『ちょっと、ねえ!』 杖をずりずりと引きずって必死に部屋に戻る。 慣れはしたけど、時間がかかるし体力も使う。 今もトイレに間に合わないかと思った。 朝から治療のために訪れていた悪魔は、椅子に腰かけてお茶を啜っていた。 「はい?」 『赤いおしっこ出たんだけど、赤いおしっこ!血!血!トイレで気絶しそうになったんだけど!生理で血には慣れてるけど、赤いおしっことかありえないんだけど!なにこれ、何!?赤いブルーレットとか見たことないんだけど!どういうこと!やだ、なにこれ!血便はあるけど、おしっことか初めて!生理でドバドバ血が出んのはいいんだけど、おしっこって何!』 生理の時に赤黒い血がドバドバ出るのは全然かまわない。 慣れてる。 でも、血尿なんて今までなったことない。 危うくトイレで座り込むところだった。 「セツコ、一応私も男なんですけど。女性はもっと慎みを持った方がいいと思います」 『知るか!』 ネストリが眉をひそめて不快そうにしているが、知るか。 つか今更すぎだろ。 人のプライベートをパパラッチも真っ青なレベルで完膚なきまでに曝け出させておいて、今更何が男だ。 お前なんて人類としてもカウントしてない。 「ひどいですね」 「どっちがだ」 ネストリはふっとため息をつく。 「とりあえず座ってください。体に障る」 確かにそれはそうだ。 またずりずりと杖と体を引きずってなんとかベッドに座る。 ていうか、手伝えよ、人類外でも一応雄なら。 『内臓を痛めてますからね。その関係でしょう。しばらくすればおさまると思います』 内臓を痛めてる、か。 ショックに頭が横から殴られた気分だ。 聞いた話によると、肋も折れて、内臓もやや痛み、足もヒビが入っているそうだ。 術で痛みを鈍くしてるそうだから今はあまり感じないが、今度痛むこともあるかもしれないってことだった。 「………う、うう」 涙がジワリと浮かんでくる。 三十路すぎて傷の治りが遅いのに何してくれてるんだ。 こんな大怪我、今までの人生でしたことなんてない。 ていうか殴られたことなんてほとんどない。 もういやだ。 こんな、命の危険を感じるような場所は、もういやだ。 「………私、やっぱり帰りたい」 「ふむ」 ネストリはじっと私を見ている。 特に驚いた様子はない。 私の心の動きがすべて分かるし、言い出すことは分かっていたんだろう。 「この世界怖い。私、死ぬ、嫌。帰る。帰りたい」 あそこではこんな痛い目も怖い目も遭わない。 世界も驚くほどの日本の治安の中で生まれた私には、こんなサバイバルな世界は合わない。 死ぬのは嫌。 怖いのは嫌。 痛いのは絶対に嫌。 この世界は、やっぱり嫌。 「あなたの世界があなたを必要としなくても?」 ネストリが綺麗に笑いながら、そんなことを聞いてくる。 確かに私はあの世界には必要とされていないだろう。 そんなことは知っている。 私がいなくても、会社は回る、友達もすぐに忘れる、お父さんとお母さんは、悲しむかもしれない。 でも、この世界でだって、いてもいなくても同じ存在だ。 『そう言ったのは、あんたよ、ネストリ。それにだったら、両親がいるあの世界がいい』 顔が見たい。 少なくとも、私を愛してくれてる人たちがいる。 それだけで、あの世界は何よりも尊い。 お父さんとお母さん以外、それほど大事じゃないってのが、本当にむなしいんだけど。 でも友達もいる、同僚もいる、上司も後輩もいた。 細いつながりでも、そこにはつながりが存在した。 「まあ、そう言われてもこの前のチャンス逃したんで、確実なのは三年後になりますが。ああ、あと二年半ぐらいですかね」 後、二年半。 この前帰ろうとしたのは、この世界に来てから確か四か月ぐらい後だったはずだ。 後一、二か月で、私はこの世界にきて一年になるのだ。 「………っ」 考えないようにスルーしていたことを、認識してしまった。 一年も失踪していた。 もう、どうしようもないかもしれない。 確かにここと違って命の危険はない平和な国だ。 でも、一度ドロップアウトした人間を許してくれる優しい世界でもない。 私がもし未成年とかだったら、まだチャンスはあったかもしれない。 