千尋と、距離を置いてみる事にした。
束縛しない、ようにした。

命令しない。
わがままを言わない。
一緒に寝ない。
無視しない。

普通の姉弟のように。
仲がよくて、少し仲が悪い。

そんな、姉弟になろうと思った。



***




「で、どうよ、計画は。無事進行中?」
「どうにかこうにか進行中。おはよ白菜」
「今度は鍋シリーズですか」
いつものように軽口を叩いて、恒例になったお昼の一時。
昼食は一緒にとったりとらなかったり。
けれど必ず、根木はここにきた。
それが負担になっているわけではないようだし、その他の時間は私にかまわない。
それは居心地のいい、距離だった。

私はいつものように、眼鏡の男のためにベンチの半分をあける。
根木はいつものように、自然にその場に座った。
どこでもその場の中心になるような千尋とは違う、どこでも自然と溶け込める男。
「それはよかった」
「やってみれば、結構いけるかも」
「後は、清水に男でも出来れば完璧なんじゃない。弟依存症も直るかも」
「男ね……。私もてないし」
「俺とかどう?」
いつものようになんでもない口調だったので、一瞬聞き逃しそうになった。
「は?」
思わず間抜けな声がでる。
そして、ようやくいつもの冗談なのだろうと思い至る。
そういうことに耐性のない私は、真に受けてしまった。
ちょっと、恥ずかしい。
赤くなった頬を隠すように、根木とは反対の方を向いた。
「そうだな。私みたいなうるさい小姑がいないんだったらいいよ」
「あ、マジ?俺、兄貴しかいないし。母親放任だし。問題ないない」
ああ、やっぱりいつもの悪ふざけか。
勘違いした自分が恥ずかしいけど、安心する。
そして、どこか少し落胆した気持ちを覚える自分に驚いた。
笑って、根木に向かいあった。
「あー、でも顔と性格変えて、金持って出直して」
「それ俺じゃないし!愛はあるから!」
「愛じゃ食べていけないし」
「なんて現実的な!」
根木はオーバーリアクションでショックを表現する。
この男といると、楽しい。
自然と、笑う事が増える。
声を上げて笑っていると、ふと根木の表情が改まる。
「で、マジなわけなんだけど」
唐突な転換に、またもついていけない。
「え?」
「いや、かなりマジなわけだけど」
「は?」
「I LOVE YOU」
「馬鹿?」
「ひでえ!何?尾崎熱唱のほうがいい?」
「暑苦しいからやめて」
その軽いテンポに流されそうになるけれど、ようやく頭に入ってきた。
つまり、根木は。
「私に、告白してるわけ?」
「そうそう。付き合って、てこと」
「マジ?」
「大マジ」
レンズの奥の目は、真剣だった。
ばかばかしい言葉と違って、笑っていない。
からかわれているのではない、と分かった。
「なんで?」
「なんで、って言われても、好きだから?」
「私、人に好きになってもらえるような奴じゃない」
ひねくれていて、根暗で、人付き合い悪い。
顔も見るに耐えないという訳ではないが、いいわけではないし、頭も中の下で、しかも根木風にいうなら超ブラコンだ。
人に好かれる要素は、これっぽっちも見当たらない。
「いやまあ、確かにあんまり人好きする奴でもないと思うけど」
「じゃあ、なんで」
「うーん、困るな。そのちょっとヤバめなキャラがツボだったというか」
「なにそれ」
「恋に理由なんてないさ!」
軽い口調。軽い言葉。
けれど、目だけはアンバランスに真剣。
私は、唇を強く強く噛む。
ベンチのはがれた塗料を、更にはぐように爪を立てる。
「でも……私は、嫌」
「ぐは!」
根木は胸を押さえて苦しいように、うつむく。
「ちょ、直球だなあ」
「だって、私、根木に嫌われるのやだ」
「え」
「勝手に失望されるのは、嫌」
「ちょ、ちょっと?」
「この人は、私の傍にいてくれるかも、て期待して裏切られるのは嫌」
地面を見たまま、私は胸の中のもやもやとしたものを口にする。
期待して、裏切られた。
期待されて、裏切った。
結局傍にいてくれたのは、千尋だけだった。
今、根木を失ってしまったら、また千尋を縛り付けてしまう。
なんとかやっていけてるのは、根木がいるからだ。
「今、根木がいなくなったら、私、また千尋に依存しちゃう」
ほとんど叫ぶように、けれどかすれて小さな声で、訴えた。
興奮した頭は、ぼんやりともやがかっている。
隣の、猫背の男が見れなかった。
「えーと、清水さん。それはどういうこと?なんでいきなり裏切る裏切らないの話になっちゃうの?」
「だって、皆そうだった」
「へ?」
「お父さんも、お母さんも、友達も、好きになった人も、好きになってくれた人も、みんな私を離れていった。」
「………どういうこと?」
男が、私の前に回り込む。
しゃがんで私に目線を合わせる。
胸の熱さが、そのまま目に伝染する。
頬に、熱いものが伝った。
「み、みんな、一緒にいてくれた人が、私のこと、嫌になって行っちゃうの。私は、ずっと、置いてかれちゃうの」
しゃくりあげて、聞き取りにくい声。
子供のような口調。
冷静などこかでは、自分の今のみっともなさをあざ笑っている。
そして、こんなウザい自分を根木が嫌いになるんじゃないかと、恐れている。
「何も、言わないで……、急に、冷たくなって……、いなくなっちゃって」
根木が手を押さえてるから、顔を覆うことが出来ない。
逃げることが出来ない。
ああ、根木にこんなに頼ってしまう気はなかったのに。
あの優しい距離を、保っていたかったのに。
「根木が、いなくなるなんて、やだ」

