目を開けると、見慣れた天井。 開きっぱなしのカーテンからは、眩しすぎるほどの朝日。 使いなれた、柔らかい手触りの毛布。 ここは、私の部屋か。 空っぽになった胃が、じくじくと痛みを訴えていた。 泣きすぎた目が、重く熱かった。 体は、腕一つ動かすのもうっとおしいほど、だるい。 頭の中が飽和状態で、何かを考えることができない。 痛む頭をそのままに、私は天井を見つめ続けた。 しばらくして、小さな電子音が響く。 そちらに目を向けると、時計の針がすでに登校してなければいけない時刻を指していた。 ああ、昨日は目覚ましを、かけ忘れたのだっけ。 昨日はいつ、ベッドにはいったのだったっけ。 昨日は。 記憶を辿ると共に、痛みが鮮やかによみがえる。 私は体を起こし、膝を抱え込んで丸まった。 顔を強く膝に押し付けなければ叫んでしまいそうだった。 あの、冷たい男は、誰。 笑いながら、楽しそうに、私を追い詰めた男は、誰。 柔らかな穏やかな、完璧な男。 私の弟だったはずの、男。 千尋のことは、誰よりも理解していると思っていた。 優しくて、穏やかで、文武両道な、非のうちどころのない、優等生。 私の言う事をなんでも聞いてくれた。 ずっと一緒にいてくれた。 守ってくれて、抱きしめてくれた。 誰よりも嫌いだった。だけど、誰よりも大切だった。 それなのに、昨日の、あの男は、誰。 あんな弟は知らない。 あんな、私に冷たい弟は、知らない。 そう思う心のどこかで、けれど納得もしている自分もいた。 千尋は、ずっと私を疎ましがっていたのだろう。 あの冷たい男が、本当の千尋だったのかもしれない。 私は、千尋のことを、何一つ分かっていなかったのだ。 昨日の夜、私をあっさりと切り捨てた弟は、みっともなく未練がましく涙を流す私に柔和に笑いかけた。 「苦しい?哀しい?真衣ちゃん?」 笑いを含んだ声で、けれど冷たい視線で。 「いい気味だね」 どこまでも穏やかに。どこまでも優しい声。 私は膝に力が入らず、その場に崩れ落ち、子供のようにしゃくりあげた。 吐くもののない胃が、痛みを訴える。 拭う暇もなく、涙があふれてくる。 どこまでも被害者面して、なんて、みっともない。 弟は、しばらく傍らに立ったまま、その様子を眺めているようだった。 私は言葉を見つけることも出来ず、動くこともできない。 ただ無様に、泣き続けるだけ。 すると、小さく丸まった私の体を、まだどこか細い腕が抱えあげた。 細いくせにしっかりとした腕は、ふらつくことなく2階の私の部屋まで運んでくれる。 その腕は、いつもと変わらず温かく、柔らかなのに。 これ以上傷つけられるのが怖くて、私は腕の持ち主を刺激しないように大人しくしていた。 されるがままにベッドに横たえられる。 私を見下ろし、髪の毛を梳く弟は、どこまでも優しかった。 「これはね、罰だよ、真衣ちゃん」 「ち……ひ、ろ…?」 「なんでこんなことになったか、よく考えてね?」 そう言って、隙のない完璧な笑顔で私の頬を撫でると、静かに部屋を出て行った。 罰だ、と千尋は言った。 混乱する頭で、その言葉だけが染み渡った。 ああ、やっぱり、と。 千尋に嫌われても憎まれても、仕方がない、と。 私が悪いのだ、と。 罰されるのは、当然だ、と。 予想していたはずの展開。 けれど胸を覆う感情は、こんなにも、苦しくて、痛い。 どこかではやっぱり千尋は許してくれるような気がしていたのだ。 優しい弟は、いつものように、笑って私を許す気が、していたのだ。 浅ましくて、みじめで、さもしくて、本当に、嫌な奴。 私はなんてみっともなくて、不出来な人間なんだろう。 気がつくと、時計の針はいつの間にか昼にさしかかろうとしていた。 いつのまに、こんなに時間が過ぎていたのだろう。 寝ていたのだろうか。寝てはいない気もする。 何かを考える事もせずに、ただうずくまっていた。 胃も眼球も頭もまだ痛くて、体はだるかった。 もうすぐ学校は昼休みだ。 ぼんやりと思い出したその単語に、1人の男が思い出された。 昼休みは、根木との時間。 近頃では、一番大切で楽しい、時間。 