「よく来たわねー鈴鹿ちゃん、久しぶり!」 「お久しぶりです」 鈴鹿のじいちゃんの家でぽつぽつと世間話なんかをしていると、いつものように仕事を終えた母さんが勝手に上がりこんでくる。 鈴鹿が来た時に2家合同でメシを食うのが、なんとなく習慣化していた。 「鈴鹿おねえちゃんひさしぶりー!」 「純君、ひさしぶりー、また大きくなったね!」 そして、母さんの後ろから小さな影が飛び出してくる。 よく見慣れた、俺に似た黒い髪、黒い目。 油断のならないこの弟は、座っていた鈴鹿の胸に抱きついていく。 殴りてえ。 「でしょー?鈴鹿おねえちゃんもまたかわいくなったね」 「う、わあ…あ、相変わらず純君は口がうまいなあ、もう……」 そういいながら満更でもなさそうに顔を赤らめ頬を緩める。 俺は我慢が出来なくなって、人のものに勝手に抱きついてる小さな体の首根っこを掴んで引き剥がす。 「何すんだよ、兄ちゃん」 「うるさい」 「自分が抱きつけないからって、男のしっとはみにくいぞ」 小さな声で、周りに聞こえないようにぼそりと漏らす。 ………。 殴った。 「いってー!!!兄ちゃんのバカ!」 「やかましい、どこで覚えてくるんだ、そんな言葉」 近頃とみに生意気になっていく第一次反抗期気味な弟をもう一発殴って黙らせる。 こまっしゃくれたことばかり言うくせに、すぐに目に涙を浮かばせる。 「兄ちゃんなんて、嫌いだ!ばか!アホ!」 「お前に嫌われても痛くもかゆくもない。さっさと宿題やれ」 「鈴鹿ねえちゃんー!」 助けを求めるように、困った顔でこちらを見ていた鈴鹿に再度抱きつこうとする。 更に一発追加。 本気で油断ならない。 「しゅ、駿君、そんなにバカスカ殴らなくても…」 誰のせいだと思ってるんだよ。 大体お前は隙が多すぎなんだよ。 誰彼かまわらず触らせてるんじゃねえ。 「近頃生意気なんだよ、そいつ」 「心せまいよね、兄ちゃん」 もう一度拳を握ると、純太はムカつくことに鈴鹿の後ろに隠れた。 兄弟のいない鈴鹿は兄弟ゲンカの対処が分からずに俺と純太に視線を彷徨わせる。 そんな様子を見ていた母さんがカラカラと面白そうに笑う。 「放っておけばいいのよ、鈴鹿ちゃん。ごめんなさいね、馬鹿な息子達で」 「あ、いえ、そ、そんなことは。あ、そうだ、純君、ほら彼女は元気?」 話を逸らすように、自分の背中に張り付いてる純太に話しかける。 純太は小首を傾げて不思議な顔をする。 「彼女、誰のこと?」 「え、ほら、この前夏休みに来た時に…」 「夏休み?美奈ちゃんのことかな。でも美奈ちゃんは彼女じゃないよ。今一番好きなのは彩ちゃん、でも祥子ちゃんもかわいいんだよね」 「………え?」 「もちろん鈴鹿姉ちゃんは、ずっとずっとかわいいけどね!じゃ、俺宿題とって来る」 そう言って鈴鹿のほっぺたにかわいらしく音をたててキスをすると、純太は俺の横をかけていく。 すり抜けざま、俺の耳にだけ届く小さな声でぼそりと一言落としていく。 「鈴鹿おねえちゃん、結構胸おおきいね」 そうして、古い廊下が壊れそうな足音をたてて家から出て行ってしまった。 「え、あ、え、え、え?」 「…………」 鈴鹿はほっぺたを押さえると顔を赤らめて、あたふたとしている。 なんか、激しくムカついた。 「いたい!なんで殴るの?」 「うるさい!」 隙が多いのは十分悪い。 鈴鹿があんなにやすやすと触らせてしまうのが悪い。 だから俺は悪くない。 鈴鹿が悪い。 にしても純太の奴は絶対しめる。 ずっと楽しそうに笑って眺めていた母さんが、俺に近づいて耳元で囁く。 「あんた、本当に弟に負けてるわよ。このまんまじゃ純に取られちゃうわよー」 「うるさい!」 振り払うように後ろに殴りつけた腕は、空を切った。 「じゃあ鈴鹿ちゃん、大学へ行くの?」 「はい、保母さんの資格とりたいから取れるところに」 「ほお、鈴鹿ももうそんな歳なんだなあ」 「やあねえ、おじいさん、鈴鹿ももう高校2年生ですよ」 「じゃあ、勉強大変なんじゃない?」 