春休みに入ってから、無為に時を過ごす日々を続けている。 3月の半ばに旅行に行くことにはなっているが、それまでの予定はまっさら。 美術館巡りしたり、勉強したり、就職活動の準備始めたりしようって考えてたんだが、何もする気が起きない。 ただ先輩の作品を眺め、どうでもいいことを考えて、家事をする毎日。 家の中には先輩の姿もなく、静まり返っている。 たまに帰ってきても、またすぐに出て行ってしまう。 耕介さんのところに、帰省しようか。 きっとあの人は喜んでくれるだろう。 千代さんはおいしい料理を作ってくれる。 新堂さんも遊んでくれるだろう。 こんな鬱々とした気分なんてすぐに吹っ飛ぶだろう。 久々に耕介さんと一緒に旅行に行くのもいい。 二人で美術館を巡って、美味しいものを食べて、隣のベッドで寝るのだ。 そんなことを考えていると、ポケットにつっこんでいた携帯がわずかに揺れて存在を知らせる。 先輩かと思って取り出して、心臓が一気に跳ね上がる。 無視しようかと一瞬考えて、それでもなぜか通話ボタンを押してしまう。 『あー、やっと出た』 聞こえてきたのは、明るい、少しだけしゃがれた、けれど人を引き付ける力のある声。 どこか外にいるのか、がやがやと周りが騒がしい。 「かず、き」 『お前全然返信来ないんだもん。俺もバイトとか予定とかあるんだからさ、返事早くしてよ』 「………ごめん」 誰も実家に行くなんて、言ってなかった。 けれどやっぱりこいつの中では決定事項になっているらしい。 でも、行かないとも、はっきり伝えてない。 あの時は、考えておくと、そう言うのが精いっぱいだった。 『まあ、いいけどさあ。お前いつ暇なの?』 「ちょっと待ってくれ。まだ分からないから」 『早くしてくれよ』 少しだけ苛立ったように急かされる。 その不機嫌そうな低い声に、体のどこかがチリリと痛む。 いつだって和樹の不機嫌は、俺にとっては嫌なことの始まりだった。 しかし昔と違って声はすぐに不機嫌さを失って、明るい声にとって変わる。 『なあ、これから出てこれる?』 「え?」 『お前の家の近くにいるし、メシでも食わない?この前お前さっさと帰っちゃったしさ。お前の家でもいいけど』 「家は、駄目だ」 『じゃあ、出てこいよ』 この前ファストフードであった時は、先輩の夕飯の支度があると嘘をついてさっさと帰宅した。 和樹と向かい合っていると、平常心を保てない。 情けないことにすぐに過去に引きずられ、体が痛みを思いだし、心が刻みこまれた思い出に竦む。 「………分かった」 なのにこうやって承諾してしまうのは、それこそ恐怖からだろうか。 和樹を不機嫌にしたくないからだろうか。 本当なら、すぐに耕介さんか新堂さんに相談するべきだ。 あの人達なら正しい判断をして、正しい処理をしてくれる。 俺を全力で守ってくれる。 それが一番、正解な行動。 それなのに、なぜ俺はあの人達に言おうとしないのだろう。 迷惑をかけたくないから。 それもある。 大したことないから。 そうなのだろうか。 怖いから。 そうかもしれない。 いや、ただ、和樹が何をしたいかの真意を知りたいだけだ。 そうだ、そうに違いないんだ。 だから、それを知ってから、あの人達に相談しようと、思っているんだ。 忙しいあの人達を、煩わせたらいけない。 俺は和樹なんて、もう怖くない。 和樹にどうかされるような子供でもない。 だからこうやって頷いてしまう理由は、きっと俺はただ、知りたいからなんだ。 呼び出されたのは、最寄り駅の近くの居酒屋だった。 学生が多い居酒屋はしきりで区切られていて半個室のようになっているが、やっぱり客層からか騒がしい。 友人と来る時は何も思わないが、今はひどく耳障りだ。 「お前何飲む?生?」 「俺、アルコールは苦手」 飲めないことはないが、この前の二日酔いを思いだすと進んで飲みたくもない。 正直に言うと、向かいに座っていた和樹は呆れたように苦笑して肩をすくめた。 