落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け。

心を乱すな。
こんな分かりやすいトラップにひっかかるな。
奴らは俺の動揺を誘っている。
心を乱して隙を見せたら、喰われる。

落ち着け。
何度も繰り返した、精神統一。
真っ青な海。
雲ひとつない空の下の、真っ青な海。
澄み切った水色。

深呼吸を繰り返すと、徐々に心が落ち着いてくる。
情けない。
奴らを相手にしたのがはじめてって訳でもないし。

いや。
ああ、そうか。
本当に『一人』で奴らを相手にするのは、これが初めてなのか。
今までは一人で相手したといっても、必ず誰かがついていた。
俺は、弱いから。
家族と違って、脆弱な力しか持たないから。

だめだ、ネガティブになるな。
佐藤を、助けなきゃ。
俺にはやることが、ある。
俺しか、やれないんだ。
そうだ、俺しかいないんだ。

落ち着いて、足もとに落ちた携帯を取り上げる。
どうしよう、もう一度かけるか。
咄嗟にいやだ、と思う。
あの気味の悪い声を聞くのはいやだと、そう思う。
でも、そんなこと言ってられない。

なんとか震える手をごまかして、通話ボタンを押そうとする。
けれど今度はなにも音がしない。
それ以前に、どんなに操作しても、携帯は壊れたように画面が真っ黒だった。
少しだけ、ほっとする。
そんなこと考えている暇ないのに。
これで助けは期待できない。

俺は使鬼は使えない。
奴らを使うために与えるだけの力がない。
くそ、情けない。

いや、あの人たちのことだ。
俺が遅くなれば、きっと気付いてくれる。
大丈夫だ。
助けは来る。
だから、今俺は、やれることをやろう。

動け動け動け。
とにかく動け。
動いていないと、押しつぶされる。
自分の弱い心に、侵食される。

竦みそうになる足を無理やり動かす。
心を穏やかに、柔らかく。
大丈夫。
心を強く保てば、喰われない。

さあ、いかなきゃ。
奴らはきっと二階にいる。
ずっとずっと、気持ち悪い悪意が上から降り注いでいる。
館中に絡みつく黒い触手が、俺の脚にも絡まってくる。
力を使おうとして、ポケットの鈷を取り出す。
手より少し大きい、体温をうつして温かい金属は、手によく馴染んでいる。
力を、鈷を覆うようにまとわせる。
直接使うよりは弱くなるが、安定してパワー消費が緩やかになる。
燃費の悪い俺は、とにかく節約しなきゃ。

よし。

それで体の周りを振り払う。
触手は力なく切り捨てられた。
これにはそこまで強い意志はないようだ。

早く見つけて、逃げる。
長引けば俺の不利だ。

早足で闇の中を駆け抜ける。
足場が悪いので、そこまでスピードが出せない。
これも、家族たちなら見えるんだろうな。

纏わりつこうとする触手を切り払い、俺は先を急ぐ。
よし、あと少しで階段だ。

と、急に体を虫が這いまわるような不快感が駆け抜けた。

「…っ!?」

咄嗟にその場から離れる。
その瞬間。

がしゃん!!

3秒前までいた場所に、瓦礫が降り注いだ。
その10秒後に、何が起きたかじわじわと理解する。

「………おいおいおい、洒落にならねえよ」

簡単に頭がスイカになれそうな瓦礫の塊が、からんと小さな音をたてて転がった。
確実に自分を狙っている悪意に、背筋に寒気が走る。
カタカタと、小さな音がする。
その音にも反応して、咄嗟に後を振り返る。
けれど、何も見えない。

なんだ、なんの音だ。
周りを見渡して、気づく。

ああ、自分が、震えているんだ。
自分の震えに呼応して、鈷についた小さな金具が揺れていた。

情けない。
でも、怖い。
抑えられない。
虚勢を張ってもいられなくなる。
今までこんなに、ビビったことはない。

なんだよ、なんでこんなビビってんだよ。
いくら一人だっていっても、いくら強い奴だっていっても、これくらいの経験、あるだろ。
ビビりすぎだろ。
いつだって強がって、どんな怖い相手にも立ち向かって見せただろう。

