カラカラと玄関がうるさく音を立てて開く。 来客を知らせる声ではなく、廊下を歩く足音がしたことで、家主が帰宅したのだと分かった。 階段を上る気配に、慌てて自室から出ると疲れた顔をした先輩がいた。 「おかえりなさい」 「ただいま」 俺の顔を見て、先輩が帰宅の挨拶をしてくれる。 随分久しぶりに、言葉を交わした。 随分久しぶりに、ちゃんと顔を見た。 ここ最近張り詰めた表情をして、より一層凶悪な顔になっていた先輩が、心なしか穏やかになってる気がする。 スランプは抜け出せたのだろうか。 聞きたいが余計なことを言って先輩の調子を崩したくもなかった。 だからいつも通りの質問をする。 「メシ、食いますか?」 「いや、お前家にいるか?」 「はい、今日はいます」 「分かった。3時間後に起こせ。起きたら出かける」 「分かりました」 そのまま俺の横を通り過ぎて先輩の部屋に向かう。 どうやら落ち着きは取り戻しつつあるようだ。 よかった、もう先輩自身の手で、先輩の作品を壊す姿なんて、見たくない。 いっそ俺に暴力を振われた方が何十倍もマシだった。 「おい」 「はい」 呼びかけられて振り返ると、先輩が俺の顔を見ていた。 少しだけこけた頬は、先輩の男臭い美貌により一層凄みを増している。 「後、3時間は余裕がある」 「はあ」 まあ、余裕と言えば余裕なのだろうか。 でも、疲れてるみたいだから寝て欲しいのだが。 何か用事があるのだろうか。 「あ、ヤりますか?」 先輩は時折睡眠よくより性欲を優先させることがある。 久々に抱いてくれるだろうか。 与えられる快感を思いだして、腰がざわりと疼く。 モノのように扱われて、あの手に乱され、思う存分内臓を突き上げられて、ケダモノのように貪られる。 考えるだけで、イってしまいそうだ。 「何か俺に言うことはあるか?」 けれど先輩は、俺に手を伸ばしてはくれなかった。 どうやらお誘いではなかったようだ。 軽く失望を覚えながら、質問の意味を考える。 「何か?」 先輩に言いたいこと、何かあっただろうか。 新しい作品を早く作ってください、とか言いたいけれど、それで先輩の創作意欲を削っても嫌だ。 少しだけ考えて、思いつく。 「洗濯物は出しておいてくださいね」 「………」 その答えに、先輩は呆れたように目を細めただけだった。 すぐに後ろを振り返り、ドアのノブに手をかける。 「なんかありましたっけ?」 「寝る」 「はあ」 それきり後ろを振り返ることなく、先輩は部屋に入ってしまった。 まあ、先輩が唐突で意味不明なのはいつものことだ。 「なんだろ」 だから俺は首を傾げながら、自室に戻った。 部屋に入ると、携帯が机の上で震えていた。 この携帯にかけてるのは、先輩と新堂さん耕介さん、そして最近ではもう一人。 ずしりと重くなった心を感じながら、俺は携帯を取る。 『もしもし?』 聞こえてきたのは、少しだけしゃがれた明るい声。 もう聞きたくないと何度も思うのに、それでも取ってしまう。 期待なんてしたくない。 けれど、期待したい。 自身の矛盾に、苦しめられる。 「………和樹」 『なあ、まだ予定決まらないの?』 聞かれるのは、ここ最近繰り返される質問。 段々しつこく責める口調になってきている。 それも、そうだ。 俺も断るなら、早く断らなきゃいけない。 「う、ん。多分、2月の終わりの土日、バイト調整できると思うんだけどまだ分からないからもう少しだけ待って」 『早くしろよ』 「………ごめん」 とりあえず適当なことを言って、お茶を濁す。 一応調整しているのは、本当だ。 行くかどうかは、まだ決めてないのだが。 『あのさ』 不機嫌そうだった声が、明るさを取り戻す。 くすくすとさも楽しそうに笑う和樹に、少しだけ身がまえる。 こいつがこんな笑い方をする時は、いつだって俺を嬲る方法を思いついた時だった。 『実はさ、会えるまで内緒にしてようと思ったんだけどさ』 「うん?」 わくわくと、押し殺せない喜びを滲ませた声。 逸る心臓を左手で押さえつけて、呼吸を深くする。 『妹、いるんだよ。今四歳』 「え」 和樹は、楽しそうに笑いながら続ける。 言われた意味が分からなくて、携帯を持つ手に力が入る。 『すごいかわいいよ。今度行く時会えると思う。お前の妹だよ』 「………いもう、と?」 『そう、愛って言うんだ。楽しみにしてろよ。すごい小さくてすごいかわいい』 「母さんと、義父さんの、子供?」 『当たり前だろ。俺たちと16歳差の妹』 妹。 母さんと、義父さんとの間に出来た、子供? 俺と血のつがった、妹。 和樹とは血が繋がっていない。 けれど、母さんが産んだとすれば、それは俺と血が繋がっているということだ。 当然のことを、馬鹿みたいに考える。 俺に、家族が、いた? 俺の、妹? 『多分、愛ももう一人のお兄ちゃんに会いたいって言うと思う。まだ、あいつには話してないんだけどさ。人懐っこいし、きっとお前のことも気に入る』 「う、ん」 実感が沸かない。 見たこともない妹なんて、本当にいるのかどうかすら分からない。 けれど、さっきとは別の意味で、鼓動が早くなっていく。 耳がキンキンするぐらい、心臓の音がうるさい。 『だから早く、予定決めろよ。愛も待ってるから』 「………分かった」 『それにしても、お前の今の保護者、そういうこと、伝えてないんだな。