「お前、本当に昔と変わらないな」 「………」 それは、どういう意味なのか。 和樹にとって、昔の俺とは、どういう存在だったのか。 意図がつかめず、黙りこむと和樹はからかうように言った。 「真面目な優等生」 「そんな風に見えてたのか」 そんなことを言われたことはなかった。 暗い、ウザイ、オカマ、乞食、こいつからもらった言葉は沢山あるが、特に多かったのはそんなものだ。 「昔から、すごい真面目じゃん、お前」 揶揄するような響きはない。 それでも、なんだかひどく不安になって、饒舌になってしまう。 「俺は、勝手だよ。真面目でもない。アルコールは本当にちょっと飲んだだけで回るし、次の日辛いから嫌いなだけ。おいしいと思わないし」 「慣れればうまく感じるよ。甘いのから飲めば。あ、これなら平気だろ。これ、頼むな」 嫌だとともいいとも言わない内に、和樹は店員を呼び出し頼んでしまう。 こいつこそ、全然変わらない。 昔のまま、強引なままだ。 月日は人を変えない。 ああ、そうだな、工藤。 俺もこいつも、結局何も変わってないのかもしれない。 「なあ、和樹」 「ん?」 「本当に、母さんと義父さんは、俺に会いたがっているのか?」 だから、やっぱり信じられない。 あの二人が、俺に会いたがっているなんて、信じられない。 この7年間、一度も会わなかった。 一度も会いたいと言われていない。 「会いたがってるよ。すごいね」 けれど和樹は端正に整った顔に笑顔を浮かべて、もう一度繰り返す。 そしてブレスレットを纏った腕を机に置き、頬杖をつく。 そんな仕草はひどく大人っぽかった。 「信じられないのか?」 信じられない。 信じられるはずがない。 「お待たせしました!」 威勢のいい声と共に店員がお通しと酒を置いていく。 俺の分の酒は、綺麗なスカーレットだった。 「とりあえず、飲めよ」 「うん」 促されるまま飲み込んだドリンクは、フルーツの甘みとアルコールの苦みのさっぱりとした味だった。 ビールや缶チューハイほど、苦みが強くなく飲みやすい。 「な、それなら平気だろ?」 「うん、飲めないことはないかな」 特別美味しいとは感じないが、もう一口飲みこむと苦みも特に感じなくなった。 急に空腹を感じて、お通しの素揚げのマリネを口にする。 薄味の料理になれた身としては少し塩っ辛い。 「大学どう?美大なんだよな?」 和樹が自分の分のビールを煽りながら、聞いてくる。 普通の会話。 まるで久々にあった友人のような普通の会話。 とても違和感を感じる、会話。 「うん。楽しくやってる」 「あの、お前と一緒に住んでる人、池さんだっけ?あの人かなりすごいアーティストとかなんだろ」 「うん、まあ、まだ駆け出しだけど、かなり注目されてる人」 「へえ、すごいな。雑誌見たけど、家もなんか企業やってるんだっけ」 「うん。実家は、すごいでかい家だった」 一度、正月休みの時にいった先輩の家は、耕介さんの家と負けず劣らず大きかった。 都心に近いだけ、先輩の家の方がすごいかもしれない。 「お前は、苦労してない?生活とか学費とか」 「全然。学費は今の保護者に甘えてるし、生活は家事の代わりに先輩がほとんど負担してくれてるし」 バイト代は小遣いにしろと言われているし、むしろたまっていく一方だ。 まあ、たまれば返すお金が増えるだけだから全然いいんだけど。 「そうか、よかった」 「え」 そんなことをつらつら思っていたので、和樹の言った言葉に一瞬反応出来なかった。 あまりにも、予想外だったからかもしれない。 顔を上げると、和樹が頬杖をついてじっと俺のことを見ていた。 「心配してたんだよな。お前、家出てから苦労してないか」 少しだけ目を伏せて、穏やかな顔で、そんなことを言う。 何を言ってるんだ、こいつは。 和樹が俺を、心配している? そんなこと、ある訳がない。 ないんだ。 絶対にあり得ない。 「最後に別れた時、あんなだったし」 「………」 けれど和樹は伏せた目を開いて、もう一度俺を見る。 