次の日、清水は学校に現れなかった。
何かあったのは明白。
弟君の、せいなんだろうなあ。
同じ家ってのは、どうにも分が悪いな。

ふらふらして不安定な清水真衣は、すぐに人の言葉で揺れてしまう。
人付き合いをしてこなかった少女は、人の言葉に疎くて弱い。
だからこそ弟君にいい様につけこまれるし、俺に簡単に騙くらかされる。
いや、騙してないけどね。

昨日の10分ほどで、あれほどダメージを与えられた清水だ。
一晩たったら、もしかしたら再起不能になってたり。

考えれば考えるほど、不安になる。
清水千尋は、潔いほど姉しか見えてなかったから。

でも家に上がりこむわけにはいかないし、うちに引っ張りこむわけにもいかない。
学生という身分は、こんなにもへぼくて情けない。
金なし家なし力なし。
好きな女1人、守ることもできない。

何もかも捨てて、一緒に逃げる。
そんなのもあるかもね。
そこまでいかなくても、プチ家出ぐらいなら。
それでも、そんな風に逃げてもどうにもならないことは見えてしまっている。
金もなければ逃げる場所もない。
先が見えた逃避行。
下手すればお互い悪影響ってことで、引き離されるだけ。
そんな馬鹿らしい結末の分かる賭け、したくないな。

それに、弟君には清水自身が向き合わなきゃ、どうにもならないだろうしな。
逃げるにしても、闘うにしても。
俺のできることは、こんなにも少ない。
ただ、優しく中身のない言葉をかけるだけ。

お姉さんを抱いていた男の腕。
大人の腕は、あんなにもたくましく見えたのに。
図体だけでかくなった俺の腕は、まだまだ弱っちい。
あの男も実際にはもうギリギリまで追い詰められてたんだけどさ。
それでもあの男の腕は、あんなにも頼もしく見えた。
お姉さんを、守っていた。

あの強さを、俺を持つことが、できるのかな。



***




なんとなく、習慣と気まぐれで訪れたその場所に、見慣れた姿が座っていた。
いつものように少し涼しい緑の中、少女は風景に溶け込んでみえる。
どこか現実感のない空間。
緑の中に埋もれてしまいそうな清水真衣は、いつもよりずっと小さかった。

青くて、やつれていて、目を腫らして、みっともないぐらいに、頼りない。
本当に保護欲を誘う女だなあ、清水真衣。
反則だって、そのすがるような目は。
手を差し伸べたくなってしまう。

「ひっどい顔色!」

清水は俺が声をかけると、あからさまに安心したように肩の力を抜いた。
本当に弟君にいじめられたんだなあ、こりゃ。

「学校サボったんなら、ゆっくり家で休んでりゃいいのに」
「あんたに、会いたかったの」
「うわ、出会った早々ものすごい熱烈歓迎。何々、一晩会えなくて寂しかったの」

迷子の子供のように頼りなく不安げな顔をした清水は、嬉しいことを言ってくれる。
きっとすがるものが俺しかないってことなんだけど、俺はすがられるのが嬉しいんだ。
どんどん俺を利用して。俺に頼って、清水真衣。
いつものベンチに座った清水の前に立つと、俺はその小さな頭を胸に押し付けた。
温かな湿った吐息を感じる。

「そうね、寂しかった」
「うわー、ヤバ。そんな事言われたら襲っちゃうって、今すぐ」

猫のように顔を俺のシャツに擦り付ける清水が、腰に抱きついてくる。
その力は弱弱しいけど、背中に立てられた爪に軽く悪寒が走る。
やば、勃っちゃうって。
この体勢で勃っちゃったらまずいでしょ、これは。
それに、清水はそれどころじゃないだろうしね。

「ムードない」
「誘う方が悪いんでしょー」
「で、どうしたの?弟君と何かあった?」
「………」
「休んでたはずなのに、昨日よりひどい顔してるし」
「そんなに、ひどい……?」
「そりゃあもう。誘われてんのに、襲うのためらっちゃうほど」
「甲斐性なし」
「それは言わないでー」

