一瞬だけ、ためらった。 いや、一瞬じゃない。 ものすごく、ためらった。 でも、ここで私だけ逃げたら、私は後で、絶対、それを引きずって生きるんだろう。 後悔ばっかりの人生、後悔しそうなポイントは、分かってる。 逃げてばっかりで、何もいいことなんてなかった。 『くそ、くそくそくそくそ!くそ野郎!死ね!』 後ろ手を縛られたまま、マリカをいまだ蹴り上げている男に思いきり突進する。 肩をあてるようにして思いきり突き飛ばすと、油断していた男は面白いように転がった。 でも、それをあざ笑っている暇はない。 なんとか、ふらつく体を支えて立ったまま、マリカを見下ろす。 『マリカ、逃げよう!早く!』 お腹を抱えて丸まっていたマリカが、驚いた顔で私を見上げている。 血だらけで腫れた顔、細い手足、泥にまみれた服。 なんてみすぼらしい姿。 呆然と私を見上げるそのこけた頬に、理不尽にも苛立ってしまう。 『早く!』 うながしても、マリカは立とうとしない。 もう歩けないのかもしれない。 細い足が、腫れあがっているような気がする。 『もう!早くったら!』 でも、知らない。 ああ、もういい。 これ以上付き合ってられない。 一回は助けた。 これでおあいこだ。 これならきっと私はもう後悔しない。 だって私は助けた。 お返しはした。 だからもう、私は自分だけを助けていいはずだ。 知らない知らない知らない。 死ぬなら死ねばいい。 私は生きる。 『早くね!』 それでもとりあえずひとつ言い置いて、踵を返して逃げ出そうとする。 「どうした!?」 でも、隣から、明るい金髪の男が入ってきた。 唯一の逃げ道であるドアを、ふさがれる。 『いたのかよ!』 だったら、すぐに出てこいよ。 なんでそっちの部屋にいるんだよ。 癇癪を起して叫んでも、まったく事態は変わらない。 もういやだ。 どうして私の人生こんなんばっかり。 いやだいやだいやだ。 「お前、何をしている!」 明るい金髪の男が近づいてくる。 怖い怖い怖い、いやだ。 マリカがもう一度助けてくれないだろうか。 マリカを囮にして逃げられないだろうか。 私は死にたくない。 もう一回助けてよ。 マリカがどうなってもいいから、私は助かりたい。 「ぎ、ぐっ、ああっ!」 後ろから、高い声が、細い少女の悲鳴が聞こえる。 ああ、グレイ髪の男が、立ち上がったのか。 そうよね、すぐ立ち上がるわよね。 振り向かなくても後ろがどうなってるのか、すぐわかる。 「ヘンリッキ!?大丈夫か!」 明るい金髪の男が、おそらくマリカの後ろにいる血まみれの男を見て顔色を変える。 そして憎悪に満ちた視線を私に向ける。 何よ、私じゃない。 あいつに怪我させたのは私じゃない。 マリカよ。 マリカに言ってよ、マリカに怒ってよ、マリカを殴ってよ。 「お前!」 私の目の前に立った金髪の男が思いきり手を振り上げたのが、スローモーションに見えた。 コマ送りで振り下ろされた手が、私の頬を思いきり打つ。 そのまま、私は、ゆったりと流れる時間のまま、床に倒れこむ。 砂だらけでざらざらとして汚い床に倒れた瞬間、衝撃と痛みと時間が、一気にすべて襲ってくる。 「ああああ、ったあああっ」 頬が焼け付くように痛い。 歯がぐらつく感じがする。 鉄の味がする。 痛い痛い痛い。 「この女!死ね!」 「ぐ、っひっ」 すぐ目の前では、マリカが馬乗りになって殴られている。 鼻からも口からも血が溢れ、目も頬も腫れあがり、綺麗な顔はもう見る影もない。 背筋に寒気が走って、血の気が引いていく。 いやだいやだいやだ。 怖い。 こんな風に殴られたくない。 でも、こうなったのは、私のせい。 マリカが私を助けてくれたから、マリカはこんな目にあってる。 