責任感や同情で一緒にいてほしくない。 だけど何も言わずどこかへ行かれるのはイヤだ。 傷つきたくないから近づいてほしくない。 だけど寂しいから傍にいてほしい。 ちっぽけでみじめな自尊心。 臆病な心。 私は私を守るため、ずっと千尋を利用してきた。 ずっと弟に執着してきた。 結局、根木の言う事はよく分からなかった。 千尋がいるから私はやってこれたのだ。 あの完璧な弟が一緒にいてくれなければ、私はとうの昔に壊れていた。 誰にも好かれない不出来な人間のくせに根拠のないプライドだけが高くて、そのくせ1人ではいられない私。 千尋が傍にいてくれなければ、私はきっと、壊れていた。 そう告げると、根木はらしくなく眉を寄せた。 何か苦いものを口にしたような、どこかに怪我をしたような。 そんな痛ましい、どこか哀しげな複雑な表情。 あの男のそんな顔は初めてで、私は首を傾げる。 根木は一つため息をつくと、私を強く抱きしめた。 堅くて熱い胸に顔を埋める。 弟の柔らかい抱擁とは違う。 力強くて、そして優しい腕。 「まあ、しょうがないよね。ずっと一緒にいたんだし」 「何が?」 「これ以上言っても、きっと信じてもらえないだろうし、もしかしたら俺が嫌われちゃうかもしれないし」 「だから何が?」 いつも明るく朗らかな男は、本当にらしくなく大きくため息をついた。 「……根木?」 「いい機会だから、本当に弟離れしようね。真衣ちゃん」 胸に押し付けられているから、顔は見えない。 けれど、その声は少し苦いものが混じっている。 その理由は分からないが、根木の言葉には納得する。 私は千尋から、離れなければならない。 これ以上、弟を縛り付けてはいけない。 根木がいてくれるのならば、それが出来るかもしれない。 1人じゃないのだから。 この温かい腕が、あるのだから。 「私ね、千尋が嫌い」 「うん」 「千尋の隣にいると、いつもいつも比べられて、千尋が皆に好かれるの見せ付けられて、千尋の完璧さを思い知って」 「うん」 「千尋が悪いんじゃない。千尋は優しい。でも千尋の傍にいると、私、どんどん嫌な奴になる。それでも手放せなくて、また嫌な奴になって」 「悪くないねえ」 「でも私、ずっといい奴になりたかった。いい姉になりたかった。千尋を普通に好きになりたかった」 「うん」 「あのね、あんたがいてくれれば、もしかしたら、できるかもしれない」 「うん」 「だから、急にいなくならないで。イヤになったらちゃんと言って。ウザくなったらいなくなっていいから。だからそれまで傍にいて。何も言わずに、いなくならないで」 言葉にしていくうちに、胸が締め付けられて、熱くなって。 唇が震えて、声が無様に途切れた。 男の腕が更に強く私を抱きしめた。 吐息と共に耳に触れるのは、呆れたような、けれど優しく明るい声。 「相変わらず後ろ向きな考えだなあ」 「根暗だから」 「そうでした。でも、さっきから俺傍にいるって言ってるのに」 どこか拗ねたような言葉。 根木を信じていないわけではない。 たぶん、私が会ってきた人間の中で、一番、千尋同じぐらい、優しい人間。 「でも……」 「今まではそうだった?まあ、いっか。とにかく傍にいるから安心しなさい」 ため息混じりに、背中がポンポンと叩かれる。 「絶対だからね」 「はいはい、疑りぶかいなー、この人は」 軽くて、ふざけた言葉だけど、抱きしめる腕は、力強い。 完璧な弟とは違う、根木の親しみやすい人間臭さが、愛おしい。 男の腕にしがみ付いていた手に、力をこめる。 「絶対」 返事はなかった。 顎が持ち上げられて、温かいもので、唇がふさがれた。 ならば平気だ。 きっと平気。 この男がいてくれるのなら、できるだろう。 今度こそ私は、千尋を解放しなければならない。 結局午後の授業をすべてサボって、私は早々と帰宅した。 帰り道は根木と一緒で、右手に感じる大きな手が心強かった。 最後まで心配そうにしていた根木に手を振って、私は1人で家に入る。 弟は部活で、まだ帰ってはいなかった。 確かにゲロくさかったので、さっさとシャワーを浴びる。 熱いお湯を頭からかぶって、なけなしの勇気を振り絞った。 長い間、熱くて強い水に打たれて出ると、玄関が開く音がした。 玄関先には、すらりと綺麗な姿勢をした弟。 プールが室内にあるせいで、水泳部とは思えないほど色は白い。 どこかまだ少年の線を残した体は、けれど無駄のない均整な筋肉をつけていて貧弱には見えない。 見慣れた自分でも、時々見とれてしまうほど、整った顔をした弟。 「お…かえり………」 こんな風に声をかけるのも久しぶりだった。 弟にはずっとよそよそしい態度をとっていた。 擦れて震えた声は、みっともない。 「ただいま、真衣ちゃん」 けれど返って来たのは、予想外の言葉。 いつも私に向けられている穏やかで柔らかな声。 浮かんだ笑顔は隙がなく完璧だ。 無視されるかと思った。 もしくは罵られるかと思った。 でも、弟はいつもの柔和な笑顔を浮かべて近づいてくる。 長くて繊細な指が、私の濡れた髪を梳く。 「シャワー浴びてたんだ」 「え……、うん……」 私は呆けたような声しか出せなかった。 見上げた弟の顔は、優しい。 けれど、どこか、冷たい。 「午後の授業、休んだんだってね」 「うん……」 「あいつ、根木だっけ。あいつもいなかったんだよね」 「え……」 「あいつとどっかでヤッてたとか?」 千尋の声は、変わらず柔和で凪いでいる。 だから、言われた言葉の意味が、すぐには理解できなかった。 弟は優しくて、穏やかで、完璧な優等生だ。 こんな、言葉を吐く男を、私は知らない。 「ち、ひろ……?」 千尋と寝た時によくしてくれたように、長い指で優しく髪をとく。 「結構軽いんだね、真衣ちゃん。人のことはあんなに邪魔してくれたくせにね」 顔を近づけて、耳元で囁く。 低く通りのいい声は、誰よりも私を落ち着かせてくれたもの。 「千尋……」 「あいつはよかった?」 「千尋!」 たまらず声をあげる。 さっき以上に、震えていた。 もしかしたら、体も震えていたかもしれない。 千尋は楽しそうに声をあげて笑って、体を引いた。 本当に、楽しそうに。 その柔らかい笑顔は、かわらないものなのに。 「冗談だよ、真衣ちゃん。ごめんね?」 「千尋……」 私は馬鹿みたいに弟の名前を繰り返すことしかできない。 「これでようやく真衣ちゃんから解放されると思うと嬉しくてさ」 いつも、誰よりも私を優先して、守ってくれた弟。 誰よりも嫌いで、けれど誰よりも近しくて大切な弟。 「うっとおしい姉が片付いて、清々したよ」 目の前の、笑って人を切り裂く人間は誰なのだろう。 「大嫌いだよ、真衣ちゃん。もう俺に干渉しないでね?」 悪戯に首をかしげるその姿は、相変わらず綺麗で、整っていて。 私は立ちつくしたまま、泣いていた。 言葉は見つからない。 ただ、目の前の男の足元にはいつくばって、すがりつきたかった。 許しを乞いたかった。 見捨てないでくれと、無様に泣き叫びたかった。 |