まだ性にうとい少年の、他愛のない夢。
そこまで生々しくもない、とても稚拙な、大人が聞いたら笑ってしまうような夢。

けれど、見慣れたはずの姉の白い肌が目に焼きついて。
骨ばった貧相な肩を見る度に動揺して。
いつものように甘えてくる姉に訳もなく泣きそうになる。

俺は姉を、これまでのように見れなくなっていた。



怖かった。
それが何を意味するのか分からないほど、幼くはない。
誰にも相談できない。
父にも母にも、友達にも、勿論姉にも。
誰にも言う事はできなかった。
他人に弱みを打ち明けるには、俺のプライドは高すぎた。
いや、それが出来ないくらい、弱すぎた。
俺は器用で、要領がよくて、いつも他人に頼られる立場で。
他人に、自分を委ねる事が、出来なかった。

自分の想いが恐くて、自分の体が疎まして、俺は独りで膝を抱えて泣いた。
夜、眠るのが恐ろしかった。
あれ以来、姉の夢を見ることはなかった。
けれど、浅い眠りを繰り返し、悪夢で飛び起きることも少なくなかった。

何も知らずに甘えてくる姉が憎らしかった。
自分が、そう仕向けたくせに。
自分がすべてを隠しているくせに。
なにも気付かない姉が、嫌いだった。
そして、怖かった。

一つの望みをかけて、戸籍を調べてみたりもした。
授業で使う、なんて馬鹿らしい理由をつけて。
実は姉弟じゃなかった、なんてドラマみたいな展開を期待して。
けれど突きつけられたのは、紛れもない現実。

突きつけられた現実に、絶望した。
姉弟でなければ、よかったのに。
そしたら、この感情を正当化できた。
なにより、こんなにも姉に惹かれたりしなかった。

俺達は姉と弟で。
血がつながっていて。
そんな感情を抱く事はありえないことだ。
抱いてはいけないものだ。
誰に言われるまでもなく、そんなことは分かってる。
俺達は、姉弟なのだ。

性に関する本を、読み漁った。
自分の感情に理由付けをしようとした。
これは何ともないものなんだと。
ごく普通のものなんだと。
思春期の、ちょっとした間違い。
歳をとれば笑って話せるようなもの。

事実、そのような事も書いてあった。
一番身近な異性に反応してしまう。
それは、そこまで珍しくもないことだと。
それをおかしいと思う感情があれば、平気なのだと。

そんな言葉に安堵しつつ、どこかでそれは違うと訴える心があった。
それを無理矢理押し込めて、見ないようにした。

俺達は、姉弟なんだから。

姉に対するどうしようもない執着心。
執拗なまでに、姉の意識を自分に向けようとする行動。

それを見てしまった瞬間に、何かが崩れ去っていくであろうことを感じていた。


『真衣ちゃんは、俺が守る』

それは誓い。
それは絶対のもの。
当然であって、正しいもの。
そのために俺はあって、そのために姉はいるのだと。
そう、なんのためらいもなく感じていた自分。


それが、間違いであったなんて、考えも、しなかった。



***




不安定な心を抱えたまま、時は過ぎる。
あんなに早く上がりたかった中学。
けれど姉と同じ学校に通う事が、その頃は苦痛で仕方がなかった。
伸びる手足、成長する力。
姉を押さえつけることの出来る体を持つのが、、怖かった。

「千尋、最近………」

姉が不安そうな目をする。
何かに怯えるように、俺を見上げる。
いつでも独りだったこの少女は、人が去っていく気配に敏感だ。
それでなくても気付くだろう。
姉との約束を断ったり、一緒に寝るのを拒んだり。
俺の変化は、露骨すぎるくらいだったかもしれない。
離れていく俺を引き止めるように、右腕の袖を握り締めている。

離れていく。
そう、俺は姉から、距離をおこうとしていた。
それが、最善のことだと、気付いたから。
気付いて、しまったから。

「どうしたの、真衣ちゃん?」
姉の不安は気付いている。
俺がいなくなったら独りになる、そのどうしようもない焦燥感。
俺が長年植え込んだもの。

姉に謝罪したくて仕方がなかった。
それなのに俺はどうしようもなく、姉のそのすがる手に嬉しくなる。

押さえる事のできない、この感情。

だから真衣ちゃん。
お願いだから、俺から離れていって。
今のうちに、俺から逃げて。
そうでなければ、俺は。

「千尋……」

その先を続ける事ができない。
唇を引き結んで、言葉を飲み込む。
それが姉の意地からくるものなのか、それとも口にすることで本当に俺が離れて行ってしまうのが怖かったのか。
どちらかは分からない。
けれど、その先を言われないことに安堵する。
言われてしまったら、俺はどうなるか分からなくなるから。