サラサラと腰のない弱い髪を優しく撫でる。
へにゃへにゃしてるけど、触り心地はいい。
ごめんね、甲斐性なしで。
黙って襲える獣になりたいよ、俺もね。

清水は大きく息を吸って、吐いた。
腹に当たる湿った感触が、ちょっと気持ち悪くて気持ちいい。

「千尋に、大嫌いって言われた……」

ふーん、そういう作戦できたのか。
そうだよね、そんなこと言われたら清水は駄目になっちゃうよね。
あんなに信頼して、依存して、ぐるぐるに縛られていたんだから。

「………それはそれは」
「清々したって、もう干渉するなって」
「うんうん」
「私が泣いてたら、いい気味だって。これは罰だって」
「あー、そう来たか」
「根木……?」

一度、体を離す。
子供にするように、目線をあわせるためにしゃがみこんだ。
すでに潤んでいる目が、あどけなく俺を見つめる。
この1日で随分やつれた顔を、ゆっくりと手で挟みこんだ。

「辛い?」
「…………」
「弟離れするんじゃないの?」
「………だって……」

昨日決心したばかりなのに、清水はすぐに揺れてしまう。
どんなに説いても、俺の中身のない言葉は届かない。
いや、届いていても清水千尋の強い目に揺らされてしまう。
過ごしてきた年月が違うといわれれば、そうなんだけどね。

その弱さが、愛おしくて悔しくて憎らしいよ、清水真衣。
そんなに清水の心を絡めとっている清水千尋に、ちりちりとした感情が煽られる。

俺の自嘲の入ったため息交じりの声に、責められていると感じたのかくしゃりと顔をゆがめる。
みるみる涙の膜がはって、目尻に粒がたまる。
ここまでこらえていた感情が、溢れ出す。

「だって!千尋が……千尋ずっと一緒にいるって、いるって言ったのに!ずるい!ひどい!分かってる!私が悪い!でも……でも、千尋が嫌いってっ!嫌いってっ……!」

泣いて、俺の背にまわした腕に、力が篭もる。
すがって、慰めを期待してる。
俺の中身のない甘い言葉を欲している。
疑り深くて用心深くて、小市民でちょっと打算的な清水。

泣いてる清水が、愛おしい。
ぶつけられる感情が、気持ちいい。
しいていえば、その感情の元が、俺じゃないのが悔しいだけ。
ああ、本当に楽しいな清水は。
好奇心がうずうずと刺激される。
ねえ清水、今君はどんな気持ち。

俺の欲しいものをくれるから、俺は清水の欲しいものをあげる。
温かくて、優しくて、薄っぺらな言葉を。

「本当にそれはひどいねー」

そうすると、清水は小首を傾げて俺を見つめる。
頼りなく子供のように純粋で残酷な清水。
君を安心させたい。
君を笑わせたい。

「自分で言っておいて、いきなり手を放すなんて、ひどいよね。分かる。それはひどい。怒って当然。約束破りにはアンパンチだ!清水弟君はマジひどい奴だよ」
「千尋が……ひどい…?」
「うんうん、最悪だね。嘘つきは泥棒の始まりだね」

そんな風にいつもの調子で言ってみせると清水は頬を緩める。
君のその強張った顔が穏やかな印象に変わる、その瞬間が好き。
そのためだったら、なんでもしてあげたいって、素直に思うよ。

「お、笑った」
「……あんたって、不思議」
「ふ、愛の笑顔お届け人と呼んでくれ。君に涙は似合わないよ」
「………ばーか」

少々口の悪い清水は、そんな風に俺のふざけた言葉を一蹴する。
しかし青かった顔に赤みが戻り、随分と安らかな顔に変わる。
君の心を少し軽くするぐらいなら、俺にもできる。
そのことが、嬉しい。
清水は俺の手に顔を預け気持ちよさそうに目を閉じると、大きくため息をついた。