まっすぐに、俺のことを見ている。 「顔見たかったんだ。元気そうでよかった」 そして、優しく笑った。 誰だ、こいつは。 和樹の格好をした、誰か、じゃないのか。 「あんな風に、間違っちゃったけどさ、俺たち、家族な訳じゃん。やっぱり」 おかしい。 おかしいおかしいおかしい。 ぐるぐるぐるぐる視界が回る。 アルコールが回った脳が痺れて溶けて行く。 何も考えられなくなっていく。 「お前も、その金持ちのおっさんの養子になったって訳じゃないんだろ?じゃあ、いつ追い出されるかとか、わからないじゃん。それでなくても、その人の家族が何言うか分からないし」 耕介さんの息子は、俺のことを嫌っている。 財産目当てなんじゃないかと、本人じゃないけれど、息子さんの会社の人が来た時に言われているのを聞いた。 そう考えることも当然だ。 だから俺は養子縁組の話も断った。 耕介さんとの関係をそんな風に思われるのは絶対にごめんだった。 耕介さんを愛している。 俺を救ってくれた人、俺を守ってくれた人。 この世で一番大切な人だと、断言できる。 耕介さんは優しいし、俺を愛してくれている。 溢れるほどの、身に余るほどの愛を貰っている。 それは分かっている。 それは知っている。 「お前も、他人に世話になるのって、大変だろ?」 それでも迷惑はかけている。 あの人に迷惑をかけているのも、知っている。 俺がただ耕介さんの傍にいるだけで迷惑をかけることを知っている。 俺が存在するだけで、ただ迷惑なのだ。 「やっぱりさ、最後に頼れるのは家族なんだと思う。俺もこの年になってようやく分かったんだけどさ」 無償の愛。 それをくれるのは親なのだと、言っていたのは誰だっただろう。 いや、俺は耕介さんから無償の愛は貰っている。 まさに無償だ。 俺が返せるものは、何一つない。 俺は、あの人にとって、マイナスでしかない存在。 「俺たちもさ、今からでも、そういう家族になれないかな」 耕介さんの家も、先輩の家も、いつ追い出されてもおかしくない。 例え二人が許していても、これから先も周りが許してくれるとは限らない。 俺の存在が二人にとって、多大な負債をかけるとも、分からない。 「俺たちが、お前の帰る場所に、なれないかな」 俺にはもう、帰るところがある。 そう言いたいのに、言葉が出てこない。 和樹がじっと俺を見ている。 ぐるぐるぐるぐる世界が回る。 アルコールが、脳を溶かす。 結局、あの後はお互い大学の話なんかをして、別れた。 帰省についても、和樹の話についてもひとまず保留。 和樹は国立の経済学部に入って、楽しく暮らしているらしい。 サークルもいくつもかけもって、日々飲み歩き、遊びまわっている話を聞いた。 昔と変わらず、充実した毎日を送っているようだ。 結局四杯飲んで、アルコールが回った頭では細部まで覚えていない。 俺はあの後、一体何を話していただろう。 普通に話していられたのだろうか。 いまだ抜けきらないアルコールに布団に仰向けになって寝転びながら、携帯を眺める。 俺は、帰りたいのか、帰りたくないのか。 俺の家族は、耕介さん。 そして千代さんに新堂さん。 同じくらい大切なのは、先輩とその作品。 そのはずだ。 そのはずなのに。 一体、何を、迷っているのか。 「ぜろ、に」 口から出る、数字を、携帯に打ち込む。 いまだに覚えていることに、自分で驚く。 三年とちょっとしか過ごさなかった家。 俺の人生の、ほんの一部でしかない時間。 それなのに、今も覚えているのだ。 「かかるの、かな」 いまだにアルコールは残っている。 だから、こんな馬鹿なことをしているのかもしれない。 引越したと言っていた。 だったら、電話番号も変わっているのかもしれない。 かからなかったら、それでいい。 むしろ、かからなければいい。 「かか、った」 ツルルルル。 電子音が、鳴り響く。 緊張で手の平がべたついて、携帯が濡れて行く。 背中に嫌な汗が伝う。 