頼りない声。
まだ俺よりも背が高いけれど、貧相なその体。
俺の庇護欲と支配欲を刺激してやまない、唯一の女。

「ごめんね、俺、友達と用事あるから」

姉の頼りない手を優しく振り払う。俺の迷いを振り払うように。
途方にくれた子供のような顔が、脳裏に焼きついた。
けれど、後ろは振り返らない。

振り返っては、いけないのだ。



***




俺はそこそこ顔がよくて、頭もよくて、運動も出来て、何より要領がよかった。
そつなく人付き合いが出来たし、周りの同年代の男よりは空気を読む事ができた。
標準よりも背は低いくらいで、まだまだガキ臭かったが、当然のようにもてた。
中学生になって、ますます高まる異性への興味。
小学生の頃とは比べ物にならないほど、女の子からの視線を感じた。

俺は中学生活に打ち込むことに全てを費やした。
勉強にも、部活にも、課外活動にも。
そして、女性にも。

俺の初めての経験は、夜の街で知り合った大人の女性。
派手めの美人で、肉感的な体を持っていた。
姉とは似ても似つかない。
どこにも、姉を連想させるものがなかった。
そこが、よかったのかも知れない。
向こうも青臭い中学生なんてペット感覚で、お互い干渉しないところもよかった。

初めての女性は、とろけそうなほどに気持ちがよかった。
慣れた女はすべてをリードし、俺に沢山のことを教え込んだ。
ベッドでの事、テーブルマナー、女性の扱い方に、話し方。
かわいいペットを根気よく調教するように。
見たこともない刺激的な世界に、俺はすべてを忘れられるような気がした。
家にいる時間も少なくなったおかげで、姉のすがるような目をみることもなくなる。
それが、なにより有難かった。

外出が多くなったことに対して、両親は何も言わない。
姉は俺だけが愛されて、自分が愛されていないことに悲しんでいた。
しかし、それは違う。
両親が愛しているのは自分だけだ。
確かに俺は姉よりずっと可愛がられていた。
けれどそれは、俺の出来がいいから。
そこにあるのは、自己愛の延長。
この頃には、俺はそのことに気付いていた。
だから、俺が最低限の事さえやっていれば、両親は何も言わない。
『いいこ』でいれば、それでいいのだ。

その事を知ったから、俺は問題を起こさない程度に、家をあけることにした。
姉と一緒にいるのが、何より恐ろしかった。
姉の事を考えたくなかった。

それなのに、完璧な年上の女を抱いていてなお、脳裏をよぎる感情。

姉だったら、どんな顔をするのだろうか。
姉は、どんな反応をするのだろうか。
どんな風に鳴くんだろうか。
姉は……。

どんなに振り払っても振り払っても、纏わりついて離れない姉の影。
自分を捕らえて放さない姉がむかついて、嫌いで、憎くて。
どうしてこんなにも自分を苦しめるのかと、いっそ姉を消してしまいたいぐらい。
吐き気がして、体が引き裂かれそうなほどの苦痛。
姉が、憎くて、仕方がなかった。

それでも一緒にいる時間を減らして、色々なことに打ち込んで。
少しづつ、姉から離れたようと、努力していた。
姉から、離れたかったのだ。
離れようと、していたのだ。



***




綱渡りのよう過ごす日々。
すでに夏が終わろうとしていた。

その日も、家に帰るのは遅くなった。
自分に香水の匂いがするのが煩わしくて、早くシャワーを浴びたかった。
暗い家。
今日も両親は遅いのだろう。
静まり返った家に、もう姉は寝ているものだと思っていた。
着替えをとろうと、2階に上がる。

俺の部屋の前で、誰かがうずくまっている。

心臓が、軋んだような気がした。

それは、近頃ほとんど顔を合わすことのなかった姉。
俺を、待っていたのだろうか。
どこかやつれて、泣き腫らした目で、しゃがみこんで寝ていた。
その頼りない姿に、手を伸ばしそうになる。
抱きしめて、慰めたくなる。

けれど、無理矢理に目をそらし、手を引いた。

「真衣ちゃん、風邪引くよ」
努めて冷静な声で、そう声をかけた。
俺を待っていて、つい、うたた寝してしまったのだろう。
姉はすぐに反応して目を覚ます。
「千尋……」
見上げてくる目から、一粒涙が零れ落ちる。
胸が、痛かった。
顔が歪むのが分かった。
「もう遅いよ、早く自分の部屋に帰った方がいいよ」
そう言って、姉を避けて部屋に入ろうとする。
とっさに、姉はしゃがみこんだまま、俺のシャツを掴んだ。