だいたいこういう異世界に行っちゃうようなファンタジーって、未成年だし。 あいつらはまだ未来があるわよね。 一年ぐらいのロスなんて、巻き返せる。 そもそも、異世界に来てる間は歳とってませんでした、みたいなオチもあるわけだし。 でも、私はもうそんな歳じゃない。 その上、そんな生易しいオチなんて用意してくれてないのは、なんとなく分かる。 もう下手したら水商売も風俗ですら危うい歳だ。 そうしたら、どうやって生きていけばいい。 帰りたい。 でも、帰るのが怖い。 どんどん、帰れなくなってる。 「いやー、すいませんね。ほかに方法があったら勿論もっと早くできますけどね」 「早くしろ!」 「鋭意努力はしてますよ」 鋭意努力も検討するも前向きに考えるも、全部答えは一緒、できません、だ。 ああああ、もう本当にどうして私はこんなことになっちゃったわけ。 普通に生きてただけなのに。 本当にただただ平凡な人生送ってただけなのに、なんでこんなクソな世界来ちゃったわけ。 「クソ世界ですか。アルノはいいんですか?」 「………アルノ、は」 アルノ。 この世界に残されたただ一つの希望。 アルノと別れるのは、確かに嫌だ。 アルノがいるなら、この世界にいても、いいかなと、たまに思ってしまう。 でも、まだそこまで思いきりもできない。 「ああ、それと、そうだ」 ネストリがふいに顔をあげて、ドアの方に視線を向ける。。 「何よ」 つられてそちらを見ると、同時にノックされた。 思わずびっくりしてしまう。 「ちょうどよかった。どうぞ、入ってください」 ネストリが柔らかく許可を出す。 ていうかここ私の部屋なのに、なんであんたが取り仕切ってんだよ。 なんて思ってるうちに遠慮がちにドアが小さく開いた。 恐る恐る部屋の中を覗き込んできたのは、線の細い少女だった。 「マリカ、どうぞ」 「は、はい」 もう一度ネストリが促すと、ようやく少女が入ってくる。 頬を腫らして唇にかさぶたができている痛々しい顔。 でも、私よりもまだダメージが少なかったようで、軽やかな足取りで入ってくる。 「セツコ様!」 そして私の顔を見て、満面の笑みを浮かべた。 腫れあがっている顔は正直不細工だけど、でも自然と愛らしいと思えた。 「あ、マリカ。もう大丈夫?」 「うん。セツコ様も平気?」 「平気よ」 まあ、全然平気でもなんでもないんだけど、マリカに言っても仕方ない。 彼女は私を守ろうとしてくれた、優しい女の子だ。 マリカは私の傍まで近づいてくると、そわそわした様子でうつむいた。 「あの、セツコ様、王様のお友達だったんだね。失礼なことして、ごめんなさい」 失礼なこと、何かされたっけ。 マリカ以外の人間には腐るほどされたけど。 まあ、王様の友達だったらビビるのは仕方ないか。 「ああ、全然。私は、普通の人間」 「許してくれるの?」 「いや、許すとか、違くて。私、偉い人、違う」 私は単なるこいつらの被害者なだけで、別にVIPでもなんでもない。 でもそれを説明するのも、私には語彙力が足りない。 マリカは不思議そうに首を傾げている。 「セツコ、マリカをあなた付きの人間にしようかと思っています」 「はい?」 なんだそれは。 まったく聞いてないぞ。 付き人って、私は大物芸能人か。 付き人どころかマネージャーも必要としてないんだけど。 『今は陛下も私たちも割と余裕がありましたが、これから少し忙しくなりそうです。あなたの相手と世話をしてくれる人間がちょうどほしかったんです』 『はあ?別にいらないわよ。ノーラもエミリアもいるし』 『あの二人は別に仕事もあります。四六時中一緒という訳ではない』 いや、どっちにしろ四六時中一緒にいてほしいなんて思ってない。 そりゃ退屈だけど、そんな大層なものつけられても困る。 メイドさんですら、扱いに困っているのだ。 その上こんな年端もいかない女の子を付き人とか、罪悪感とかいろいろ浮かびそうだ。 『友人って考えてください。あなたも一人で暇でしょう?勉強もサボりそうですし。マリカは簡単な文字しか読めないそうなので一緒に勉強しておいてください』 『いや、だからさ。つかマリカの両親は?』 