「うーん、塾とバイトと部活の往復で、確かに結構大変かな」 「ねえちゃん、忙しいんだあ」 食卓を囲んでの、和やかな会話。 それは見慣れた風景。 いつもだったら、鈴鹿と一緒にメシが食えるだけで、嬉しくて心が温かくなった。 それなのに、今はなんだか居心地が悪い。 「バイトなんかしてて大丈夫なの?」 「体にだけは、気をつけろよ」 「ううん、私丈夫なのがとりえだし、こっちくるのにお金必要だし」 「それぐらい、じいちゃんが出してやるぞ」 「や、そんなつもりじゃないの!いいの、バイトやるの楽しいし」 そう言って眉を下げて笑う鈴鹿。 俺の好きな間抜けな犬みたいな、笑顔。 思ったよりずっと将来のことを考えて、そして頑張っている。 実は、結構努力家なのは知っている。 間抜けだから、あんまり報われているように見えないだけで。 でも、鈴鹿は、頼りなくて、間抜けで、ちょっと馬鹿で、俺が守ってやらなくちゃいけなくて。 心に、もやもやしたものが積もっていって、息が苦しくなる。 食べているものの味が分からない。 ただ噛んで、飲み込む。 そして交わされる会話を黙って聞き続ける。 「しっかりしてるわね、鈴鹿ちゃん」 「そ、そんなことないですよ!」 母さんの感心したような声に、照れたようにパタパタと手を振る鈴鹿。 そう、しっかりしている。 知っていたはずだ、鈴鹿は実は頑固で、芯が強い。 小さい頃だって、どんなに怒鳴っても文句を言っても、ついてきた。 「じゃあ、鈴鹿姉ちゃん、こっちにくるために無理してるの?」 「え、いや、そうじゃないよ!」 純太の無邪気な問いかけに、それを否定する鈴鹿に、とうとう我慢が出来なくなった。 乱暴にテーブルに手を付いて、立ち上がる。 黙って食器を持つと鈴鹿の焦った声が背中にかかる。 「しゅ、駿君?」 「ご馳走様。俺、先に家に戻ってる」 「え、ちょ、駿君!?」 その気遣うような、慌てた声が癪に障る。 俺は後ろを振り向くこともせずに、足早に居間を立ち去った。 そのまま本当に家に帰った俺は、静まりかえる自室で何するでなく転がっていた。 むき出しの蛍光灯が眩しくて、顔を腕で覆う。 目を強くつぶって、光を遮った。 「くそっ」 自分の大人気ない態度に、自己嫌悪がつのる。 ガキみたいだ。 感情がセーブできない。 しっかりしていて、大人みたいに冷静。 いつも俺が言われている言葉。 なのに、こんな感じの悪い態度を取ってしまった。 分かっている。 鈴鹿は悪くない。 俺がガキなだけだ。 誰かしっかりしてるって。 誰が大人みたいだって。 誰が鈴鹿を守ってるんだ。 俺はまだ中1で、バイトなんかできない。 受験だってない。 ケータイだって母さんのだ。 小遣いだって母さんに貰って、養ってもらっている身分。 結局、鈴鹿に負担をかけている自分。 どんなに俺が偉そうにしても、結局は鈴鹿のほうが先に大人になる。 鈴鹿はずっと大人だ。 守る必要なんて、ない。 守ってるつもりになっていた、恥ずかしさ。 守れない情けなさ。 自分の小さな手が、小さな体が、4つの歳の差がもどかしい。 「せめて、同い年だったら…」 何度も考えて、考えても仕方ないことだと、何度も考えるのをやめた。 それでもやっぱり出てくる、打ち消せない願い。 一緒に、大人になっていきたい。 せめて、対等で、いたい。 「駿君…?」 そんな時に、いきなり舞い込んできた声に、驚いて身を起こす。 目を開くと、ふすまのところで所在無さげに不安げに立っている鈴鹿。 「す、鈴鹿!?」 「ご、ごめんね、ノックしたんだけど返事なくて!」 古びたふすまはノックをしても音を吸収してしまう。 考えに没頭していたせいで、聞き逃してしまったんだろう。 「だからって、勝手に入ってくんな」 「ご、ごめんね、ごめんね」 違う、そんなことが言いたいんじゃない。 泣きそうな顔で謝る鈴鹿がかわいそうだ。 心が痛む。 でも、まだ、鈴鹿には会いたくない。 行き所のない苛立ちが、次から次へと浮かんでくる。 「で、なんか用?」 反省したばかりなのに、そんな言葉が口から出てきてしまう。 ああ、本当にガキみたいだ。 