急に、目の前が真っ白になった。

それが、根木のシャツだと気付くには、数秒必要だった。
「ね、ぎ……?」
「俺は、嫌いにならないよ」
弟の優しい腕ではない、力強い、少し苦しいほどの腕。
「いや、まあ男女の事だし、いつかは嫌いになるとかもあるかもしれないけどさ」
いつもどおりの、どこか客観的で突き放した言葉。
けれど優しい。
押し付けられた胸は、鼓動が早かった。
私も、同じように早いのだろう。
「でも、今は好きだし、急に嫌いになることはないから」
「ほんとに……?こんな、ウザイ奴でも……?」
「いやー、ウザイっていうか、今かなり熱烈な告白に萌えポイント急上昇なんですけど」
「え……?」
「根木君がいなくなったら私死んじゃう!根木くん好き好き!」
「馬鹿」
思いっきり冷たく、そう言ってやった。
それが、根木の、優しさに答えることだろうから。
声が、少し震えてしまったけれど。
根木の体が小刻みに揺れて、笑ったのが分かった。
けれどまだ、心臓の動きは早かった。

胸に押し付けられた顔が、ゆっくりと持ち上げられた。
私の顔は、涙と、もしかしたら鼻水も出ているかもしれない。
かなり、情けない顔をしていると思う。
根木がゆっくりと顔を近づけて、頬をなめた。
「ね、俺にしときなよ。自分で言うのもなんだけど、結構な好物件だと思うから」
「………ばーか」
頬に何度か軽くキスを落とした後、静かに唇に柔らかいものが触れた。
人とこんな風に触れ合うのは、初めてだった。
優しくて、少し気持ち悪くて、嬉しい。
ドキドキする、というより安心した。
千尋とだって、こんな事したことない。
そこまで考えて、笑ってしまった。
当たり前だ、弟とこんなことをするわけにはいかない。
私はやはり、どこかおかしい。
「なーに、笑ってるのかな、清水さん」
目を開けると、細いフレームの眼鏡。
好奇心と、苦笑を浮かべてこちらを真っ直ぐに見ている。
「ううん、私、やっぱヤバイな、と思って」
「うん、ヤバイよね。だから俺にしときなって」
根木の言葉は不思議だ。
胸に、自然に落ちてくる。
この人が、とりあえずは傍にいてくれるというのなら。
それなら、ここで頷いてもいいのだろうか。
少なくとも根木は、いきなり、いなくなったりはしないだろう。
「……ねぎ……」
口を開こうとしたその時、聞きなれた、声が聞こえた。