「私って、ダメだ」
「なんで?」
「千尋から離れようって何度も決心してるのに、こんな風に、すぐにダメになる」
「それが、清水弟の狙いでしょ?」
「え……?」

清水から他のものを遮断するために、震える体を守るために腕の中に囲い込む。
それが清水千尋の狙いでしょ。
そんなにも囚われて、そんなにも縛り付けられて、それを認めない清水真衣。
馬鹿で純粋で可哀想で、愛おしいね。
ねえ、清水。

「そんな風にすれば、清水は、弟の事しか考えられなくなっちゃうでしょ」
「……え…?」
「昨日俺、告白したばっかりだったよね?それで清水はOKした」
「それだったら、昨日の夜は、もう根木君たらっ恥ずかしい!みたいな感情で夜は俺しか考えられないはずだ」
「だけど、清水、昨日の夜は何を考えてた?」
「え………?」
「俺のこと、いつ思い出した?」

俺との一時なんて、あっという間に覆されてしまう。
あの強い感情に塗り替えられてしまう。
ちりちりと、俺の中のものが熱を持つ。

どうして、そうやって暗い方向へ行こうとするんだ。
お姉さんも清水も。
こんなに明るい世界なんだ。
楽しいことがいっぱいで、幸せになれる種なんてそこら辺に落ちている。
なんで、わざわざ先のない道へ行こうとするんだろう。
ずっとお互いを見てなんか、られないのに。

その行き場のない感情の行き着くところを知りたいよ。
ねえ、教えてよ清水。
どうして、俺の手を取らないの?
俺の言葉を聞かないの?

それは、悔しさと同等の好奇心。

「根木……私……」

清水の声は震えている。
自分でもその心をもてあましているように。
シャツを握る手にますます力が篭もって、痛々しいぐらい白くなる。
怖いのかな、清水。
どうしたらそんなに、強くて怖い感情を持つことができるのかな。

「まあ、思い出して、こうして来てくれただけでもいいけどね」
「根木……、怒ってる?」
「ちょっと」

清水の体が震える。
弟は捨てられないけど、俺を失いたくないんだね。
そんなところが好きだよ、清水。
大丈夫だよ、清水。清水が好きだよ、愛おしいよ。

「他の男の事で泣きつかれるのはねー。泣くんだったら、俺の事にして」

そう、俺のために泣いて、俺のために笑って、俺に執着して。
怒りは清水真衣よりも、清水千尋よりも、自分に。
悔しいよ、この頼りない手が、軽い言葉が、好奇心が捨てられない自分が。
そして何よりも、それでいいと思っている自分が。

ため息をついて、上げた顔に俺が喫煙室にしていた旧校舎の2階が見える。
あそこでよく、清水真衣を観察していた。
清水真衣の、感情に触れたくて、近づきたかった。

そして、今そこに白い影が見える。
遠くからでもよく見える。
まだ線の細いできあがっていない長身。
そしてその、俺を射殺すような目。
俺を何より煽る、その強い感情。
分かりやすくていいな、本当に。

ゾクゾクする。
ああ、いいね、清水千尋。
もっとその目、見せてよ。

「嫌いにならない……?」
「………」
「根木……?」

清水が俺を頼りなげに見上げる。
保護欲をそそる、すがる目。
小さく華奢な体。
本当に、かわいいな。

「大丈夫。まだまだ好きだから」

いつでも不安定で揺れている心を少しでも安心させてあげたくて、俺は腰を屈める。
清水は素直に目を閉じた。
弟君の目の前でのラブシーン。
うーん、燃えるね。
小さく笑うと、俺はその唇に口付ける。