お前何も言わないから知らないんだと思ってたけど』 「それは」 だってそれは、耕介さんは実家と俺を完全にシャットダウンしてくれていたから。 それは、俺を守るためにしてくれたこと。 耕介さんをなじるような口調の和樹にさすがに抗議しようとするが、その前に話は打ち切られた。 『ま、いいや。じゃあ、早くしろよ』 「うん」 電話が切られる。 何も音を発さなくなった携帯を握りしめたまま、俺はその場に座りこむ。 今言われた言葉を、反芻する。 「いも、うと」 つぶやくと、携帯がまた揺れた。 通話かと思って開くと、メールの受信を知らせる表示。 差し出し人は和樹。 「………あ」 やたらと思い添付ファイルをダウンロードして開くと、幼い少女が満面の笑みで映っている写真。 アンバーローズの服をきて手を伸ばし、写真を写している相手に抱っこをせがんでいるようだ。 口を大きく開いて、楽しそうに笑っている。 まるで、俺に笑いかけてくれているように。 「妹」 目に熱が集まって、じわりと潤むのが分かる。 いっぱいに伸ばされた小さな人形のような、手。 小さく頼りない壊れそうな生き物。 誰かに守られなくては生きていけない、弱い生き物。 「愛」 口にすると、胸がぎゅーっと熱くなって膨らんでいく。 真夏に膨張したポテトチップスの袋みたいに、力を入れたら今にもはじけそうだ。 「妹」 実家に行ったら、この子に、会えるのだろうか。 この小さな手を握ることができるのだろうか。 この頼りない存在を抱きしめることができるのだろうか。 「………四歳って、チョコレート、食べられるのかな」 名残惜しいが一旦携帯を置いて、財布を取る。 先輩を起こさなきゃいけない時間まではまだまだある。 近くにあるホームセンターが脳裏に浮かぶ。 「チョコレートケーキ、作ってみよう。野菜のケーキとかの方がいいのかな。体にいいよな。クッキーとか。本、買わなきゃ」 そうだ、大川にも頼まれていたのだ。 ホワイトデーのお返しは、ケーキでって。 小さな女の子は、甘いものは好きだろうか。 ケーキは食べられるのだろうか。 それともきんとんとかの方が体にいいし、食べやすいだろうか。 ああ、分からない。 でも、それなら全部作ってしまえばいい。 食べられなければ、誰かにあげればいいんだ。 「喜んでくれるかな」 愛という名の女の子は、俺のケーキを食べてくれるだろうか。 喜んで、笑ってくれるだろうか。 あの人形のような手を、俺にも伸ばしてくれるだろうか。 「なんだ、この匂い」 時間になったので起こすと、先輩は足りない睡眠に頭痛がするのか頭を抑えて呻いた。 そして家に溢れた甘い匂いに顔を顰める。 「すいません、チョコレートケーキ作ってるんです」 「………とうとうそこまで来たか」 ベッドの上に座りこむ先輩は、呆れたように眉を吊り上げる。 洋菓子の本に、道具まで一式そろえてしまった。 小遣いを使えと言われていたけれど使い道が考えつかなかったのでちょうどよかった。 「出来たら、食いますか?」 特に食に執着はない人だが、育ちがいいからか舌は確かだ。 まずくてもうまくてもなんでも食うが、うまいかまずいかの判断は聞けば言ってくれる。 洋菓子作りはなれないので、出来れば味見係になってほしい。 「ん」 返事の代わりに、ベッドに浅く腰かけていた俺の首を引き寄せ、先輩が俺にキスをする。 乾いた唇が軽く重なると、一瞬だけ舌が入り込み口の中を舐めていく。 そんな少しの刺激で、俺の体は一気に体温が上昇した。 すぐに去って行ってしまう温もりが惜しくて、もっともっと欲しくて、その濡れた唇をつい見つめていると、先輩は自分の唇を確かめるように舐めた。 「甘いな」 「………チョコですから」 味見したチョコレートが口の中に残っていたのだろう。 眉を顰める先輩に、軽く笑う。 このまま抱きついて襲ってしまいたい。 先輩の体を思う存分堪能したい。 そんな欲望が思考を支配しそうになるが、なんとか自分の体を押しとどめる。 このままベッドの上にいると押し倒してしまいそうなので、先輩の手を軽く払って立ち上がる。 先輩は用事があるし、俺も早くケーキを作ってしまいたい。 「出かけるんでしょう?遅刻しますよ」 「随分機嫌がいいな」 「そうですか?」 俺の顔を睨みつけるようにじっと見つめている先輩。 その強い視線に少しだけ怯みながら、それでも見つめ返す。 先輩はしばらく俺の顔を見てから、ふっと小さく笑った。 「ああ、最近辛気臭い面してたけどな」 「………」 全然顔を合わせてなかった。 全然会話もしてなかった。 たまに見る先輩は疲れ果てた顔でアトリエにこもるか、部屋で死んだように眠るか。 食事を食べているところも全然見ていない。 俺のいない間に食べている様子はあったが、一緒に食事を取ったのも思いだせないぐらいだ。 それなのに、そんなことに気づいていたのか。 先輩は、俺を、見ていてくれたのか。 「風呂入って出かける」 「………はい」 きゅうきゅうと、胸が苦しく締め付けられる。 愛の存在を知った時とは、また違う痛み。 痛いけれど、切なくて、けれど辛くはなくてどこか温かい。 違う痛み。 けれど同じように目頭が熱くなる。 嫌な人だ。 先輩は、ほんの些細な言葉で、俺を簡単に翻弄する。 |