「あ、え、その、駿君、怒ってたみたいだし……」 ごめん。 本当に、ごめん。 鈴鹿を泣かせそうになっている。 痛む心。 それなのに、募る苛立ち。 「なんでもない」 「で、でも…」 「なんでもないってば!」 荒げた声に、びくりと体を震わせる。 怯えた小動物のような仕草に、更に汚い言葉を投げつけたくなる。 違う、違うんだ。 こんなことがしたいんじゃない。 「……ごめん」 息を大きく吸って、吐く。 心にたまった黒くもやもやしたものを、一緒に吐き出してしまうように。 少しだけ、心が軽くなった気がする。 そしてようやく、謝罪の言葉を口にすることが出来た。 「う、ううん、ご、ごめんね」 「別に…鈴鹿は悪くない」 「で、でも……」 「いいんだってば!」 また大きな声をあげると、鈴鹿はくしゃりと顔を歪めた。 ああ、本当に俺、何やってんだ。 それでも鈴鹿は健気に唇と噛んで涙をこらえて、誤魔化すように辺りを見渡す。 「な、夏休みに来た頃と、そんなに変わってないね、部屋」 そんな白々しい話題転換。 気を使われていることにイライラしながら、それでも話が変わってことにほっとする。 「…そんなにたってないだろ」 「そ、そうだよね」 そう言って、部屋に入ってくる。 正直、今はあんまり一緒にいたくない。 それでもうまい言葉が浮かばず、黙ってそれを見守っていた。 鈴鹿も俺の苛立ちを感じているのか、こちらには来ようとせず、何気なく部屋の隅に向かう。 隅には、母さんのお下がりの和ダンスがある。 鈴鹿のじいさんの家と負けず劣らず古いこの家は、収納スペースが少ないので、タンスが2つほど部屋にあった。 小さなタンスの上には、雑貨が色々とのっている。 ティッシュや、アルバム、どっかのみやげ物のこけしとか。 「……っ、ちょ待て!!」 「え!?」 自然な仕草で、タンスの上を覗こうとしていた鈴鹿を急いで止める。 驚いて動きを止める鈴鹿に、俺は立ち上がり駆け寄る。 腕をひっぱって、タンスから引き離した。 「ちょ、しゅ、駿君?」 「そっちに行くな!」 ティッシュなんかの雑貨に混じって、そこに置かれているのは母さんから貰ったアレ。 結局付き返すことが出来なく、放りだしてあったのだ。 あんなもん、見られてたまるか。 「駿君、なんか今日、変だよ!」 「う、うるさい!」 「何かあるんだったら、ちゃんと話してよ!」 さすがにこの理不尽な状況に腹が立ったのか、俺の腕を振り払って向かい合う。 眉をさげて、泣きそうな顔をしながら、それでも怒りで顔を赤らめていた。 「………」 「ね、どうしたの?駿君?」 変わらない目線から、まっすぐに覗きこんでくる。 その真っ直ぐな目が見ていられなくて、俺は逃げるように視線を下げた。 そして飛び込んでくる、鈴鹿の胸元。 『鈴鹿おねえちゃん、結構胸おおきいね』 そんな純太の生意気な声。 朝、鈴鹿を支えた時の柔らかい感触。 ふわふわとして、温かくて、弾力があって。 顔に血が上ってくる。 『しっかりやんなさいよ』 母さんのからかうような声。 タンスの上の、小さな箱 鈴鹿の胸元から無理矢理視線をそらすと、頭を振って変な考えを追い出す。 そんな俺に、鈴鹿が心配そうに屈みこんで目を合わせてくる。 「駿君?」 「う、うるさい!勝手に部屋に入ってくんな!出てけ!」 「え。え!?」 無理矢理鈴鹿の手を引っ張って、部屋からたたき出す。 ふすまが開けられないように、押さえて、座り込む。 焦ったような鈴鹿の声がふすま越しに響く。 「ちょ、駿君!駿君!?」 「うるさい!!」 何度も俺の名前を呼んで、ふすまを叩く。 でも俺が一度怒鳴りつけると、静かになった。 しばらくふすまの外で立っている気配がしたが、俺があける様子がないのが分かると、静かな足音が去っていった。 鼻をすする音が聞こえて、鈴鹿を傷つけたことを知った。 ふすまに、鈴鹿の温もりが残っている気がする。 自分で追い出したくせに、その温もりが名残惜しい。 情けなさが、更に俺に襲い掛かる。 「何、やってんだ、俺……」 自己嫌悪で、つぶれそうだった。 |