水。 君を安心させたい。 君を笑わせたい。 「自分で言っておいて、いきなり手を放すなんて、ひどいよね。分かる。それはひどい。怒って当然。約束破りにはアンパンチだ!清水弟君はマジひどい奴だよ」 「千尋が……ひどい…?」 「うんうん、最悪だね。嘘つきは泥棒の始まりだね」 そんな風にいつもの調子で言ってみせると清水は頬を緩める。 君のその強張った顔が穏やかな印象に変わる、その瞬間が好き。 そのためだったら、なんでもしてあげたいって、素直に思うよ。 「お、笑った」 「……あんたって、不思議」 「ふ、愛の笑顔お届け人と呼んでくれ。君に涙は似合わないよ」 「………ばーか」 少々口の悪い清水は、そんな風に俺のふざけた言葉を一蹴する。 しかし青かった顔に赤みが戻り、随分と安らかな顔に変わる。 君の心を少し軽くするぐらいなら、俺にもできる。 そのことが、嬉しい。 清水は俺の手に顔を預け気持ちよさそうに目を閉じると、大きくため息をついた。 「私って、ダメだ」 「なんで?」 「千尋から離れようって何度も決心してるのに、こんな風に、すぐにダメになる」 「それが、清水弟の狙いでしょ?」 「え……?」 清水から他のものを遮断するために、震える体を守るために腕の中に囲い込む。 それが清水千尋の狙いでしょ。 そんなにも囚われて、そんなにも縛り付けられて、それを認めない清水真衣。 馬鹿で純粋で可哀想で、愛おしいね。 ねえ、清水。 「そんな風にすれば、清水は、弟の事しか考えられなくなっちゃうでしょ」 「……え…?」 「昨日俺、告白したばっかりだったよね?それで清水はOKした」 「それだったら、昨日の夜は、もう根木君たらっ恥ずかしい!みたいな感情で夜は俺しか考えられないはずだ」 「だけど、清水、昨日の夜は何を考えてた?」 「え………?」 「俺のこと、いつ思い出した?」 俺との一時なんて、あっという間に覆されてしまう。 あの強い感情に塗り替えられてしまう。 ちりちりと、俺の中のものが熱を持つ。 どうして、そうやって暗い方向へ行こうとするんだ。 お姉さんも清水も。 こんなに明るい世界なんだ。 楽しいことがいっぱいで、幸せになれる種なんてそこら辺に落ちている。 なんで、わざわざ先のない道へ行こうとするんだろう。 ずっとお互いを見てなんか、られないのに。 その行き場のない感情の行き着くところを知りたいよ。 ねえ、教えてよ清水。 どうして、俺の手を取らないの? 俺の言葉を聞かないの? それは、悔しさと同等の好奇心。 「根木……私……」 清水の声は震えている。 自分でもその心をもてあましているように。 シャツを握る手にますます力が篭もって、痛々しいぐらい白くなる。 怖いのかな、清水。 どうしたらそんなに、強くて怖い感情を持つことができるのかな。 「まあ、思い出して、こうして来てくれただけでもいいけどね」 「根木……、怒ってる?」 「ちょっと」 清水の体が震える。 弟は捨てられないけど、俺を失いたくないんだね。 そんなところが好きだよ、清水。 大丈夫だよ、清水。清水が好きだよ、愛おしいよ。 「他の男の事で泣きつかれるのはねー。泣くんだったら、俺の事にして」 そう、俺のために泣いて、俺のために笑って、俺に執着して。 怒りは清水真衣よりも、清水千尋よりも、自分に。 悔しいよ、この頼りない手が、軽い言葉が、好奇心が捨てられない自分が。 そして何よりも、それでいいと思っている自分が。 ため息をついて、上げた顔に俺が喫煙室にしていた旧校舎の2階が見える。 あそこでよく、清水真衣を観察していた。 清水真衣の、感情に触れたくて、近づきたかった。 そして、今そこに白い影が見える。 遠くからでもよく見える。 まだ線の細いできあがっていない長身。 そしてその、俺を射殺すような目。 俺を何より煽る、その強い感情。 分かりやすくていいな、本当に。 ゾクゾクする。 ああ、いいね、清水千尋。 もっとその目、見せてよ。 「嫌いにならない……?」 「………」 「根木……?」 清水が俺を頼りなげに見上げる。 保護欲をそそる、すがる目。 小さく華奢な体。 