眠れずにベッドの中で長い夜を過ごし、窓の外が明るくなるのをじっと待った。 明け方に動こうかと思ったが、そんなことしたら瑞樹の逆鱗に触れることは分かっていた。 木に引っかけた顔の細かい傷や、爪の剥がれかけた指を見て、すでに怒られている。 怒鳴りつけられ、殴られた。 そして、手当てをしてくれた。 まだ、怒ってくれることに、心から安心した。 手当てをしてくれることに、また涙が出そうになった。 幼い頃から、瑞樹は怪我を手当てしてくれる。 だから俺は、怪我をすることが嫌いじゃなかった。 瑞樹が手当てをしてくれるから。 昔はわざと怪我をしたりもした。 瑞樹が怒ってくれるのが、嬉しかった。 心配してくれるのが、嬉しかった。 触れてくれるのが、嬉しかった。 これからもずっと、してくれるものだと、信じていた。 眠れずに過ごしたものの、ベッドに横になって体の疲労は少しだけ回復した。 傷は痛いし、昨日あいつと殴りあった、いや殴られたところは腫れて痛みが増しているような気がする。 しかし、重かった腕と足はだいぶ軽くなっている。 頭痛の残る頭をごまかし、のそりとベッドから這い出す。 身支度を整え、瑞樹が散らかした部屋の片づけをする。 そのうちに瑞樹の起床時間になり、静かに隣のベッドで眠っている瑞樹を起こした。 寝起きが悪くはない瑞樹は眠そうにしながらも身を起こし、じっと俺を見る。 俺が夜中に出て行ったりしてないかを確かめているようだった。 やましいことはないけれど、いつものように少し焦りを抱えてじっと見つめ返した。 瑞樹の一挙一動に、俺はどうしようもなく感情をゆすぶられる。 喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、瑞樹の感情が、俺の全て。 大丈夫だったと分かったのか、小さく鼻を鳴らしてベッドから降りた。 腹が減ったと言われ、今すぐ部屋を出ようとしていた俺は気勢をそがれた。 きっと朝食を抜こうとしていたのを見抜かれていたのだろう。 瑞樹は洞察力があり、聡い。 休日は、昼と夜は出ないが、朝食だけは寮で出る。 仕方なく瑞樹が身支度を整えるのを待って、食堂に向かった。 幸い今日は休日だ。 この後はなんとか時間が自由になる。 瑞樹に許可をとって、もう一度探しに行こう。 手伝うと言ってくれるかもしれないが、断らないとだめだ。 なんて言って抜け出そう。 眠れていないせいか、脳に血がうまく廻らない。 ぐらぐらとめまいがして、手で軽くこめかみを押さえた。 それを見咎めて、瑞樹が目を細める。 「大丈夫か?」 「ああ、大丈夫だ」 気遣わしげに見つめてくる瑞樹から目をそらし、胃が全く受け付けない朝食を無理やり口に入れる。 泥を噛んでいるように、味がしない。 でも食べなければ、瑞樹に心配される。 吐き気を押さえて、無理やり咀嚼して飲み込む。 俺の様子に気づいているのか気づかないのか、瑞樹はいつもどおり旺盛な食欲を見せ、三杯目のご飯をかき込んでいた。 「おい」 そんな食事の最中、不機嫌そうな声が割って入る。 瑞樹と二人、そちらに視線をやるとそこには長身で野性的な男が立っていた。 男らしい眉もきつい二重の目も、獰猛な獣を思わせる。 しかしそんな攻撃的な雰囲気を意に介さず、瑞樹は楽しそうに笑った。 ずっと一緒にいた俺にはわかる。 瑞樹はとても上機嫌だ。 この男が来ると、瑞樹は上機嫌になる。 じくじくと胸が痛み、不安が押し寄せてくる。 「どうでしたんですか、朝からやられにきたんですか、先輩?若いですね」 「………今度こそやってやるからな」 「ああ、でも今日はちょっと用事があるんだ。遊んでやれない」 意外な答えだったのか、秋庭は眉をひそめる。 断られるとは思ってなかったのだろう。 瑞樹はいつであろうと、秋庭の誘いを断らない。 そんなところも、今までの瑞樹とは違う。 瑞樹はいつだって、自分の思うがままに、動いていたのに。 「なんだよ?」 「ちょっとな」 かわいらしく肩をすくめる瑞樹。 本人に言うと怒られるが、そうした仕草は本当に少女のようにしか見えない。 この野蛮な男が騙されたのも、納得できる。 小さな頃から一緒にいてその強さを何よりも知っている俺には、決して中身が外見そのものとは思うことはないが。 用事というのは、俺のことだろう。 手伝いはいらないと言わなければいけない。 しかし、そうすると瑞樹は秋庭と一緒にいってしまうだろう。 それはいやだ。 「あ、そうだ、そいつに伝言がある」 どうしたらいいか分からず黙っていると、思いだした、というように秋庭が俺に視線を送る。 こいつが普段自分から俺に話しかけることなんてほとんどない。 俺は訝しげに、そちらを見た 秋庭も、いかにも嫌そうに見下していた。 「………なんだ?」 「柳瀬がなんか忘れものを預かってる、とか言ってた」 「え!?」 俺は驚いて手にしていたフォークを取り落としそうになる。 反応に驚いたのか、秋庭が目を丸くする。 「心当たりあるのか?」 「ああ」 「旧校舎の資料室にいるってさ、あいつあそこによくいる」 「分かった。すまない」 俺が礼をいったことに、秋庭は嫌そうに顔をしかめた。 しかしそんなことに構ってられなかった。 朝食のトレイを手に取ると、慌ただしく席から立ち上がる。 瑞樹に一言断ろうと視線を送ると、瑞樹は静かにこちらを見ていた。 「ついていくか?」 「いや、かまわない。すまない瑞樹、離れるが」 「いい。よかったな、見つかって」 「ああ」 めったに見ない柔らかい笑顔で見送られ、心がじんわりと暖かくなる。 忘れものとは、間違いなくあのキーホルダーだ。 先ほどまでの陰鬱な心の重さを忘れて、俺は急いで資料室を目指した。 |