目を開けると、見慣れた天井。
開きっぱなしのカーテンからは、眩しすぎるほどの朝日。
使いなれた、柔らかい手触りの毛布。

ここは、私の部屋か。

空っぽになった胃が、じくじくと痛みを訴えていた。
泣きすぎた目が、重く熱かった。
体は、腕一つ動かすのもうっとおしいほど、だるい。

頭の中が飽和状態で、何かを考えることができない。
痛む頭をそのままに、私は天井を見つめ続けた。

しばらくして、小さな電子音が響く。
そちらに目を向けると、時計の針がすでに登校してなければいけない時刻を指していた。

ああ、昨日は目覚ましを、かけ忘れたのだっけ。

昨日はいつ、ベッドにはいったのだったっけ。

昨日は。

記憶を辿ると共に、痛みが鮮やかによみがえる。
私は体を起こし、膝を抱え込んで丸まった。
顔を強く膝に押し付けなければ叫んでしまいそうだった。

あの、冷たい男は、誰。
笑いながら、楽しそうに、私を追い詰めた男は、誰。

柔らかな穏やかな、完璧な男。

私の弟だったはずの、男。



千尋のことは、誰よりも理解していると思っていた。
優しくて、穏やかで、文武両道な、非のうちどころのない、優等生。

私の言う事をなんでも聞いてくれた。
ずっと一緒にいてくれた。
守ってくれて、抱きしめてくれた。

誰よりも嫌いだった。だけど、誰よりも大切だった。



それなのに、昨日の、あの男は、誰。
あんな弟は知らない。
あんな、私に冷たい弟は、知らない。


そう思う心のどこかで、けれど納得もしている自分もいた。
千尋は、ずっと私を疎ましがっていたのだろう。
あの冷たい男が、本当の千尋だったのかもしれない。

私は、千尋のことを、何一つ分かっていなかったのだ。



***




昨日の夜、私をあっさりと切り捨てた弟は、みっともなく未練がましく涙を流す私に柔和に笑いかけた。

「苦しい?哀しい?真衣ちゃん?」

笑いを含んだ声で、けれど冷たい視線で。

「いい気味だね」

どこまでも穏やかに。どこまでも優しい声。

私は膝に力が入らず、その場に崩れ落ち、子供のようにしゃくりあげた。
吐くもののない胃が、痛みを訴える。
拭う暇もなく、涙があふれてくる。
どこまでも被害者面して、なんて、みっともない。

弟は、しばらく傍らに立ったまま、その様子を眺めているようだった。
私は言葉を見つけることも出来ず、動くこともできない。
ただ無様に、泣き続けるだけ。
すると、小さく丸まった私の体を、まだどこか細い腕が抱えあげた。
細いくせにしっかりとした腕は、ふらつくことなく2階の私の部屋まで運んでくれる。
その腕は、いつもと変わらず温かく、柔らかなのに。

これ以上傷つけられるのが怖くて、私は腕の持ち主を刺激しないように大人しくしていた。
されるがままにベッドに横たえられる。
私を見下ろし、髪の毛を梳く弟は、どこまでも優しかった。

「これはね、罰だよ、真衣ちゃん」
「ち……ひ、ろ…?」
「なんでこんなことになったか、よく考えてね?」

そう言って、隙のない完璧な笑顔で私の頬を撫でると、静かに部屋を出て行った。



罰だ、と千尋は言った。

混乱する頭で、その言葉だけが染み渡った。
ああ、やっぱり、と。

千尋に嫌われても憎まれても、仕方がない、と。
私が悪いのだ、と。
罰されるのは、当然だ、と。

予想していたはずの展開。
けれど胸を覆う感情は、こんなにも、苦しくて、痛い。
どこかではやっぱり千尋は許してくれるような気がしていたのだ。
優しい弟は、いつものように、笑って私を許す気が、していたのだ。

浅ましくて、みじめで、さもしくて、本当に、嫌な奴。
私はなんてみっともなくて、不出来な人間なんだろう。



***




気がつくと、時計の針はいつの間にか昼にさしかかろうとしていた。
いつのまに、こんなに時間が過ぎていたのだろう。
寝ていたのだろうか。寝てはいない気もする。
何かを考える事もせずに、ただうずくまっていた。
胃も眼球も頭もまだ痛くて、体はだるかった。