だめだ。


「まっ、て……、千尋」
惨めにすがりつく、貧相な姉。


だめだよ、真衣ちゃん。


俺は仕方なく、振り返る。
「どうしたの?」
内心の動揺と焦燥を隠し、なんでもないように聞く。
姉は、泣き腫らした目に、更に涙を浮かべている。


俺を、縛らないで真衣ちゃん


「置いてかないで、千尋」
涙が零れ落ちる。
それは、いつか見た時のように、綺麗な綺麗な水の粒。
青ざめた顔が、暗い中でも嫌に白くて。


俺から逃げて、真衣ちゃん。


「…………何のこと?」
「私を、嫌いになった、千尋……?」
俺のシャツを掴む手は、頼りなくて、けれど、強くて。


それ以上言ってはいけない。


「……そんなこと、あるわけ、ないでしょ」
「なら、なんで……っ!」
堪えきれなくなった激情があふれるように、涙が次から次へと零れ落ちる。
体全部で俺を引きとめようとする。


言ったら、俺は。


「俺達は、姉弟なんだから、嫌いになんて、なるはず、ない」
そう、姉弟なんだから。
どんなに疎ましくても、どんなに願っても。
変えられない事実。


だからお願い、真衣ちゃん、それ以上言ったら。


「あの女の人のせい?」
「……………」
姉が知っていた事に、軽く驚きを覚える。
何も返せない俺に、姉は更に取りすがる。
「だったら別れて!私、いや!あんな年上の人が妹になるなんていや!」
思わず笑ってしまうほど幼い文句。
なりふり構わない、姉の醜い姿。
けれど、姉が嫉妬している。
俺と付き合っている女に、嫉妬している。
背筋に、ゾクゾクとしたものが走った。
それは、イッてしまいそうなほどの、快感。


馬鹿だね、真衣ちゃん。


「千尋、言った!傍にいてくれる、って言った!言った!」
「……………」
「置いてかないで!ずっと傍にいて!私を見捨てないで!」
みすぼらしく、俺にすがりつく哀れな女。
俺を縛り付けて、俺に縛り付けられて。
憎らしくて、嫌いで、可哀想で。
そして、何より愛しくて。


俺は、あんたを、放せなくなる。


昔から変わらない、声を出さずにしゃくりあげるようにして泣く姉。
その様子に、床に押さえつけて更に泣かしたくなる凶暴な衝動が生まれる。
それと同時に、甘やかしてどろどろに優しくしたくなる。

それはどちらも、俺の本心。


結局、俺は、逃げ切ることは出来なかった。


「馬鹿だね、真衣ちゃん」
ため息を、ついた。
心からの言葉。
しゃがみこんで、姉を優しく抱きこむ。
怯えか、安堵か、びくりと体を震わせる。
しゃくりあげた姉が、喉につまるような変な声をあげた。

「俺は、ずっと真衣ちゃんの傍にいるよ」

顔が歪んだ。
苦しかった。
哀しかった。

「………本当?」
自分で、檻の中に入り込んだ、哀れな獲物。


本当に、馬鹿だね、真衣ちゃん。


「当たり前でしょ。俺は、真衣ちゃんの弟なんだから」

もう一度心に刻み込む。
俺の中の絶対のもの。


「真衣ちゃんは、俺が守るよ」

それは誓い。
それは絶対のもの。
当然であって、正しいもの。
そのために俺はあって、そのために姉はいるのだと。
そう、なんのためらいもなく感じていた自分。


それが間違いであったとしても、もう俺は止まれない。


腕の中の体が、安心したように力をぬいた。
見上げて微笑むその顔は、俺がなによりも好きなもの。
俺の大切な宝物。

「大好きだよ、真衣ちゃん」



***




その日は、姉と久しぶりに一緒に寝た。
俺より大きな、けれど貧相な体は頼りなく、温かで、懐かしい匂いがした。
安心しきったように、俺の腕の中に納まる体温。
あどけない寝顔。安らかな寝息。
浮かぶ欲望と、大きな安心。

「どうしようもなく、大好きだよ、真衣ちゃん」

頬が、濡れた感触がした。
俺は泣いていた。

それでも俺は嬉しかった。
姉が俺にすがりついた事に。
堪えきらないほど、喜びを感じていた。

「ずっと、傍にいるよ、真衣ちゃん」

もう俺は逃げられない。
逃がす事も、できない。





BACK   TOP   NEXT