眠れない夜を過ごした。 何にもできない自分がもどかしくて。 埋められない年齢さが悔しくて。 守ってやる、なんて口だけだ。 どんなに偉そうにあいつの上位に立とうとしても、結局ガキな俺は許されているだけだ。 結局あいつが、大人なだけだ。 そして、傷つけた。 ガキな自分が嫌になって鈴鹿に当り散らして、更にそれがガキ臭くて自己嫌悪だ。 自分が馬鹿すぎて、殴りつけてやりたい。 ふすま越しに鼻をすする音が、耳に残ってる。 きっと傷ついた。 傷つけた。 なんで俺は本当にこんなガキなんだろう。 自分の感情がセーブできない。 溜め込んだ上に、爆発して、コントロールができない。 背が伸びて、手足が伸びて、ようやく鈴鹿に追いつけたと思った。 でも全然だめだ。 全然足りない、何もかも、足りない。 年齢も、金も、背丈も、力も、余裕も。 鈴鹿を守るためには足りなすぎる。 何が守るだ、調子に乗るにもほどがある。 恥ずかしくて、いたたまれなくて、もどかしくて、悔しくて、自己嫌悪で。 白々と朝日が窓から差し込むまで、俺はほとんど一睡もできなかった。 「あら、早いわね。おはよう。あんたひどい顔ね」 結局うとうととするだけで眠れないことを悟った俺は、起き出して台所へ向かった。 台所では土曜も仕事に向かう母さんが、朝食の用意をしようとしているところだった。 「うるさい」 「やあねえ、男のくせに朝機嫌が悪いとか」 「こんな時だけ男女差別するな」 いつもは男だとか女だとか関係ないとか言ってるくせに、こんな時だけ男扱いだ。 俺は母さんを睨みつけてから冷蔵庫を開ける。 牛乳をコップに注いで一口のんだ。 「まあ、あんたが男とはいえないわよねえ。ガキっちく八つ当たりして彼女泣かして」 「ぶはっ」 口に含んだ牛乳を思い切り噴き出す。 母さんはそんな俺をみて、汚いわねと一言言って味噌汁の具の葱を刻む。 俺は口の周りを拭いながら、先ほどの言葉につっこもうとして失敗した。 「な、な…何を…っ」 「かわいそうに鈴鹿ちゃん、泣いてたわよ。あーあ、やだやだこんな甲斐性のないガキが私の子供だなんて」 「…………っ」 咄嗟に何かを言い返そうとして、でも言い返せなかった。 ふすま越しに聞こえた、震えた声が耳の奥に蘇る。 「さっさと謝りなさいよ。後になるほど気まずいわよ」 「うるさい!」 その声はどこか心配げな色が混じっていたけれど、的を得ているだけ余計に悔しくて、俺はそう言い捨てて乱暴にグラスを置くと、台所を後にした。 勢いで家を飛び出して、寝巻き代わりのジャージのまま辺りを歩く。 冬の訪れの早いこの街は、朝の空気に身震いするほどの冷気を含んでいた。 半そでのシャツから出てるむき出しの腕に鳥肌が立つ。 それでも今は風の冷たさが冷静さを取り戻してくれる気がして、心地よかった。 大きく息を吸って、吐き出す。 冬の突き刺すようなものとは違う、どこか柔らかい冷たさが胸を少しだけ軽くしてくれた。 怒りと焦り。 それが過ぎ去った後に残るのは、後悔とか情けなさとかむなしさとか。 舗装されていないあぜ道を、目的もなくふらつく。 辺りは田んぼや畑に囲まれて、のどかでけれど何もない風景。 俺はこの街が嫌いではない。 冬の寒さも、夏の真っ直ぐな陽射しも、ガキの頃駆け回った山も、泳いだ川も。 生まれ育った馴染んだ場所。 離れたくない友達も沢山いる。 そして、鈴鹿に会えた街。 大切な、場所だ。 でも、たまに、この街がたまらなく嫌になる。 鈴鹿から遠い場所。 都会に住む鈴鹿には、きっとつまらない場所。 退屈で、変化のない風景。 目新しく、刺激的なものなんて何もない。 今はたまに来るだけだから珍しくて楽しくても、きっと飽きてしまう。 来てくれなくなってしまってたら、どうしたらいいんだろう。 俺に、飽きてしまったらどうしたらいいんだろう。 鈴鹿との4年の差。 縮まらない差。 鈴鹿は、俺が知らない世界を持ってる。 俺が見ている世界よりもずっとずっと、広くて、沢山の人がいて、遠い。 魅力的なものだって、いっぱいあるだろう。 こんなちっぽけな街や、俺のことなんて飽きてしまうかもしれない。 追いかけたくても、追いかけるだけの力もない。 金もない。 情けなくて、仕方ない。 