「秀一、お前最近おかしいぞ」
「………そうか?」
「何を隠してる」

瑞樹が静かな目で、俺を見上げてくる。
身長は俺のほうがずっと高くて、瑞樹は上目遣いで睨みつけている。
小さな体。
けれど、その威圧感に思わず目をそらしてしまう。
だめだ、瑞樹に変に思われる。
瑞樹は聡い。
昔から、瑞樹に隠しごとなんてできなかった。

でも、これだけは知られては、いけない。

今日は珍しく、瑞樹が部屋にいた。
いつもは俺に付きまとわれるのを嫌って、放課後はすぐに姿を消す。
分かってる。
瑞樹が俺を鬱陶しがっていることぐらい、分かっている。
いつもクラスの友人か、あいつのところへ行ってしまう。
なのに、今日は姿を消す様子がなかったから、嫌な予感はしていた。

案の定、瑞樹は俺の顎をとり、視線を合わす。
逃げることを許さない。

「秀一」

静かな低い声で、瑞樹が促す。
思わず謝りたくなる、主の声。
だめだ。
ここで、屈してしまったら、俺は瑞樹を失ってしまう。
瑞樹にだけは、見捨てられたくない。

「何も、隠していない」

声は震えてないかった。
目も逸らさない。
これだけは隠し通す。
何があろうとも、瑞樹にだけは知られてはならない。

「俺に、隠し通せると思ってるのか」
「………違う。隠してない」
「秀一」

低い声に、びくりと体が震えた。
怖い。
瑞樹が、怒っている。
瑞樹が、苛立っている。

怯えた顔をしたのだろう。
瑞樹は怒りを散らすように、大きなため息をついた。
そのため息すら、怖い。
瑞樹が、俺の存在に、苛立っている。

「秀一、俺は怒ってるんじゃない」

けれど、瑞樹は表情を和らげて手を伸ばして俺の頭を撫でる。
温かい手が、気持ちいい。
瑞樹が、触れてくれる。
それはいつだって、温かくて、嬉しい。

「心配しているんだ。最近様子がおかしいだろう、お前。どうしたんだ。何か心配ごとがあるのか?また雨宮の馬鹿が何か言ったのか?」
「違う、何もない。本当だ、瑞樹」

瑞樹が心配してくれている。
まだ、心配してくれている。
まだ、俺は瑞樹の傍にいていいのか。

嬉しい。

だからこそ、俺が汚いものだと、気づかれちゃいけない。
俺は、瑞樹のものだから。
綺麗な瑞樹のものの俺は、綺麗なものじゃなければいけない。

「嘘つけ。最近俺についてこなくなったくせに。前はいつもまいても探してきただろう。どこへ行ってるんだ?」
「それは…、瑞樹もあまり俺に付きまとわれたら嫌だろう」
「まあな。でも俺離れするにも、唐突すぎるだろう」

ああ、やっぱり、瑞樹は付きまとわれているのが嫌だったんだ。
どうしたらいい。
嫌われたくない。
気付かれくない。
聡い瑞樹。
もう、どうしたらいいか、わからない。

「俺だって、瑞樹についてばかりじゃない!」

叫ぶように言ってから、気づいた。
何を言ってるんだ。
違う、違う、こんなことを言いたいんじゃない。

瑞樹は少しだけ、眉をひそめた。
怒っている。
瑞樹が怒っている。
恩知らずな俺を、怒っている。
今まで散々付きまとって、こんなこと。
溜息をつく。
いやだ、違う。
違うんだ、瑞樹。

「………ま、そうだな。お前ももう高校生だしな。俺の知らない事情があるのぐらい当然か」
「あ………違う………」
「いや、いいんだ。干渉しすぎだな」

違う、そうじゃない。
俺を見捨てないで瑞樹。
俺を捨てないで。
俺は瑞樹のものだから。
瑞樹がいなければ、何もできない。
瑞樹がいなければ、生きてない。

「違う違う違う!瑞樹違う!俺はっ………」

焦燥に駆られて、瑞樹の肩を掴む。
細い肩はそれでも弾力があり、しっかりとしている。
強い強い瑞樹。
お願い、俺を捨てないで。

瑞樹はすがる俺を見て、困ったように笑う。
そして頭をぽんぽんと撫でる。
いつもは嬉しいそれが、今はただ悲しい。

「大丈夫だ。いいんだ。いいことだ。俺離れができるのは、悪いことじゃない」
「………違う、瑞樹」
「ただ、何か心配事があったら言えよ。俺はお前のかわいい弟なんだから」