もうすぐ学校は昼休みだ。
ぼんやりと思い出したその単語に、1人の男が思い出された。

昼休みは、根木との時間。
近頃では、一番大切で楽しい、時間。

明るい男の声と、眼鏡の奥の好奇心に満ちた目が浮かんだ。
強張った顔の筋肉が、自然と解ける。

根木に、会いたかった。

急いでベッドを出て、顔を洗って歯を磨き、制服を身に着ける。
鏡に映る自分の顔は、ひどいものだった。
けれど、そんな事を気にしていられない。

「あら、あんたいたの?」
ダイニングにいた母に声をかけられた。
朝からいたはずなのに、私が学校に行っていない事すら、気付かないのだ。
「うん、気分が悪くて」
「そう。これから学校行くの?」
黙って頷く。
それきり、母は私に興味を失ったようだった。
体の調子を気遣う事も、学校へ行っていなかった事を咎めることもない。
相変わらず、だった。

この家で私を気遣ってくれたのは、優しい弟だけだった。
私が臥せっている時は、いつも傍にいてくれた。

その弟も、今は、いない。

また浮かんできそうになった痛みを無理矢理押さえつけ、私は家を出た。



***




「ひっどい顔色!」

教室には寄らず、私は直接校舎裏に向かった。
昼休みを告げるチャイムが鳴ってしばらくして、会いたかった男が姿を見せた。
「学校サボったんなら、ゆっくり家で休んでりゃいいのに」
そう言いながら、いつものベンチに近づいてくる。
明るい声と、猫背なその姿に、安堵の息が漏れた。
ずっと水の中で息を止めていて、ようやく酸素を得た時のような気分だった。

「あんたに、会いたかったの」
「うわ、出会った早々ものすごい熱烈歓迎。何々、一晩会えなくて寂しかったの」
ふざけた男は嬉しそうに、立ったまま私を頭を抱え込んだ。
根木の少し汗ばんだシャツに、顔を埋める。
ここしばらくですっかり慣れてしまった根木の匂い。
それは、落ち着くものだった。
「そうね、寂しかった」
「うわー、ヤバ。そんな事言われたら襲っちゃうって、今すぐ」
顔を押し付けて、根木の腰に手を廻す。
朗らかな男の手が、私の髪を撫でる。
ようやく、息を、つけた。
「ムードない」
「誘う方が悪いんでしょー」
いつもの軽口。ふざけた言葉。
けれど一瞬後、根木の声が真剣なものになる。
「で、どうしたの?弟君と何かあった?」
「………」
シャツを握っている手に、力をこめる。
聡い男は、最初から気付いていたのだろう。
「休んでたはずなのに、昨日よりひどい顔してるし」
「そんなに、ひどい……?」
「そりゃあもう。誘われてんのに、襲うのためらっちゃうほど」
「甲斐性なし」
「それは言わないでー」
調子のいい事ばかり言っているのに、頭を撫でる手は優しい。
どこまでもどこまでも、優しい男。
「千尋に、大嫌いって言われた……」
思ったよりも、声は冷静だった。
震えても、いなかった。
「………それはそれは」
「清々したって、もう干渉するなって」
「うんうん」
「私が泣いてたら、いい気味だって。これは罰だって」
「あー、そう来たか」
頭上で、大きなため息をついた気配がした。
「根木……?」
根木は一旦体を離すと、しゃがみこんで私の顔を覗き込む。
地面に座り込む男に、自然と私は見下ろす形になった。
そっと、堅くて大きな手に頬を包まれる。
「辛い?」
「…………」
「弟離れするんじゃないの?」
「………だって……」
眼鏡の奥の真っ直ぐな目が、どこか咎めているように感じる。
私が醜い、と言っているように感じる。
見ていられなくて、強く目を伏せる。
「だって!千尋が……千尋ずっと一緒にいるって、いるって言ったのに!ずるい!ひどい!分かってる!私が悪い!でも……でも、千尋が嫌いってっ!嫌いってっ……!」
私が悪いのだ。
分かっている。本当に、分かっている。
だけど、感情が納得しない。
ひどい、ずるいと、寂しいと、置いていかないでと自分勝手に訴えている。
その感情のまま、私はずるいずるいと子供のように癇癪を起こした。
目の前の男には、本当にみっともないところばかり見られている。
彼の好意を利用して、醜い感情をぶつける。
この男が、ちょっとの事では私を見捨てないと、そう分かっているから。
どこまでも、打算的な自分に吐き気がする。