一度沈み始めた気持ちは、底が見えないほど落ちていく。 せめてもっと近かったら。 すぐにでも、会える距離にいたら。 そしたら、追いかけられた。 いつだって、想いを伝えて、触れて、捕まえることが出来た。 何度も何度も何度も考えて。 不安になって。 もどかしくて。 苦しくて。 悲しくて。 なんで俺はこんな苦労しなくちゃいけないんだって繰り返し嘆いて。 でも、諦められなくて。 なぜかって考えると、それはとても単純で。 鈴鹿が、好きだから。 それでも鈴鹿が好きだから。 ずっと一緒にいたくて、あいつを守りたくて。 ずっと傍で笑っていて欲しかった。 だから、精一杯努力しようって、思った。 強くなって、あいつが頼れる、立派な男になろうって。 あいつが余所見なんて出来ないぐらい、かっこいい男になってやろうって。 そう何度も思ったんだ。 何度も繰り返し自分に問いかけて、何度も同じ答えを自分に出す。 頭悪いな、俺。 変わらない答えを、繰り返し考える。 いなくなってほしくないなら、つなぎとめる努力を。 飽きて欲しくないなら、自分がもっといい男になればいい。 それだけの話だ。 気が付くと、結構遠いところまで来ていた。 日は随分と高くなって、空気が暖かくなっている。 俺はその場に立ち止まると、自分の顔を両手で思い切り殴った。 本当に、馬鹿馬鹿しい。 俺は本当に、馬鹿だ。 そうだよ、あんなボケボケした女、俺以外の誰が守れてるっていうんだ。 今は確かに俺はまだまだ力はないけれど、すぐに追いつく。 追いついてみせる。 絶対に、できる。 こんなところで、何やってんだろ。 今回鈴鹿と一緒にいれるのは、たったの3日。 すでに1日たってしまった。 こんなところで立ち止まっていられない。 こんなことで、鈴鹿を泣かしていられない。 俺はもう一度顔を殴ると、勢いよく回れ右して、走り出した。 家に帰ると、すでに会社にいったらしく母さんはいなかった。 決まりが悪くて、まだ顔を合わせてなくなかったらほっとした。 居間にいくと、起き出してきたのか純太がテレビを見ていた。 何も言わずに通り過ぎようとすると、純太がこちらを見てぼそりと声をかけた。 「鈴鹿姉ちゃんが兄ちゃんの部屋にいるよ」 一瞬、心臓が跳ね上がる。 動揺を表に出さないように努力しながら、俺はああ、とかうんとかそんなはっきりしない言葉を返した。 純太はありがたいことに、それきり何も言わずにテレビに視線を戻した。 とりあえず、この場から去るために足を進める。 ここで立ち止まっていたら、生意気な弟に何を言われるか分かったもんじゃない。 ちょっとだけ、逃げ出してしまいたい。 泣きそうな顔の鈴鹿に合うのは、辛い。 情けない自分を暴露して謝るのは、なんともいえない恥ずかしさだ。 それでも、謝らないと、始まらない。 大して広くない家は、考え事している間にもすぐに自室に辿り着いてしまう。 ふすまの前で、一回大きく深呼吸をした。 「…鈴鹿?入るぞ」 一瞬だけ考えて、やっぱり声をかけてゆっくりとふすまをひいた。 部屋の奥に突っ立っている鈴鹿の姿があった。 俺が入っても、振り向かない。 やっぱり傷ついているのかと、少しだけ怯む。 嫌がる足をしかりつけて、鈴鹿に近づく。 「鈴鹿?」 もう一度声をかけると、ようやく振り返る。 「…え」 振り向いた鈴鹿は、涙目だった。 そこまでは、分かる。 傷つけたんだから、泣くのは分かる。 けれど今の鈴鹿の表情は、ただ泣いているだけじゃなかった。 唇を噛んで、顔を赤くして、眉を吊り上げて。 それはめったに見ない鈴鹿。 怒って、いる。 「す、ずか?」 恐る恐る声をかけると同時に、顔に衝撃が走った。 何が起きたのか、瞬間分からなかった。 べたん、といったどこか情けない音をたてて、頬に痛みが走る。 力を入れ損ねた平手打ちはそんなに痛くなかった。 けれど。 鈴鹿に、殴られた。 怒りよりも、悲しみよりも、驚きが先だった。 「駿君なんて、だいっきらい!」 半ば叫ぶようにそんな言葉を叩きつけると、鈴鹿は俺の横をすり抜けてかけていく。 俺を殴ると同時に、頬にこぼれた涙が、俺の目に焼きついていた。 呆然として、動くこともできずに、走り去る足音を聞いていた。 |