明るい男の声と、眼鏡の奥の好奇心に満ちた目が浮かんだ。 強張った顔の筋肉が、自然と解ける。 根木に、会いたかった。 急いでベッドを出て、顔を洗って歯を磨き、制服を身に着ける。 鏡に映る自分の顔は、ひどいものだった。 けれど、そんな事を気にしていられない。 「あら、あんたいたの?」 ダイニングにいた母に声をかけられた。 朝からいたはずなのに、私が学校に行っていない事すら、気付かないのだ。 「うん、気分が悪くて」 「そう。これから学校行くの?」 黙って頷く。 それきり、母は私に興味を失ったようだった。 体の調子を気遣う事も、学校へ行っていなかった事を咎めることもない。 相変わらず、だった。 この家で私を気遣ってくれたのは、優しい弟だけだった。 私が臥せっている時は、いつも傍にいてくれた。 その弟も、今は、いない。 また浮かんできそうになった痛みを無理矢理押さえつけ、私は家を出た。 「ひっどい顔色!」 教室には寄らず、私は直接校舎裏に向かった。 昼休みを告げるチャイムが鳴ってしばらくして、会いたかった男が姿を見せた。 「学校サボったんなら、ゆっくり家で休んでりゃいいのに」 そう言いながら、いつものベンチに近づいてくる。 明るい声と、猫背なその姿に、安堵の息が漏れた。 ずっと水の中で息を止めていて、ようやく酸素を得た時のような気分だった。 「あんたに、会いたかったの」 「うわ、出会った早々ものすごい熱烈歓迎。何々、一晩会えなくて寂しかったの」 ふざけた男は嬉しそうに、立ったまま私を頭を抱え込んだ。 根木の少し汗ばんだシャツに、顔を埋める。 ここしばらくですっかり慣れてしまった根木の匂い。 それは、落ち着くものだった。 「そうね、寂しかった」 「うわー、ヤバ。そんな事言われたら襲っちゃうって、今すぐ」 顔を押し付けて、根木の腰に手を廻す。 朗らかな男の手が、私の髪を撫でる。 ようやく、息を、つけた。 「ムードない」 「誘う方が悪いんでしょー」 いつもの軽口。ふざけた言葉。 けれど一瞬後、根木の声が真剣なものになる。 「で、どうしたの?弟君と何かあった?」 「………」 シャツを握っている手に、力をこめる。 聡い男は、最初から気付いていたのだろう。 「休んでたはずなのに、昨日よりひどい顔してるし」 「そんなに、ひどい……?」 「そりゃあもう。誘われてんのに、襲うのためらっちゃうほど」 「甲斐性なし」 「それは言わないでー」 調子のいい事ばかり言っているのに、頭を撫でる手は優しい。 どこまでもどこまでも、優しい男。 「千尋に、大嫌いって言われた……」 思ったよりも、声は冷静だった。 震えても、いなかった。 「………それはそれは」 「清々したって、もう干渉するなって」 「うんうん」 「私が泣いてたら、いい気味だって。これは罰だって」 「あー、そう来たか」 頭上で、大きなため息をついた気配がした。 「根木……?」 根木は一旦体を離すと、しゃがみこんで私の顔を覗き込む。 地面に座り込む男に、自然と私は見下ろす形になった。 そっと、堅くて大きな手に頬を包まれる。 「辛い?」 「…………」 「弟離れするんじゃないの?」 「………だって……」 眼鏡の奥の真っ直ぐな目が、どこか咎めているように感じる。 私が醜い、と言っているように感じる。 見ていられなくて、強く目を伏せる。 「だって!千尋が……千尋ずっと一緒にいるって、いるって言ったのに!ずるい!ひどい!分かってる!私が悪い!でも……でも、千尋が嫌いってっ!嫌いってっ……!」 私が悪いのだ。 分かっている。本当に、分かっている。 だけど、感情が納得しない。 ひどい、ずるいと、寂しいと、置いていかないでと自分勝手に訴えている。 その感情のまま、私はずるいずるいと子供のように癇癪を起こした。 目の前の男には、本当にみっともないところばかり見られている。 彼の好意を利用して、醜い感情をぶつける。 この男が、ちょっとの事では私を見捨てないと、そう分かっているから。 どこまでも、打算的な自分に吐き気がする。 そしてやっぱり、予想通りこの猫背な男は受け止めてくれた。 