そしてやっぱり、予想通りこの猫背な男は受け止めてくれた。
「本当にそれはひどいねー」
いつものようにどこか突き放した軽い調子で、そう答えた。
おそるおそる目を開くと、そこにはいつものように好奇心をたたえた目。
真っ直ぐにこちらを見て、苦笑している。
「自分で言っておいて、いきなり手を放すなんて、ひどいよね。分かる。それはひどい。怒って当然。約束破りにはアンパンチだ!」
私の頬を包んだまま、そんな事を言う。
本当に、ふざけた男。
親身になっているようには、思えない。

けれど、だからこそ、胸に自然と落ちてくる。
目の前の男の言葉は、本当に不思議。

「清水弟君はマジひどい奴だよ」
「千尋が……ひどい…?」
「うんうん、最悪だね。嘘つきは泥棒の始まりだね」
したり顔で、さも真剣そうに何度も頷く。
醜い心を吐き出した心は少しすっきりしていて、目の前の男は楽しくて。
なので、私は少し笑ってしまった。
眼鏡の男と話していると、いつだって自分の悩みがちっぽけなものに思えてくる。

「お、笑った」
「……あんたって、不思議」
「ふ、愛の笑顔お届け人と呼んでくれ。君に涙は似合わないよ」
「………ばーか」
ひどい、といつものようにオーバーリアクションでショックを表現する。
私はまた自然と頬が緩む。
数分前からは考えられないほど、心は軽くなっていた。
大きく息をつくと、重苦しかったものが出て行くような気がした。
「私って、ダメだ」
「なんで?」
「千尋から離れようって何度も決心してるのに、こんな風に、すぐにダメになる」
「それが、清水弟の狙いでしょ?」
「え……?」
何を言われたのか分からなくて、私は首をかしげた。
根木は、もう一回ゆっくりと立ち上がって、私を優しく抱きしめた。
根木のシャツに顔を埋めると、男の顔が見えない。
「そんな風にすれば、清水は、弟の事しか考えられなくなっちゃうでしょ」
「……え…?」
「昨日俺、告白したばっかりだったよね?それで清水はOKした」
根木の声は、平坦だ。
「それだったら、昨日の夜は、もう根木君たらっ恥ずかしい!みたいな感情で夜は俺しか考えられないはずだ」
馬鹿なことを言っているはずなのに、声は真剣で、私は軽口を叩くことすらできない。
「だけど、清水、昨日の夜は何を考えてた?」
「え………?」
問いかけに、頭が真っ白になる。

昨日。
昨日の夜は。

「俺のこと、いつ思い出した?」

静かに言葉を重ねる根木に、私は返す言葉がない。
根木を思い出したのは、ついさっきの事。
時計に、促されるまでは、この男のことを思い出しもしなかった。

私の頭をずっと占めていたのは、ただ1人だった。

「根木……私……」
押し出した声は、なぜか震えていた。
ああ、体が震えているのか。
訳のわからない感情が浮かんできた。
けれど見てしまってはいけない気がして、それを奥深くに沈めた。

目の前の男のシャツを握り締めてくしゃくしゃにする。
私の見えない位置で、大きなため息の気配。
「まあ、思い出して、こうして来てくれただけでもいいけどね」
いい、といいながら、どこか苦いものが混じる。
いつも明るい男の、低い声。
「根木……、怒ってる?」
「ちょっと」
その言葉に、胸が締め付けられた。
怖かった。
千尋に去られ、この男に見捨てられたら、私はどうしたらいいのだろう。
けれど根木は私の背中を優しく叩く。
「他の男の事で泣きつかれるのはねー。泣くんだったら、俺の事にして」
「嫌いにならない……?」
臆病な私は、言葉にしてもらえないと、怖くて仕方がない。
男の優しさに付け入って、温かい言葉を強要する。
「………」
けれど、予想していた返事はない。
不安にかられて顔を上げると、根木は私ではないく、私の後ろを見ていた。
性格に言うなら、私の後方の上。
私の腰掛けているベンチの後ろにあるのは、校舎。
表情のない、怖い顔。
「根木……?」
どこを見ているか分からない根木に更に不安を煽られ、声をかける。
ようやく、根木が私を見た。
視線があって、根木の変わらない目に安堵する。
根木はもう一度、大きなため息をつくと、にっこりと笑った。
子供のような、無邪気な笑顔で。
「大丈夫。まだまだ好きだから」
そうして、腰を屈め、唇に優しく触れる。
言葉とキスに、どうしようもなく落ち着いた。
嬉しくて、涙が出てくる。

