「とりあえず、そこをどいてちょうだい、エリアス、ティモ=ハウッカ。近づかないから平気よ。顔が見たいだけ」 カテリナの声に二人が私の前から体を少しだけずらす。 男どもの壁の隙間から、ベッドから四歩ほど離れたほどの位置にいるカテリナの姿が見える。 出会った時から変わらない、長身で自信に満ちたクールな印象。 ブラウンの髪と薄茶の目の美女は、私をまっすぐに見て微笑んでした。 そして左手を胸の前に掲げて頭を下げた。 この前、ミカの子供達に挨拶された時と同じ、お辞儀の方法。 「申し訳なかったわ、セツコ。怪我をさせるつもりはなかったの。痛い思いをさせて、ごめんなさい。お詫びします」 私の部屋はそう広くない。 狭い部屋の中、でかい男どもがひしめき合って暑苦しい。 それなのに、なぜかひやりと背筋に寒気が走った。 今まで聞いたことのないくらい真摯な声なのに。 「な、何?どういうこと?」 なぜ頭を下げて謝罪されてるのか分からない。 あ、そういえば、私がそもそも迷子になったのは、この女のせいだった。 それに謝ってるのか。 それなら謝罪して当然だ。 見知らぬ地に一人で置いていくなんて、最低だ。 「これです」 怒りを思い出してムカムカして、なんの文句を言おうかと思っていると、隣に立っていたネストリが何かを差し出した。 それに視線を向けると、ネストリは鳥と蔦と剣の柄が彫ってあって宝石も埋め込んである、随分と高そうな綺麗なナイフを持っていた。 そういえば、あのクソ男共もこのナイフを持って、何か色々言ってたっけ。 「これ、カテリナがくれたナイフ?」 このナイフが、どうしたんだろう。 護身用の剣とか言われて、渡されたっけ。 「これは、ヴァリス***の紋章です」 ネストリが静かに説明してくれる。 えっと、紋章はこの前習ったばっかりの単語だ。 確か、ティモが持ってる剣の柄にも、刻まれた近衛兵の証があった。 でもこれは、ティモのものとは違う紋章。 「ヴァリスって、ミカの名字だから、えっと、ミカの紋章?」 「はい。あなたは王の紋章の入ったナイフを持って、市井をうろうろしてたという訳です。護衛をつけずに」 「………」 えーと。 ミカの紋章の入ったナイフを持って、市場をうろうろしてた。 あいつらは、確かマーリスとかいう、反政府組織。 そんな中、護衛もつけずに、王様のものを持った女がうろうろしてたら目立つだろう。 そもそも私はこの国では目立つらしい。 それに、一部では噂にもなっているらしい。 そんな奴が、一人で人気のないところをこれ見よがしに歩いていたら、どうなるか。 『………王様の剣?』 『はい』 『あいつらは、ミカの敵のテロな訳よね』 『はい』 ナイフをくれたのはカテリナ。 二日間に渡って市場を連れまわしたのもカテリナ。 そして、置き去りにしたのもカテリナ。 理解して、一瞬で頭に血が上った。 『なによそれええええ!!!』 叫んで諸悪の根源を睨みつけると、カテリナは頭を上げて小首を傾げた。 悪戯をとがめられた子供のように、茶目っ気たっぷりに笑う。 「ごめんなさい。こんな単純***にあっさりひっかかる馬鹿がいるとは思わなくて。私もびっくりしたわ」 ほんとびっくり、とまるで明日の晩御飯の話をするように朗らかに話す。 頭が真っ白になって真っ赤になって、とにかくめまぐるしい感情の波についていけない。 言葉が出てこない。 「セツコのデートのついでに、怪しいやつを少しぐらいあぶりだせたら幸運、ぐらいに考えてただけなのよ?ちゃんと周りには何人か見張りをつけてたし」 それからにっこりと綺麗に、それは綺麗に笑った。 「ごめんなさいね、セツコ。でも、あなたのおかげで****を二つ潰せたし、助かったわ。ありがとう」 そこまできて、ようやく言葉が口からついて出た。 『ふざけんなああああ!!!!』 カテリナにつかみかかろうとして、ベッドから飛び出す。 しかし、足にも手にも体中に力が入らず、そのまま上半身から転げ落ちる。 「きゃあっ」 床に体を打ち付けるかと思ってとっさに目をつぶる。 けれど、衝撃はやってこなかった。 ふわりと何かに受け止められる。 