弟。

違う瑞樹。
俺はそんな言葉はいらない。
弟なんて、いいんだ。

ものでいい。
道具でいい。
自立なんてできなくていい。

ただ、ここにいていることを、許して。
瑞樹の所有物でいることを、許して。

「………瑞樹」
「大丈夫、何があっても、俺はお前の味方だから」

体の割に大きな手が、頭を撫でる。
いつでもあった、その大きな手。
俺を導いてくれた、大きな手。

まだ、俺は瑞樹のものでいられる?
まだ、瑞樹は俺の主でいてくれる?

分からない。
聞けない。
決定的な答えを、聞きたくない。

だから俺は笑って、違う言葉を口にした。

「………ありがとう」
「ああ、本当になんでも言えよ」
「うん」

最後に、ぽんと頭を軽く叩かれる。
その感触はとても好きなものなのに、胸が痛い。
引き裂かれるような不安に、叫びだしそうだ。
俺を置いて行かないで、瑞樹。

「じゃあ、俺は外行ってくるわ」
「………うん、分かった」

でも、引きとめられない。
これ以上、瑞樹を苛立たせたくない。
一人になった部屋は静かで。
俺はそのまま、携帯がなるまで、つったっていた。



***




いつもの部屋に入ると、窓の下には誰もいなかった。
そこに、あの男が存在がないことに、違和感を感じる。
パズルのピースが足りないように、ぽっかりと穴が開いている。

今日は、今にも雨が降りそうな曇り空で、部屋の中がいつもより薄暗い。
ざわざわと、落ち着かない。

「人を、呼んでおいて、なんだ……」

狭い、暗い部屋に一人きり。
落ち着かない
帰ろうかどうしようか迷っていると、部屋の中が一瞬明るくなった。

「あ」

その後に、嫌な音が鳴り響く。
雷鳴。
気付いて、ざわりと、全身が総毛立った。

「あ、あぁ………」

駄目だ。
早く部屋から出ないと。
動けなくなる。

けれど、足がすでに震えている。
後、4歩ほどのドアが遠い。
目の前が、暗くなっていく。

寒い。
真っ暗な、蔵が、襲ってくる。
違う、ここは資料室だ。

瑞樹。
瑞樹、助けて瑞樹。

「み、ずき………」

体が震える。
情けない。
しっかりしろ。

早く、早くこの部屋から出よう。
狭い場所じゃなければ、まだマシだ。

けれど、また部屋の中が明るくなる。
目を焼かれる強い、光。

「ひっ」

喉がひきつって、みっともない声が出る。
なんでもない。
理性では分かっている。
落ちたりしない。
けれど、体が言うことを聞かない。
足に力が入らない。

また、雷鳴が鳴り響く。
山のどこかへ、落ちたのかもしれない。
部屋が揺れた気がした。
立っていられなくなって、その場に崩れ落ちた。

手を噛みしめて、悲鳴を押さえる。
悲鳴をあげたら、そこにあるものが襲ってきそうだ。

怖い、怖いよ、瑞樹。
怖い、怖い怖い。

「み、ずき…みずきみずきみずき、助けて、たすけ、て」

いつもは瑞樹が傍にいてくれた。
雷がどこかへ行ってしまうまで、傍にいてくれた。
どうしていてくれないの。
瑞樹はやっぱり俺を捨てるの。

丸まって、耳を塞ぐ。
目を閉じる。
それでも、雷鳴は、響いて俺の体を揺らす。

「雨宮?」

突然、誰かが、俺の肩を掴む。
飛び上がるほど驚いて、声が、出ない。

「っ!」
「おい、雨宮?」
「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!もうしません!」