一つ涙がこぼれると、根木がそれを吸い取った。

根木の温もりが放れた後も、私は目を瞑っていた。
「うわー、怖」
「根木……?」
場違いな声に目を開けると、根木がやはり私の後ろを見ていた。
「マジこえー」
「根木?」
再度問いかける声に、根木は私を強く強く抱きしめる。
「なんつーか、微妙にホラーだよな」
「根木!」
苦しいほどの強い力に嬉しくなりながらも、訳のわからない事を言う根木に私は抗議の声を上げる。
根木は、しばらくして、ようやく解放してくれた。
「一体何よ?」
「いやー、ほらあそこ」
根木は私の後方を指差す。
その指を辿って後ろを振り向いてみれば、そこは旧校舎の端。
根木が、最初に私を見たという窓。
使われていない資料室。
「それが?」
「あそこからここって、よく見えるんだよね」
「……は?」
根木は私の問いに、いつもどおりの明るく温かい笑顔を見せた。
「いや、何にも」
「根木!」
「本当になんでもないんだって」
はぐらかされたような気がして、私は軽く苛立った。
けれど男は動じず、ポンポンと肩を叩く。
それで、苛立ちが収まってしまう自分に、少し腹が立つ。
でも、目の前の男の手は、それほどに優しい。
「で、これからどうするの?」
「え?」
相変わらずの唐突な話題転換。テンションチェンジ。
根木の会話は、テンポの切り替わりが早くて、ついていけないことがある。
「弟君のこと、どうするの?」

どうしよう。
どうしたら、いいのだろう。

昨日の焦燥感と空虚感は、目の前の男のせいで少し収まった。
けれど千尋を失う恐怖感は、まだまだ私の中で強く根付いている。

「……でも、私は千尋を解放しなきゃ」

それは何度も決意した事。
根木のおかげで、踏み切れた。
弱くて臆病な私は、些細な事でこんなにも揺れてしまうけど、やっと決めることができたのだ。

「解放、ね……」
「千尋を失うのが怖くて仕方がないの。千尋が傍にいなくなってしまうのが、こんなに、怖いなんて思わなかった」
「そっか……」

千尋は嫌い。
約束を破って、嘘つきで、卑怯で、幸せで、なんでもできてずるい。

けれど優しい弟を利用して、縛り付けてきたのは私。

もっとずるいのは私。
卑怯なのは、私。

「千尋に謝る」
「え?」
ぽろりと出てきた言葉に、自分でも驚いた。
謝る、なんて、どこか幼稚な言葉。
それでも、それは本音。
「謝って、許してくれなくても、それでも今までのこと謝って、それで終わりにする」
とても幼稚で、くだらない考え。
たとえ呆れられても、もう口を聞いてくれなくても、完全に関係が断ち切られても。
想像だけで、全身が冷たくなるけど。
けれど、それで、終わりにしよう。

弟を、本当に、完全に、解放しよう。

堅く熱い体をした男の体温に促されて、もう一度、勇気を振り絞る。
これで、本当に、最後の最後だ。

しばらくして、根木がそっと話しかけてきた。
見上げると、真剣な顔をした根木がこちらを見ていた。
「ねえ、清水、俺の事好き?」
突然の質問に呆気をとられる。
「…何?急に?」
「少しでも、俺のこと好きでいてくれる?」
一瞬、いつもの軽口かと、はぐらかそうかと思った。
けれど、根木は真剣だったから、素直に、感情を口にする。
「あんたのことは、好き」
傍にいてくれるこの優しい男は好き。
不思議な言葉で癒してくれる、この男が愛しい。
「そっか、それなら、頼みがあるんだ」
「………何?」
いつでもふざけている男が、いつになく真剣に言葉を紡ぐ。
「弟には、謝らなくていい」
「え?」
「捕まっちゃうから」
言っている意味が、よく分からない。
根木は時々こうして、意味の分からないことを言う。
「あっちから離れていってくれるっていうなら、追いかけるな」
「根木………?」
「全力で逃げて」
「どういう、こと……?」

「これ以上、清水千尋に近づかないで」



根木の言葉は理解できない。
けれどその言葉を、どこかで納得している自分もいた。






BACK   TOP   NEXT