「真衣ちゃん」

大きくはない、けれど、通りのいい声がその場に響いた。
柔和な声には、どこか苛立った響がある。
後ろからだから、姿は確認できないが、間違いなく弟の声だった。

「清水弟のおでましか」

いつも好奇心にあふれたその声が平坦になる。
ゆっくりと、根木が私の前からどく。
慌てて振り向くと、思ったより近くに穏やかな弟の姿があった。
「真衣ちゃん、やっぱりここにいたんだ」
にっこりといつものように優しく笑っている千尋。
けれど、目が、笑っていない。
後ろから肩に置かれた手に、なぜか体が震えた。
「ち、ひろ……?どうして、ここに……?」
千尋がこの場所を知っているのは意外ではない。
前に一度、付いてきた事がある。
けれど学校で一緒にいるのは嫌だったから、ここにはくるなと告げた。
それ以来、忠実に私の言葉を守る千尋は、ここに現れることはなかった。
「ああ、ちょっと真衣ちゃんに用事があって探してたんだ」
「そう……」
まだ、頭が働いていない。
なぜか少し、後ろめたい気分になる。
千尋の交際は邪魔しておいて、1人だけ根木と仲良くしていたのに罪悪感を覚えるのだろうか。
「なんの、用?」
自分でも、どこか呆けた声だと思う。
そうか、私は動揺しているのか。
「それより真衣ちゃん、この人は?」
そう言って、乱れのない笑顔で根木に顔を向ける。
根木が自分を指さした。
「俺?」
「はい、見たところ、先輩のようですが」
「はーい、俺はお姉さんとクラスメートの根木って言いまーす」
こちらも変わらずおちゃらけている。
私が、口を挟む隙を見失ってしまった。
「そうですか、いつも姉がお世話になっています」
「うん、噂にたがわぬ優等生っぷりだね、清水弟」
「清水千尋です」
「そうそう、千尋君。お姉さんから噂はかねがね」
私を挟んで、会話が繰り広げられる。
なんだろう。
どこか、違和感を感じる
2人とも、にこやかで、普通に会話している。
けれど、冷たい。
いつもの2人らしくなかった。
「俺は、真衣ちゃんから根木さんの事を聞いた事はなかったです」
「へー、2人だけの秘密だったのかな、ね、真衣?」
「え?」
急に振られても反応できない。
それに、根木が急に名前で呼んだのも、反応できない一因だった。
肩に置かれた千尋の手に、力が入る。
「い、いた、痛い!千尋!」
「あ、ごめん」
慌てて手を離す千尋。
ベンチに座ったまま振り返ると、千尋は見たこともないような厳しい顔をしていた。
「ちひろ……?」
普段からは考えられないことだが、千尋が私を無視する。
その険しい目は、私の向かいにいる根木に向かっていた。
「根木さん、真衣ちゃんとは親しいんですか?」
「いや、親しいっていうかなんていうか……」
千尋の低い声に、根木は相変わらず明るい声だ。
一旦言葉を切った後、急に私に抱きついた。
突然の事に、私は声がでない。
「お姉さんとお付き合いさせてもらうことになりましたー」
胸にぎゅうぎゅうと押し付けられる。
反論する事も、話す事もできない。
「んー!んー!!んーーー!!!」
「そんなに喜ばないでよ、ハニー。言ってるだろ、愛してるよ」
馬鹿なことを言っている男の体を、拳で叩くが、びくともしない。
やはり男なのだと、思い知らされる。
「そう……ですか………」
背筋に、寒気が走る。
聞いた事もない、千尋の声。
怒っている、のだろうか。
顔が見えないことに、ますます不安が募る。
「じゃあ、邪魔しちゃいましたね」
「まあねー、見てたでしょ。弟君、俺らのラブシーン」
「…………真衣ちゃん、かなりわがままでしょ。家でも大変です」
「ま、ね。でもそこがかわいんだよー」
「よく知ってるんですね」