だから、出して。
叩かないで。
ここから、出して。
お願い。
嫌だ。
怖い。
お願い、出して。
助けて。

「雨宮」
「あ、怖い怖い、怖いよ、瑞樹、み、ずきっ…」
「秀一!」

誰かに、名前を呼ばれる。
瑞樹がきてくれた?
瑞樹が、また、助けてくれる。

「あ、あ、み、ずき……たすけ、て」
「秀一!!」
「あ、や、なせ…?」

顔を覗きこまれ、もう一度強く名前を呼ばれる。
レンズ越しの顔は、誰よりもよく知る綺麗な顔ではない。
細く鋭い目をした、感情の見えない男。
不思議そうに、俺を覗きこんでいる。

「どうした?」
「怖い、怖い怖い、出して。ごめんなさい。出してっ」

誰でもよかった。
助けてくれるなら、誰でもいい。
すがっているのが、誰でも、関係ない。

ここから出して。
忘れないで。
見捨てないで。

すると、強く背を抱きしめられた。
瑞樹が、いつもしてくれたように。
でも、瑞樹よりも大きく、堅く、冷たい体。
頭を撫でられると、甘い香りが鼻孔をくすぐる。

「どうした、秀一。大丈夫だ。俺がいる。京介だ。俺がついている」
「……きょう、すけ?」

ああ、そうだ。
この甘い匂いは、京介。
瑞樹じゃない。
この冷たい体は、瑞樹じゃない。

「ああ」
「きょうすけっ、きょうすけ、たすけて」
「ああ、大丈夫だ。ここにいる」

光が見えないように、胸に顔が押し付けられる。
雷鳴が聞こえないように、耳がふさがれる。

「きょう、すけ。きょうすけっ!」

ぐっと、胸に更に顔が押し付けられる。
左耳は大きな手に塞がれている。
右耳から京介の心臓の音が、聞こえる。
甘い匂いが、する。

目は塞がれて、何も見えない。
ただ、規則正しい心臓の音が聞こえる。

ああ。
もう、だいじょうぶ、だ。

俺は大きく息を吐いて、力を抜いた。



***




どれくらいそうしていただろうか。
そっと耳から手をどけて、京介が囁く。

「大丈夫か?」
「………雷、ない?」
「ああ、もう去った」

顔をちょっとあげると、外は静かに雨が降っている。
梅雨時の、音のない雨。
もう何も聞こえない。
柳瀬の心音だけ聞こえる。
静かだ。

「………雷、ない」
「ああ」
「あっ」

柳瀬の体が離れていこうとして、俺はそのシャツにしがみついた。
くっと喉で小さく笑って、大きな手が頭を撫でる。

「大丈夫だ。体勢が辛いから直すだけだ」
「あ………」

自分がどんな行動をとったか気づき、急に恥ずかしくなって、手を離す。
柳瀬は膝立ちのまま、ずっと俺を抱えていたらしい。
定位置に座ると、再度俺を抱き寄せた。
馴染んだ冷たい体に、頭を預ける。

「これでいいだろ?」
「………うん」

柳瀬の胸にもたれかかって、俺はそっと息をついた。
目を閉じて何回か深呼吸すると、ようやく、落ち着いてくる。

「………」
「………」

柳瀬は何もきかず、ただ、髪を梳かすように弄っている。
俺はそれに身をゆだねる。
しばらくそうしていて、俺はなんとなく、口を開く。
どうしてだか分からない。
でも、言葉が口から滑り落ちていた。

「………昔、お父さんが、夜に、怒って、蔵に、閉じ込めた」
「…………」

柳瀬は黙って聞いている。
だから、俺は、聞かれてもいない話を話し始めた。
誰にも、言ったことはない。
瑞樹しか、知らない。
なんでこの男に話そうとするのか、わからない。