分かってる。
分かってるんだ。
分かってる、あいつがいない。
虚勢を張ってみせる相手もいない。
情けないところを見せたくない人間が、いない。

くそ、あんな奴がいないせいでこんなにビビってる自分がムカつく。
ああ、思い出しただけでムカついてきた。
あいつのにやけヅラを思い出すだけで、イライラしてくる。

悔しくて、きつく唇を噛みしめる。
恐怖を、怒りで塗りかえる。

よし、気力が沸いてきた。
こんなところでへばって喰われでもしたら、死んでまであいつに馬鹿にされるだけだ。
絶対佐藤と、おまけに平田を連れて、ここから出る。

顔を上げる。
いつのまにか、震えは止まっていた。



***





でも、気合いでなんとかなったのは、二階に上がるまで。
二階に上がったとたん、一階とは比べ物にならないぐらいの圧迫を感じた。
一階がバタークリームだとすれば、二階は堅めのゼリー。
息苦しくて、足が重くて、鈷でかき分けるようにして先に進む。
二階の方が庭の木々から解放されて明るいはずなのに、更に暗闇に沈んでいる。

新鮮な空気を吸いたい。
一呼吸するたびに、黒いものが体の中に溜まっていく気がする。
防いでいるはずなのに、じわじわと侵食されていく気がする。
空っぽの体の中に、入り込まれる。

気持ち悪い。
色々なところから音がする。

キイキイ。
カタカタ。
ザワザワ。

聞いているだけで不安定になってくる。
努めて意識をそちらに向けないようにして、足を速める。

「う、っわあ」

途端、何かに躓いてこけそうになった。
慌てて壁に手をついたが、つるりと滑ってバランスを崩す。

「と」

トスンと膝をついて、何に滑ったのか上を見上げる。
そして、喉がひきつった。

「ひっ」

壁は一面、赤い液体で彩られていた。
そのどす黒く赤い液体がなんだかは分からない。
何かなんて、考えなくない。
一瞬前まで、こんなものなかったはずだ。
粘性のある液体で、同じ言葉がずっと並んでいる。

苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい

立ちあがることもできないまま必死で、悲鳴を呑み込んだ。
喉が引き攣れて、何度も痙攣のように震える。
叫ぶな叫ぶな叫ぶな。
叫んだら、今まで張りつめたものが全て壊れてしまいそうだ。
両手で口を押さえて、ひたすら悲鳴を必死に飲み込む

これはだたの字だ。
何で書かれていようと知るもんか。
馬鹿なヤンキーとかの落書きと一緒。
むしろこれはあいつらが書いたものかもしれない。
そうだ、そうに違いない。

カラ。

必死に落ち着こうとしていると、膝をついた瓦礫だらけの床で何か音がした。
何かと視線を向ける前に、膝をついた床が崩れてバランスを崩す。
落ちる!?

「あ、うわああ!?」

せっかく我慢していた悲鳴が、出てしまう。
違う、床が崩れた訳じゃない。
床に沈み込んでいるんだ。
ずぶずぶと、膝から床に埋まっていく。
堅いコンクリートで出来た床が、まるでクリームのように溶けて俺を飲み込んでいく。

「う、わあああああ!!」

手をつこうとしても、ついた手すら飲み込まれる。
掻き分けるように手をふっても、そんな動きもものともしない。
すでにみぞおちまで埋まってる。

どうするどうするどうする。
このまま全てを呑み込まれたらどうなる。

だめだ。
落ち着け。
落ち着け落ち着け。

これもあいつらと同じものだ。
コンクリートじゃない。
だから、力で振り払える。

ああ、もう腹まで埋まっている。

だめだ落ち着け。

飲みこまれたらどうなる。

落ち着け。

苦しそうだ。

落ち着け。

死にたくない。

落ち着け。

いやだ。

「宮守!」

高い、綺麗な声が響く。
その声に、混乱していた意識が急速に現実に戻る。

「くっ」

鈷にもう一回り力を巻きつけて、振り払う。
纏わりついていたコンクリートが体の周りから離れる。
一瞬の間をついて、鈷を壁につきたて、体をひっぱりあげる。
ぽっかりと空いた穴に引きずり込もうと、闇が足に絡みつく。

「くっそ!」

足に力を纏わりつかせる。
黒いものが、怯えるように逃げる。
足を穴の中についても、沈まない。
そのまま、体をひっぱりあげ穴からかけのぼった。

「くっ、は、はあはあはあ」

咄嗟に、力をだいぶ使ってしまった。
苦しい。
極限まで水を飲まなかったように、乾いている。

穴の横に転がったまま、息をつく。
その間も力を消せない。
苦しい。
力が、欲しい。

「宮守…?大丈夫?なに、今の……なんで床…」

さっき聞こえた声が、心配そうに近づいてくる。
誰だ。
綺麗な、女の声。
なんとか上体を起こして、声の主を探す。

「宮守?」
「岡野…?」

そこには、綺麗な白い指で髪をかきあげる、岡野の姿があった。





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