本当に、かわいいな。 「大丈夫。まだまだ好きだから」 いつでも不安定で揺れている心を少しでも安心させてあげたくて、俺は腰を屈める。 清水は素直に目を閉じた。 弟君の目の前でのラブシーン。 うーん、燃えるね。 小さく笑うと、俺はその唇に口付ける。 綺麗な涙が零れ落ちる。 それを優しく吸い上げた。 顔を上げるとを清水とよく似た白い肌を、更に白くさせた清水千尋。 かみ締めた唇、しかめられた眉。 それこそ今にもそこから飛び降りて、俺の首を絞め殺しそうな目。 見蕩れて、しまう。 「うわー…、怖」 「根木……?」 「マジこえー」 「根木?」 「なんつーか、微妙にホラーだよな」 「根木!」 そんな悔しそうな声あげても、清水には見せてあげない。 清水が後ろを振り返らないように、俺は強く華奢な体を抱きしめる。 あんなの見たら、清水ますます捕まっちゃうから。 そんなのはつまらない。 もっと俺にすがって、俺にその感情を向けて。 清水弟は、一回泣きそうに顔を歪めると背を向けた。 感情だだもれ。 なんであれで、今まで気付かれずにやってこれたのかね。 不思議。 清水がそれほど鈍感だったのか。 それとも俺だから、あれほど激してんのかな。 それだったら、光栄。 「一体何よ?」 「いやー、ほらあそこ」 「それが?」 「あそこからここって、よく見えるんだよね」 「……は?」 旧校舎の資料室を指差すと、清水は呆けたような声を上げた。 古い型の窓には、すでに何も見えない。 俺は笑って、首を振った。 もったいないから、教えてあげない。 「いや、何にも」 「根木!」 「本当になんでもないんだって」 声を荒げる清水の背をなだめるようにぽんぽんと叩く。 「で、これからどうするの?」 どうしたいのかな、清水は。 逃げたい?闘いたい?それとも? 清水の、本当にしたいことは、なんなのかな。 「え?」 「弟君のこと、どうするの?」 清水は迷うように苦しげに眉を寄せる。 それでも唇を噛んで、決心したように小さく、しかししっかりと吐き出す。 「……でも、私は千尋を解放しなきゃ」 「解放、ね……」 「千尋を失うのが怖くて仕方がないの。千尋が傍にいなくなってしまうのが、こんなに、怖いなんて思わなかった」 「そっか……」 それはそうだろうね。 清水弟が、長年、粘着質に、細心の注意を払って植込んできただろうもの。 その強い感情の、底にあるものはなんなんだろう。 そして、清水はそれをどう受け止めているんだろう。 「千尋に謝る」 「え?」 「謝って、許してくれなくても、それでも今までのこと謝って、それで終わりにする」 かわいいな、清水。 まだ、自分が悪いと思っているのか。 いや、清水も悪いんだろうけどね。 ずっと弟君にしがみ付いて、あの執着を煽ってきた弱さと頼りなさは十分悪い。 それでも、弟君が、謝って許してくれるのかな。 清水は本当に、逃げられるのかな。 そして清水は、本当に逃げたいのかな。 「ねえ、清水、俺の事好き?」 少し、躊躇った後、俺は清水に問う。 清水は目を丸くして首を傾げる。 「…何?急に?」 「少しでも、俺のこと好きでいてくれる?」 清水真衣は一瞬躊躇って、でもまっすぐな目で応えてくれた。 「あんたのことは、好き」 その色々と混じった好意は、気持ちいい。 俺も、清水のことが好き。 だから、明るいところに来て。 弟君なんて、切り捨ててしまって。 俺のために、そんなドロドロしてもの捨て去る勇気を持って。 「そっか、それなら、頼みがあるんだ」 「………何?」 「弟には、謝らなくていい」 「え?」 「捕まっちゃうから」 清水は訳がわからないように、困惑した顔をしている。 分からない?分かっているはずだろう、清水真衣。 嫌っていたんだろう、弟を。 なら、逃げていく弟にすがろうとするな。 謝って許してもらって、それでどうしたいの。 もう一度、弟へすがるの? 「あっちから離れていってくれるっていうなら、追いかけるな」 「根木………?」 「全力で逃げて」 「どういう、こと……?」 「これ以上、清水千尋に近づかないで」 お願いだから、俺に執着して。 |