ようやく隙間が出来て、そこに腕をねじりこんで体を離す。
「ちょっと、根木!」
「はいはい、どうしたのハニー」
「あんたね!」
大体私は、まだ付き合うともなんとも言っていない。
私の意志を無視して進められる会話は、不快だった。
根木に対する不満をぶちまけようとしたその時、根木の腕の中から急に引き剥がされた。
慣れた、繊細な指が私の腕を掴んでいる。
けれどその力は、いつもよりずっと強い。
「いた、痛い、千尋……」
抗議しようと、顔をあげて、黙ってしまった。
弟の顔は、表情をなくしていた。
近頃、たまにみた表情。
けれどずっとずっと、冷たい。
怖い。
いつも優しい、穏やかな弟が、怖かった。
「千尋……」
「邪魔して悪いけど、用事あるんだ、真衣ちゃん。ちょっといいかな」
「え、千尋」
「それじゃ先輩、失礼します。姉を返してもらいます」
根木に向かって完璧な笑顔を見せる。
今はその笑顔すら、怖い。
なぜだろう。
なぜ、絶対的に安心できるはずの弟を、怖いと思うんだろう。
「貸すだけだよー。返してねー」
「真衣ちゃんはあなたのものじゃありませんから」
「じゃあ、誰のものなのかな」
「……さあ」
根木の明るい声に、千尋は張り付かせた笑顔のまま、告げた。
そうしてもう後ろを振り返らないまま、私の腕を引っ張っていく。
「ち、千尋、千尋!」
こんな弟は見たことがない。
いつだって私のことを優先させてくれた。
いつだって、私の言う事を聞いてくれた。
私の意志を無視する弟なんて、見たことはなかった。
何度呼んでも、千尋は後ろを振り向かない。
ついていくのも苦労するような、大股でどこかへ向かう。
私は思いっきり体重を後ろにかけて、それを阻害した。
「千尋!!」
千尋の動きが止まる。
ゆっくりと後ろを振り返った。
相変わらず、表情がない。
体が震える。
声が、でなくなる。
「真衣ちゃん、あいつと付き合ってるの?」
あいつ、その言葉にも違和感を感じる。
弟は、目上の人をこんな風に表現する人間ではなかった。
「………千尋?」
「あいつが好きなの?」
「千尋、放して!」
だんだんと力が強くなる手を、振り払う。
思ったより簡単に放してくれたので、私は後ろに2,3歩よろめいた。
「どう、したの……、千尋……」
「最近、真衣ちゃんの様子がおかしかったから、気になってたんだ」
「え?」
「俺のこと、避けてたでしょ」
「避けてなんか………」
「ないって」
唇をゆがめて、馬鹿にしたように笑う。
こんな男は、見たことなかった。

目の前の男は、一体誰なのだろう。

「なるほどね。男が出来たわけか」
一歩距離を縮められる。
私より大きな弟に、威圧感を感じた。
「勝手だよね、真衣ちゃん」
「え……」
「俺の幸せ、散々邪魔しておいて、今更自分だけ幸せになるの?」
「そ、れは………」
「真衣ちゃんが『かわいそう』だから、これまで我慢してあげたのに本当に勝手」
無表情だった顔に笑顔が戻る。
決して、優しいとも温かいともいえない笑顔が。
「千尋………」
「そんなあんたが」
笑みが深まる。
整った顔に浮かべる笑顔は、眩しいほど。
だから、言われた言葉を一瞬理解できなかった。


「大嫌いだよ」



***





どうやって校舎に戻ったかは覚えていない。
気がついたら、私はトイレにすがりつくようにして吐いていた。
地面が抜けるような不安。
自分がなくなってしまうような感覚。
いつか、感じた事があるような気がする。

けれど、抱きしめてくれる腕は、今はない。






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