「本当にそれはひどいねー」 いつものようにどこか突き放した軽い調子で、そう答えた。 おそるおそる目を開くと、そこにはいつものように好奇心をたたえた目。 真っ直ぐにこちらを見て、苦笑している。 「自分で言っておいて、いきなり手を放すなんて、ひどいよね。分かる。それはひどい。怒って当然。約束破りにはアンパンチだ!」 私の頬を包んだまま、そんな事を言う。 本当に、ふざけた男。 親身になっているようには、思えない。 けれど、だからこそ、胸に自然と落ちてくる。 目の前の男の言葉は、本当に不思議。 「清水弟君はマジひどい奴だよ」 「千尋が……ひどい…?」 「うんうん、最悪だね。嘘つきは泥棒の始まりだね」 したり顔で、さも真剣そうに何度も頷く。 醜い心を吐き出した心は少しすっきりしていて、目の前の男は楽しくて。 なので、私は少し笑ってしまった。 眼鏡の男と話していると、いつだって自分の悩みがちっぽけなものに思えてくる。 「お、笑った」 「……あんたって、不思議」 「ふ、愛の笑顔お届け人と呼んでくれ。君に涙は似合わないよ」 「………ばーか」 ひどい、といつものようにオーバーリアクションでショックを表現する。 私はまた自然と頬が緩む。 数分前からは考えられないほど、心は軽くなっていた。 大きく息をつくと、重苦しかったものが出て行くような気がした。 「私って、ダメだ」 「なんで?」 「千尋から離れようって何度も決心してるのに、こんな風に、すぐにダメになる」 「それが、清水弟の狙いでしょ?」 「え……?」 何を言われたのか分からなくて、私は首をかしげた。 根木は、もう一回ゆっくりと立ち上がって、私を優しく抱きしめた。 根木のシャツに顔を埋めると、男の顔が見えない。 「そんな風にすれば、清水は、弟の事しか考えられなくなっちゃうでしょ」 「……え…?」 「昨日俺、告白したばっかりだったよね?それで清水はOKした」 根木の声は、平坦だ。 「それだったら、昨日の夜は、もう根木君たらっ恥ずかしい!みたいな感情で夜は俺しか考えられないはずだ」 馬鹿なことを言っているはずなのに、声は真剣で、私は軽口を叩くことすらできない。 「だけど、清水、昨日の夜は何を考えてた?」 「え………?」 問いかけに、頭が真っ白になる。 昨日。 昨日の夜は。 「俺のこと、いつ思い出した?」 静かに言葉を重ねる根木に、私は返す言葉がない。 根木を思い出したのは、ついさっきの事。 時計に、促されるまでは、この男のことを思い出しもしなかった。 私の頭をずっと占めていたのは、ただ1人だった。 「根木……私……」 押し出した声は、なぜか震えていた。 ああ、体が震えているのか。 訳のわからない感情が浮かんできた。 けれど見てしまってはいけない気がして、それを奥深くに沈めた。 目の前の男のシャツを握り締めてくしゃくしゃにする。 私の見えない位置で、大きなため息の気配。 「まあ、思い出して、こうして来てくれただけでもいいけどね」 いい、といいながら、どこか苦いものが混じる。 いつも明るい男の、低い声。 「根木……、怒ってる?」 「ちょっと」 その言葉に、胸が締め付けられた。 怖かった。 千尋に去られ、この男に見捨てられたら、私はどうしたらいいのだろう。 けれど根木は私の背中を優しく叩く。 「他の男の事で泣きつかれるのはねー。泣くんだったら、俺の事にして」 「嫌いにならない……?」 臆病な私は、言葉にしてもらえないと、怖くて仕方がない。 男の優しさに付け入って、温かい言葉を強要する。 「………」 けれど、予想していた返事はない。 不安にかられて顔を上げると、根木は私ではないく、私の後ろを見ていた。 性格に言うなら、私の後方の上。 私の腰掛けているベンチの後ろにあるのは、校舎。 表情のない、怖い顔。 「根木……?」 どこを見ているか分からない根木に更に不安を煽られ、声をかける。 ようやく、根木が私を見た。 視線があって、根木の変わらない目に安堵する。 根木はもう一度、大きなため息をつくと、にっこりと笑った。 子供のような、無邪気な笑顔で。 「大丈夫。