綺麗な涙が零れ落ちる。
それを優しく吸い上げた。

顔を上げるとを清水とよく似た白い肌を、更に白くさせた清水千尋。
かみ締めた唇、しかめられた眉。
それこそ今にもそこから飛び降りて、俺の首を絞め殺しそうな目。

見蕩れて、しまう。

「うわー…、怖」
「根木……?」
「マジこえー」
「根木?」
「なんつーか、微妙にホラーだよな」
「根木!」

そんな悔しそうな声あげても、清水には見せてあげない。
清水が後ろを振り返らないように、俺は強く華奢な体を抱きしめる。
あんなの見たら、清水ますます捕まっちゃうから。
そんなのはつまらない。
もっと俺にすがって、俺にその感情を向けて。

清水弟は、一回泣きそうに顔を歪めると背を向けた。
感情だだもれ。
なんであれで、今まで気付かれずにやってこれたのかね。
不思議。
清水がそれほど鈍感だったのか。
それとも俺だから、あれほど激してんのかな。
それだったら、光栄。

「一体何よ?」
「いやー、ほらあそこ」
「それが?」
「あそこからここって、よく見えるんだよね」
「……は?」

旧校舎の資料室を指差すと、清水は呆けたような声を上げた。
古い型の窓には、すでに何も見えない。
俺は笑って、首を振った。
もったいないから、教えてあげない。

「いや、何にも」
「根木!」
「本当になんでもないんだって」

声を荒げる清水の背をなだめるようにぽんぽんと叩く。

「で、これからどうするの?」

どうしたいのかな、清水は。
逃げたい?闘いたい?それとも?
清水の、本当にしたいことは、なんなのかな。

「え?」
「弟君のこと、どうするの?」

清水は迷うように苦しげに眉を寄せる。
それでも唇を噛んで、決心したように小さく、しかししっかりと吐き出す。

「……でも、私は千尋を解放しなきゃ」
「解放、ね……」
「千尋を失うのが怖くて仕方がないの。千尋が傍にいなくなってしまうのが、こんなに、怖いなんて思わなかった」
「そっか……」

それはそうだろうね。
清水弟が、長年、粘着質に、細心の注意を払って植込んできただろうもの。
その強い感情の、底にあるものはなんなんだろう。
そして、清水はそれをどう受け止めているんだろう。

「千尋に謝る」
「え?」
「謝って、許してくれなくても、それでも今までのこと謝って、それで終わりにする」

かわいいな、清水。
まだ、自分が悪いと思っているのか。
いや、清水も悪いんだろうけどね。
ずっと弟君にしがみ付いて、あの執着を煽ってきた弱さと頼りなさは十分悪い。

それでも、弟君が、謝って許してくれるのかな。
清水は本当に、逃げられるのかな。
そして清水は、本当に逃げたいのかな。

「ねえ、清水、俺の事好き?」

少し、躊躇った後、俺は清水に問う。
清水は目を丸くして首を傾げる。

「…何?急に?」
「少しでも、俺のこと好きでいてくれる?」

清水真衣は一瞬躊躇って、でもまっすぐな目で応えてくれた。

「あんたのことは、好き」

その色々と混じった好意は、気持ちいい。
俺も、清水のことが好き。
だから、明るいところに来て。
弟君なんて、切り捨ててしまって。
俺のために、そんなドロドロしてもの捨て去る勇気を持って。

「そっか、それなら、頼みがあるんだ」
「………何?」
「弟には、謝らなくていい」
「え?」
「捕まっちゃうから」

清水は訳がわからないように、困惑した顔をしている。
分からない?分かっているはずだろう、清水真衣。
嫌っていたんだろう、弟を。
なら、逃げていく弟にすがろうとするな。
謝って許してもらって、それでどうしたいの。
もう一度、弟へすがるの?

「あっちから離れていってくれるっていうなら、追いかけるな」
「根木………?」
「全力で逃げて」
「どういう、こと……?」


「これ以上、清水千尋に近づかないで」


お願いだから、俺に執着して。






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