わかってるわかってるわかってる。 でも怖い。 逃げたい。 痛いのは嫌い怖いのは嫌い私は悪くない私は逃げていい自分が助かるのが何より大事だ。 当たり前でしょ。 私はほかの誰より私が大事。 私以外はどうでもいい。 私が幸せになるなら、いくらでも周りの人間なんて不幸になっちまえ。 『くっそ!!』 痛みをこらえて、なんとかバランスをとって、立ち上がる。 そして不安定な態勢のまま、マリカに馬乗りになってる男に頭突きをかました。 「うわ!」 男はまた無様にマリカの上から転げ落ちた。 情けなく横倒しになり肩を打って、みっともなく倒れこむ。 その姿があまりにも格好悪くてつい笑ってしまった。 『あはっ、かっこ悪い!ばっかじゃないの!何度もやられやがって、ざまーみろ!死ね!』 そして、そのまま、マリカの上に覆いかぶさった。 細くて華奢な体から、体温を感じる。 「セツ、コ………?」 マリカの細々としたみじめたらしい声が聞こえる。 そのか細い声が助けを求めてるようで、苛立ちを感じる。 「セツ、コ、だめ………」 ああ、そんな声出さないでよ。 今もこんなことしたのを後悔してるのに、余計に逃げられなくなる。 くそ、分かってやってんじゃないだろうな。 私を利用してるんじゃないでしょうね。 「この女!何度もっ!」 『何度もやられるほうが悪いんだよ、クズ!トロいんだよ!家帰ってママのご飯でも食ってろこのマザコンインポ野郎!』 マリカに覆いかぶさりながら床に向かって叫んでいると、頭をつかまれ、床にたたきつけられた。 声も出なかった。 鼻が打ちつけられて、痛みが全身に広がっていく。 涙がぼろぼろとあふれてくる。 ぬるついたしょっぱくて鉄の味がする液体が、喉にあふれてくる。 『ぐっ、かはっ』 痛い痛い痛い。 やっぱこんなことしなきゃよかった。 逃げればよかった。 マリカなんて見捨てればよかった。 『痛いっ、痛い!!!』 背中をぎりぎりと踏みつけられている感触がする。 背骨を踏みにじられて、びりびりとした痛みが走る。 『うっ、ひっく』 でも、いま逃げたら、私は、いくら助かっても、この後ずっとこのことを気にするだろう。 マリカを見捨てて逃げたと、一生気にするだろう。 いつもは忘れていても、ことあるごとに思い出すだろう。 忘れ去れるほど、心が強いわけでもない。 小心者の一般市民だ。 一生ぐじぐじと気にして、今のマリカの顔を夢で見続けるだろう。 ずっとずっとずっと。 そんなの、今後うまい酒なんて飲めやしない。 一生罪悪感と今のマリカの顔に追われるぐらいなら、いっそここで綺麗に死にたい。 どうせ後ろから明るい金髪の男が来た。 どうせ逃げられない。 どうせ死ぬ。 死にたくない。 でも、どうせ死ぬ。 それくらいなら、最後ぐらいは、後悔しないようにしたほうがいいかもしれない。 マリカより先に死んだら、きっと罪悪感も抱かない。 死に際ぐらい、綺麗にしたい。 巻き添えにして助けてくれた女の子を見捨てて逃げ出して、それなのに野垂れ死んだとか、ミカとネストリなら鼻で笑ってバカにするだろう。 死んでまでバカにされたくない。 私はバカで小心者で性格悪い。 でも、最後ぐらいは実はいいやつだったとか、思われたいわよ。 『ひっ、ひいい、ぐっ、痛いっ』 背中が踏みつけられる。 横腹が蹴り上げられる。 『ぐ、うう』 下半身に湿った感触がして、アンモニア臭が鼻についた。 痛みでいっぱいの頭なのに、それだけが嫌にはっきりと感じた。 「きたねえ、こいつ漏らしやがったぜ!」 バカにして笑る声が聞こえる。 痛い、イタイイタイイタイ。 なんでこんな目に合わなきゃいけないの。 やっぱやめておけばよかった。 痛い。 怖い。 |