友人としても歳が離れすぎていて妹ていうか娘レベルじゃないか、この子。 あ、ぐさってきた。 そもそも、未成年だろうし、親が許さないだろう。 『彼女の両親は亡くなりました。あの家で遺体が見つかりました』 「え………」 『まあ、死んだ方が彼女のためにはよかったような親だったみたいなんですが、それはおいておいて』 なんだそれは、聞いてないぞ。 そんな重い話をされても困る。 他人の重い話なんてワイドショーとか噂話で聞くぐらいでちょうどいい。 身近な他人の重い話なんて、聞きたくもない。 私は自分で精いっぱい。 『あなたが身元引受人になってくれれば、彼女はここに置きます。ならなければ、また処遇を考えなければいけませんね』 『ええ!?ていうか私は自分の面倒も見れないような人間よ!?人の面倒なんて見れないわよ!?』 『まったくもってその通りです。むしろ面倒を見てもらうのはあなたの方でしょう』 うるせーな。 『まあ、身寄りはないし、まだ若いので彼女に関してそれなりの責任はおってもらいますけど。ただ、あなたの世話というのが、彼女の仕事として一番今ふさわしいんです』 ふわしいって言われても。 身元引受人とか本当にそういう責任はいらないんだけど。 『え、と、私が、断ったら?』 『どうしましょうかねえ』 ネストリは試案するように視線を天井に向けた。 ていうかやめてよ。 そういう責任を私に押し付けるのやめてよ。 私、権利は大好きだけど、責任とか義務とかは大嫌いなの。 「えっと、マリカ、えーと」 ここはひとつ穏便に、マリカから断ってもらおう。 そうだ、自分が言うのが嫌な時は、相手から嫌って言ってもらう。 それが正しい日本人の姿。 「はい!」 ああ、笑顔が眩しい。 そんな明るく笑わないで。 「ここに、いてもいいの?やりたいこと、ない?」 「ないです。ここにいたいです」 きっぱり言われた。 どうしよう。 「その、家、帰らないで、いい?」 「帰る家もないですから」 そうだったー。 私、すげー無神経だ。 うわ、マジ消えたい。 「あの、あのね、私の世話なんて、嫌じゃない?」 そうよ、こんな三十路民間人の世話なんて嫌でしょ。 王家とか高貴な人間だったらまだしもね。 けれどマリカはふるふると頸を横に思いきり振る。 「セツコ様が嫌じゃなければ、傍にいたいです。ここにいたい」 そして真剣な目で私をまっすぐに見つめる。 「セツコ様と一緒にいたい」 そんなキラキラした目で言われても、本当に困る。 えーと、なんで私こんなに好かれてるわけ。 なんかしたっけ。 見捨てて逃げようとしたんだけど。 いや、結果的にかばったけどさ。 うわ、どうしよう。 『どうしますか、セツコ?』 そんなのこっちが聞きたい。 『あなたが断ったらそれなりに考えますが、彼女の年齢ではもう施設に入れることはできないので仕事してもらうことになります。今はどこも人では足りないので、働くのは容易です。ただ、まあ、仕事の中で一番楽なのはあなたの世話でしょうね』 いや、ほら、人間楽しちゃダメでしょ。 若いころはそれなりに苦労しないと。 楽な方ばっかりにいってると、碌な大人にならない。 私みたいにね。 『身寄りもなく、か弱そうな子ですから、辛く当たられるかもしれませんねえ。病み上がりですし』 いや、でも、ほら。 「セツコ様。セツコ様は、嫌?私、傍にいるの嫌ですか?」 マリカが悲しそうに大きな目に涙を浮かべて私を見ている。 やめて。 そんな捨てられた犬のような目をしないで。 「い、いいわ」 あー、言っちゃったー。 やっちゃったー。 日本人は押しに弱いのよ。 押し切られると、つい頷いちゃうのよ。 途端にマリカの顔が晴れ晴れと輝く。 「ありがとう!ありがとうございます!私、頑張りますね!」 にこにこと笑うマリカは本当にかわいらしい。 頑張るって、何を頑張るんだ。 絶賛ニートの私の付き人って、生粋のニートになる気か。 「………ネストリ」 「はい」 ネストリはただいつものように笑顔を浮かべている。 『覚えてろよ』 『はい、二年半後まできっちりと記憶しておきます』 異世界で、ひとつ、責任をおった。 |