別の人が使っているかもしれない。 かかるな。 かからないでくれ。 ああ、もう、切ってしまおう。 プツ。 『はい、もしもし、黒幡です。どちら様でしょうか』 「………あ」 聞こえてきたのは、記憶の中にある声より、若干低かった。 けれど間違いなく、知っている声だった。 『もしもし?』 「………」 あの人は、こんな声をしていたっけ。 こんな話し方をしていたっけ。 全てがあやふやで、あの人だと分かっているのに、認められない。 電話を切りたくなっていく。 心臓がどんどんスピードを上げて、痛くなってくる。 体温が下がって行って、指先が冷たくなっていく。 『もしもし、どちら様ですか?』 「………」 『もしもし、切りますよ?』 ずっと黙っている俺に、携帯の向こうの人は不機嫌そうになっていく。 切られてしまえばいいと思った。 けれど、意志とは裏腹に、口から言葉が、滑り落ちる。 「もしもし」 『はい、どちら様ですか?』 「………守、です」 『…………』 息を飲む音が、耳元で響く。 少なくとも、忘れられてはいなかったということか。 あの人の中に、俺の存在はまだあったということか。 「………」 『………』 嬉しいのか、哀しいのか、それとももっと違う感情なのか。 胸が引き絞られるように、痛む。 『ま、もる?』 「………はい、守です」 『………』 何を話したらいいのか、分からない。 何を話そうとして、電話をしたのだっけ。 オフホワイトに靄がかった頭の中は、ちっともまとまってくれやしない。 「………あ、の」 『………どうして。いえ、ちょっと待って』 「は、い」 電話の向こうの女性は、一度、二度呼吸を繰り返し、待ってと言う。 記憶の中の声は、もっと若々しかった気がする。 今のあの人は、一体どんな姿をしているのだろう。 『待って、ちょっと、混乱してるの。ごめんなさい。ちょっと待って』 「はい」 そりゃ、突然の電話だ、驚くだろう。 俺だって、かけたくせに、何を話したらいいのか分からない。 それからまたしばらく時間をおいて、静かな声でいった。 『一度、かけ直して、いいかしら。ごめんなさい。ちょっと待って』 「………はい」 『電話番号、聞いていいかしら。私が、かけ直すから』 電話番号を聞かれるとは思ってなくて、驚いて言葉を失う。 つまり、俺にかけ直す意志があるということだ。 このまま無視をしようっていう訳じゃないのだ。 もしかしたら、聞くだけ、かもしれないけれど。 『あなたの電話番号、教えてちょうだい』 「はい」 俺は動揺を悟られないように、勤めて平静な声で電話番号を告げた。 向こうでカリカリと何かに書きつける音がする。 本当にメモっているのか。 本当にかけるつもりなのか。 『それじゃあ、またかけ直すわ』 最後に、本当なのか嘘なのか、そんな言葉を残される。 そしてプツリと、通話が切れた。 「………」 電話の表示は、今の通話に1分もかかっていなかったことを告げる。 それなのに、随分長く感じた。 懐かしい、声だった。 記憶の中とは少しだけ違う、それでも確かに懐かしい声だった。 「………母さん」 携帯を持ったまま布団に腕を投げ出して、目を瞑る。 目の裏に浮かぶのは、もう細部はあやふやな母の顔。 それは、鬼のような形相ではなく優しい笑顔を浮かべていた。 ああ、分かった。 分かってしまった。 認めなくないけれど、分かってしまった。 いや、ずっと分かっていたんだ。 ただ、見ないふりをしていただけ。 和樹に自分から近づいた理由が、分かってしまった。 怖いからじゃない。 真意を知りたいからじゃない。 人はそう簡単に変わらない。 そうなんだ、工藤。 人はそう簡単に変われない。 だから俺は全く変わってない。 俺は、期待しているのだ。 まだ、あの人達に、期待を、残していたのだ。 あの人達が俺のことを、覚えていて、後悔していて、少しでも近づけるんじゃないか、なんて、そんなことを。 それが何より、俺を打ちのめした。 |