「おれは、出れなくて、ずっと謝ってて」

怒られた理由は、覚えていない。
きっと、怒った方も覚えていない。
父の怒りは、いつでも突然だった。
何で怒られるのか、分からない。
前日は怒られなかったのに、次の日には同じ行動で怒られる。
何かをして怒られる。
何もしなくても怒られる。

手をあげられ、罵られる。
軽蔑した目で、見下ろされる。
虫けらのように、蔑まれる。

おれはきたないもの。
おとうさんを、こまらせるもの。

「雷が鳴って、くらくて、こわくて、さむくて、さみしくて」

梅雨時期で、夜は冷え込んで、薄い長袖でも体温が奪われた。
風通しをよくしている蔵は、風が吹きこむ。
小さくなって、ガタガタと震えていた。
早く、出してほしくてずっと謝っていた。
2階の窓へ行き、外を覗き、誰か通らないか祈っていた。
けれど、誰も通りかからない。

そのうち、雷が、鳴り始めた。

最初は遠くだった。
だから、怖くても我慢していた。
けれど、音がどんどん近付いてくる。
光と雷鳴の感覚が、短くなっていく。
怖くて怖くて怖くて。
泣いて許しを乞うていた。

「しばらくして、蔵の、目の前に、雷が落ちた」

蔵の窓からの光が、目を焼いた。
鼓膜を破くような轟音が、鳴り響いた。
蔵の中が揺れて、何も聞こえなくなる。

「………こわかった」

思いだして、また震えが、蘇る。
もう、死ぬんだと思った。
雷に、きっと打たれると思った。
目の前の倒れた木のように、焦げて、誰かも分からなくなるんだ。

死、というものがすぐ傍にあったのが、怖かった。
でもそれ以上に、誰も助けてくれないのが、怖かった。

俺は一人なんだと、思い知らされた。
泣き叫んで謝っても、誰も許してくれない。
いや、それ以上に存在に気付いてもらえない。
父はきっと、俺のことを忘れていたのだろう。
閉じ込めていたことなんて、忘れていたのだ。

おれは、わるいこなんだ。

だから、俺はしんじゃうんだ。
みんな、俺が嫌いだから、俺はしんじゃうんだ。
おれは、いらないんだ。
だれにもきづいてもらえない。
きっと、おれがしんでも、だれもきづかない。
かなしまない。
なかない。

こわい。
こわい。
こわい。

さみしい。

「………っ」

ガタガタと震える体を、強く抱きしめられた。
震えが、止まる。
冷たい体に、頭を預けた。
甘い匂いが、体にまとわりつく。
目を閉じて、甘い匂いに身を委ねた。

「ああ」
「瑞樹が、助けてくれた。瑞樹が、蔵から、出してくれた」

朝になって、瑞樹が俺にいないことに気付いてくれた。
父を問い詰めて、俺を探し出してくれた。
熱が出て寝込んで震えていた俺を、抱きしめてくれた。
雨がふってますます気温が下がったいた蔵の中に夜通しいたせいで、頭が重かった。
寒くて寒くて。
でも、瑞樹の体は温かかった。

『大丈夫だ。秀一。もう大丈夫だから。俺はお前の主だから。お前は絶対俺が守る』

瑞樹の温かい体に、胸が熱くなった。
涙が溢れていた。
冷たくなった心に、熱がともった。

まだ、大丈夫なんだ、って思った。
瑞樹が、見つけてくれるなら、まだおれはいていいんだ。
瑞樹のものでいたら、俺はいる意味が、ある。

でも、瑞樹は、もう俺が、いらない。
瑞樹がいらない、俺は、なんの意味があるんだろう。

おれは、いらない。

「大丈夫だ。これからは、俺がいる。嵐の日には、耳を塞いでやる。目を塞いでやる」

低くてかすれた声が、耳に響く。
いつものように、感情がこもらない平坦な声。

「………きょう、すけ」
「お前は俺の、ペットだろう?責任持って最後まで飼ってやる」

冷たい冷たい体。
瑞樹とは違う、冷たい体、冷たい唇。
甘い匂い。
堅い体。

瑞樹じゃない。

それなのに、心に、熱が、ともる。





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