「大丈夫ですか?」 「………ティ、モ」 床につくギリギリで、たくましい手に支えられていた。 ありがとう、という前に、お腹に痛みが走り、肺が圧迫されて呼吸が詰まった。 「ケホッ、ケホケホ、ぐ」 鈍くてぼんやりとした痛みだが、お腹と胸が痛い。 そっと床に座らせられると、アルノもベッドから降りてきてくれる。 「セツコ、落ち着いて。君は色々なところを痛めてるんだ。気持ちは分かるが、今は興奮しないで」 「う、く」 咳き込む私の背中をそっと撫でて、優しい声で宥めてくれる。 苦しくて涙が出てくるが、その手がとても温かくて、じんわりと痛みが引いてくる気がする。 「カテリナ、あなたの謝罪には誠意を感じない」 アルノがきっとカテリナを睨みつけ、非難する。 そうだ、もっと言ってやってくれ。 こいつ、全然反省も何もしてない。 「心から悪いと思ってるのよ?」 カテリナは困ったように眉を顰めながら、近づいてくる。 そして私の前にしゃがみ込み、手を差し出す。 「大丈夫?ごめんなさい、セツコ」 その手を思いきり振り払い、そしてついでにその綺麗な白い肌を思いきり平手打ちした。 力の入りきらなかった平手は、パシリと中途半端な音がした。 『ふざけんな!!!このクソ女!馬鹿女!人殺し!最低最低最低最低!』 こいつのせいで、あんなに痛かった。 こいつのせいで、あんなに怖かった。 私が何をしたっていうのよ。 私がこいつに何をしたっていうのよ。 なんでこんな目に遭わせられなきゃいけないのよ。 「セツコ!」 エリアスの悲鳴のような声がして、体が後ろに引っ張られる。 後ろをちらりと見ると、ティモが私の体を後ろから担ぐようにして、カテリナが引き離す。 体中がまた痛むが、それ以上に怒りが強くて、あまり感じない。 エリアスは私とカテリナの間に入って、立ちふさがる。 「だから二人とも、失礼じゃない?私がまるでセツコにひどいことするみたいに」 カテリナは私が叩いた頬を撫でながら立ち上がる。 叩いたことをまったく気にしていないように、私を見て楽しげに笑う。 「そんなことしないわ。ね、セツコ?私、セツコが好きよ。勇気があって、強い女性だわ」 どの口がそれを言うんだ。 なんなんだこの女は、宇宙人か。 私の知らない言語で話してるのかってぐらい、話が通じない。 今まで色々と最低な人間には会ってきたが、その中でも断トツだ。 「ひどいことはもうしてるでしょう」 ネストリが呆れたように口を挟む。 皮肉げに笑って、いやらしい口調で言う。 「しかし、たった****を二つ潰すぐらいで民間人にこんな怪我をさせるなんて、あなたらしくない」 「言わないでマスター。反省してるわ。もう一つの方を潰すのに手間がかかってしまって」 「あなたも地方遠征で勘が鈍ったんじゃないですか?無能が張り切ると被害が大きくなるだけですよ」 「きついわね。でもまあ、言われても今回は仕方ないわ」 カテリナは口をとがらせて、軽く肩をすくめた。 そんな、ちょっとテスト失敗しちゃった、みたいな態度が余計に腹が立って仕方ない。 『なんで笑って話してんのよ!殴らせなさいよ!もっと殴らせなさいよ!私怖かったんだから!痛かったんだから!死ぬかと思ったんだから!私と同じ目に遭わせなさいよ!痛い目に遭わせなさいよ!最低、死ね、殴らせろ!』 もう一度殴りたくて、立ち上がろうとするが、ティモの手がそれを許さない。 丁寧な、けれど強い力で私の肩を放してくれない。 「落ち着いてください、セツコ様」 「離せ!離せってば!」 せめてもう一度殴らせろ。 鼻を殴らせろ。 痛かった。 鼻を打ち付けるって、あんなに痛いって知らなかった。 鼻血が出た。 喉から血が溢れてまずかった。 痛かった。 痛かった痛かった痛かった。 「セツコ、落ち着いて」 ティモの手が離れ、優しい手が私の肩を抱く。 そしてそのまま引き寄せられ、薄い肩に頭を引き寄せられる。 「アルノ………」 アルノの落ち着く匂いがふわりと私を包み込む。 優しい手が、頭を何度も何度も撫でてくれる。 「いい子だ落ち着いて。興奮しないで。分かったから。分かった。