まだまだ好きだから」 そうして、腰を屈め、唇に優しく触れる。 言葉とキスに、どうしようもなく落ち着いた。 嬉しくて、涙が出てくる。 一つ涙がこぼれると、根木がそれを吸い取った。 根木の温もりが放れた後も、私は目を瞑っていた。 「うわー、怖」 「根木……?」 場違いな声に目を開けると、根木がやはり私の後ろを見ていた。 「マジこえー」 「根木?」 再度問いかける声に、根木は私を強く強く抱きしめる。 「なんつーか、微妙にホラーだよな」 「根木!」 苦しいほどの強い力に嬉しくなりながらも、訳のわからない事を言う根木に私は抗議の声を上げる。 根木は、しばらくして、ようやく解放してくれた。 「一体何よ?」 「いやー、ほらあそこ」 根木は私の後方を指差す。 その指を辿って後ろを振り向いてみれば、そこは旧校舎の端。 根木が、最初に私を見たという窓。 使われていない資料室。 「それが?」 「あそこからここって、よく見えるんだよね」 「……は?」 根木は私の問いに、いつもどおりの明るく温かい笑顔を見せた。 「いや、何にも」 「根木!」 「本当になんでもないんだって」 はぐらかされたような気がして、私は軽く苛立った。 けれど男は動じず、ポンポンと肩を叩く。 それで、苛立ちが収まってしまう自分に、少し腹が立つ。 でも、目の前の男の手は、それほどに優しい。 「で、これからどうするの?」 「え?」 相変わらずの唐突な話題転換。テンションチェンジ。 根木の会話は、テンポの切り替わりが早くて、ついていけないことがある。 「弟君のこと、どうするの?」 どうしよう。 どうしたら、いいのだろう。 昨日の焦燥感と空虚感は、目の前の男のせいで少し収まった。 けれど千尋を失う恐怖感は、まだまだ私の中で強く根付いている。 「……でも、私は千尋を解放しなきゃ」 それは何度も決意した事。 根木のおかげで、踏み切れた。 弱くて臆病な私は、些細な事でこんなにも揺れてしまうけど、やっと決めることができたのだ。 「解放、ね……」 「千尋を失うのが怖くて仕方がないの。千尋が傍にいなくなってしまうのが、こんなに、怖いなんて思わなかった」 「そっか……」 千尋は嫌い。 約束を破って、嘘つきで、卑怯で、幸せで、なんでもできてずるい。 けれど優しい弟を利用して、縛り付けてきたのは私。 もっとずるいのは私。 卑怯なのは、私。 「千尋に謝る」 「え?」 ぽろりと出てきた言葉に、自分でも驚いた。 謝る、なんて、どこか幼稚な言葉。 それでも、それは本音。 「謝って、許してくれなくても、それでも今までのこと謝って、それで終わりにする」 とても幼稚で、くだらない考え。 たとえ呆れられても、もう口を聞いてくれなくても、完全に関係が断ち切られても。 想像だけで、全身が冷たくなるけど。 けれど、それで、終わりにしよう。 弟を、本当に、完全に、解放しよう。 堅く熱い体をした男の体温に促されて、もう一度、勇気を振り絞る。 これで、本当に、最後の最後だ。 しばらくして、根木がそっと話しかけてきた。 見上げると、真剣な顔をした根木がこちらを見ていた。 「ねえ、清水、俺の事好き?」 突然の質問に呆気をとられる。 「…何?急に?」 「少しでも、俺のこと好きでいてくれる?」 一瞬、いつもの軽口かと、はぐらかそうかと思った。 けれど、根木は真剣だったから、素直に、感情を口にする。 「あんたのことは、好き」 傍にいてくれるこの優しい男は好き。 不思議な言葉で癒してくれる、この男が愛しい。 「そっか、それなら、頼みがあるんだ」 「………何?」 いつでもふざけている男が、いつになく真剣に言葉を紡ぐ。 「弟には、謝らなくていい」 「え?」 「捕まっちゃうから」 言っている意味が、よく分からない。 根木は時々こうして、意味の分からないことを言う。 「あっちから離れていってくれるっていうなら、追いかけるな」 「根木………?」 「全力で逃げて」 「どういう、こと……?」 「これ以上、清水千尋に近づかないで」 根木の言葉は理解できない。 けれどその言葉を、どこかで納得している自分もいた。 |