いい子だ」 「う、うー………」 悔しくて、悲しくて、恐怖が蘇って、涙がぼろぼろと溢れてくる。 どうしてみんなあの女を責めないのよ。 私がこんなに辛くて、苦しくて、怖くて、痛かったのに。 どうしてあの女はのうのうと笑ってるのよ。 あの女。 そうだ、あの女の父親が、ここにいるじゃないか。 「ミカ!どうにか、してよ!」 「あー………」 扉のすぐ隣に立っていたミカが、気まずそうに頬を何度かこする。 いつもなんだかんだで私の言うことを聞いてくれる馬鹿王は、動いてくれる様子はない。 なんだ、どうして殴ってくれないんだ。 あの女を私と同じ目に遭わせろ。 それが父親の務めだろ。 馬鹿娘のしつけぐらいちゃんとしろ。 「お父様にはすでにお仕置きされちゃったわ。ふふ、お父様に殴られるなんて久しぶりね」 カテリナは私が殴った頬とは反対の頬を嬉しそうにそっと撫でる。 そういえばそっちの頬は腫れていたっけ。 『そんなんじゃ足りない!足りない足りない足りない!もっと殴らせなさいよ!』 でも、それくらいじゃないか。 私は今、鈍いけれど鼻も頬も口の中も何もかも痛い。 不公平だ。 鏡は見ていないけれど、きっとひどいことになっているだろう。 『落ち着いてください、セツコ。頭が痛い』 ネストリの脳内会話が頭の中に響く。 『これが落ち着いていられるかっていうのと!どうしてよ!どうして!なんであの女は痛い目に遭わないのよ!』 『うーん』 困ったように首を傾げるネストリが、その後ぴんと指を一本立てた。 瞬間体中に走る、強い静電気のような衝撃。 「くぅっ」 もう馴染んだ痛みだが、決して慣れることのない、体の中から走る小さな痛み。 痛みに体の力が抜けて、倒れそうになる。 「ネストリ!なんてこと!」 「すいません、ちょっとうるさくて」 なんでこんな目に遭うんだ。 私が何をしたっていうんだ。 文句を言うことすら許されないのか。 確かに私は性格いいわけじゃないし、悪いことだってそこそこしたけど、でもこんなことされるぐらい悪いことしたっけ。 死にかけて、痛い目にあって、それで文句いったらお仕置きされるって、そんなに私、ひどい人間だったっけ。 「セツコ、可哀そうに。セツコ、いい子だ」 アルノが優しくて頭を撫でてくれるのだけが嬉しい。 涙がぼろぼろと溢れてくる。 痛いし怖いし悔しいし情けない。 「ひっく」 ミカはあの女のこと怒ってくれないし、ネストリは相変わらず最低鬼畜野郎だし、エリアスも役に立たないし、カテリナは悪魔以上の悪魔だし、もういやだ。 私の人生、なんのためにあるのかしら。 ここでこの悪魔どものおもちゃにされるためにあったわけ。 「セツコ、起きたの………?」 アルノにすがってぐずぐずと泣いていると、澄んだか細い声が聞こえてきた。 また、新しい誰かが来た。 もうこれ以上、私をいじめる奴なら来ないでくれ。 もういやだ。 疲れた。 「セツコ!」 パタパタと軽い音がして、嫌々そちらを向く。 そこには体中にも包帯を巻き、顔を痛々しく腫らしたやせっぽちの少女。 細い手足と薄い体と短い髪は、声を聞かなければ女の子だとは分からない。 「よかった」 私の隣に跪いて、くしゃりとそのパンパンに腫れた顔を歪める。 目の周りも青あざをつけて、頬を腫らして、目を背けたくなるほどひどい顔だが、その声とその顔には覚えがある。 「マリカ………?」 その名前を呼ぶと、マリカの目からボロボロと涙があふれてくる。 そして私の投げ出された足の上に頭を伏せて、しゃくりあげる。 「よかった。セツコ、よかった」 「マリカ………」 自分も危ない状態で、私を助けてくれようとして、ひどく殴られて、それでも私を心配してくれていた女の子。 見捨てて逃げようとすらしたのに、マリカはただひたすら、私の膝で泣いている。 罪悪感とか、満足感とか、なんか色々な感情で、胸がちくちくと痛む。 「あのね、セツコ」 マリカが顔を上げて、痛々しい顔を、それでも笑顔に歪めて言った。 「助けてくれて、ありがとう」 私はそこまで悪い人間ではないと思う。 でも、決していい人間では、ない。 だから、胸がちくちくと、痛む。 |