「な…んで、ここに…」

床に手をついて、崩れそうになる体を支える。
頭がグラグラする。
息が苦しい。
酸素は足りているはずなのに、肺の中には入ってこない。
喉が渇く。

「なんでって……、だって、チヅが心配だったし、それにあんたも、一人で…」

岡野は戸惑ったように、目を逸らす。
何度も何度も、白い指が髪をかきあげる。

「危ないって、言ったろ」
「じゃあ、なんであんた一人で残ってんのよ!」
「俺は………」

平気だから、と言おうとして全く平気じゃない今の現状に思い至る。
何一つ、平気じゃない。
力を使い果たして、瓦礫の山に転がっている。
思わず、苦笑してしまう。

「ね、ねえ、大丈夫?」

岡野が足元を気にしながら、少しつづ近づいてくる。
この角度だと、スカートの中が見えそうだ。
こんな時になんだが、ちょっと嬉しい。

「ここまで、大丈夫だったのか?」
「なんか、変な音とか、したけど、それ以外は…」

俺に攻撃が集中していたのだろうか。
それならよかった。
ずるずると、体をなんとか引き起こす。
座り込んで、血文字らしきものが書かれている方とは別の壁に体を預ける。

岡野の、綺麗な足がよく見えるようになった。
ああ、一人で平気とか言っておきながら、とんでもなく今ほっとしている。
一人じゃないってだけで、なんの力のない岡野でも、こんなにも心強い。
自分すら守れないのに、足手まといが増えただけだってのに。
どうせなら、兄達や、あいつが来てくれたら、よかった。
いや、違う。
兄達だ。
一兄達が来てくれればよかったんだ。

「そういえば、俺の家って電話かけてくれた?」

すぐそこに来ていた岡野を見上げる。
相変わらず、スタイル抜群だった。
細い指で髪をかきあげる仕草も、大人っぽい。

「え、あ、うん、あいつらに任せてきた」
「あれ、そういえば槇達は」
「家に帰らせたよ」

一人出来たのか。
岡野は、勇気があるんだな。

いや、ちょっと待てよ。
一人で、ここに来た?
女の子が一人で、こんな怖いところに?

「………ドア、あいたのか?」
「開いたよ、簡単に」

どういうことだ、この家が岡野をエサだと認識して招き入れたのか。
あんなにしっかりと閉まったのに。
それよりも、一人で、こんなところに来るか。

「ねえ、大丈夫、宮守?」

岡野の白い指が俺の頬に触れようとする。
細く、白い指。

岡野は、髪を掻きあげるのが、癖だった。
そうだ。
でかくてごつい指輪を沢山つけた指で、髪を掻きあげる。
その度に俺は、指が重くないのかなって思ったのだ。

なんで、この指、何もつけてないんだ。

「………誰だ、お前」
「何言ってるの、宮守」
「お前は、岡野じゃない!」

後ろに下がって逃げようにも、後は壁だ。
痛いぐらいに背をくっつける。

がっ。

岡野が俺の頬を掴んで笑う。
ギリギリと、音を立てるぐらい、力を込められる。

「ぐ」
「岡野だよぉ、ねえぇ、みやもりぃ」
「くっ」
「ねぇぇ、だいじょうぶぅぅ?」

岡野の綺麗な形をした口が、耳辺りまで裂ける。
反対の手を無理やりこじ開けられた口に突っ込まれる。
白くて細い手は、なぜか流動性をもって、喉の奥へと流し込まれた。

「う、げ、ぐ」

入り込んできた白い指が、なぜか喉を入り、胃の中にまではいってくる感触。
うねうねとうねる流動性のあるチューブのようだ。
胃カメラを呑むのってこんな気分なのかな、ってどうでもいいことがちらちらと思う。

内部が、かき回される。
無理矢理水を飲まされるように、どんどん俺の中に入り込んでくる。
だめだ、喰われる。
内部が、荒らされる。
このまま黒いのに、侵食される。

「ぐ、うううう」

岡野モドキは、すでに人間の形から遠く逸脱していた。
真っ黒な人型になって、それはまるで壁に映った影のようだった。

頬にかかっている手を外そうと、必死に爪をたててひっぱるがびくともしない。
喉のを圧迫と内部を荒らされる苦痛で、涙があふれてくる。
ぐるぐると、中に黒いものがたまっていって、内部からじわじわと、喰われていく。
だめだ、このままじゃ、本当に喰われる。

岡野を見たあの一瞬、気を抜いた。
ガードを解いてしまった。
力を使い果たしている。
心のほうも、安心で空っぽになった。
そこを狙われた。

くそ。
くそくそくそくそ。

痛い。
苦しい。
痛い。
いやだ。
怖い。
怖い。
怖い。

消えたくない。
喰われたら、どうなるんだ。
家族には、お前は喰われやすいと言われていた。
喰われたら、あいつらの人形になる、だっけ。
その時は殺してやると言われていた。

それに、佐藤は、どうなるんだよ。
俺が、止めなかったから。
俺が止めなかったからこんなことになってるのに。

いやだ。
いやだいやだいやだ。
死にたくない。
佐藤を、助けたい。
死にたくない。
怖い。

鈷は、さっき襲われた時にはずみであっちに転がっている。
もう一度振り払うほどの力を作るストックはない。

どうしたらいい。
いやだ。
力が欲しい。
なんで俺は、こんなに弱いんだ。

腹の中に、黒いものが溢れかえりそうだ。
苦しい。
苦しい。
じわじわと、侵食されていく。
溢れかえりそうな、力。

あ。
いや。
でも。
いや、できるか。

そうだ。
力は、ここにあった。

「く、ううう」

使えるか?
分からない。
でも、何度もやった作業だ。
自分の中に入り込んだ別の力を、自分のものへと変換する。

大丈夫だ。
できる。
できる。
力の細かい使い方は、誰よりもうまい。
これだけは、俺が自信をもっていいこと。

イメージする。
苦しくて気がおかしくなりそうだ。
でも心を落ち着けて。
落ち着けろ。

青い海のイメージ。
澄んだ、水色と青のグラデーション。
呼吸もろくにできないから、辛い。
でも必死に、頭の中を真っ青に変える。

中にある黒いものを、徐々に色を薄くする。
駄目だ、すべてはやっぱり無理だ。
少しでいい。

「う、うううう。ぐ、う」

痛い。
喰われている。
駄目になる前に、カタをつける。

黒いものを少しだけ、取り分ける。
黒い色を薄くする。

黒から、濃い灰色。
灰色。
灰色から白。

そこまでで、かなりの気力を要した。
頭がぐらぐらする。
涙が、止まらない。
集中が解けそうだ。
だめだ。
後少し。

気合いを入れ直す。
遠のきそうな精神を必死でつなぎとめる。

そしてそこからまた色を濃くしていく。
大丈夫、ここからは慣れた作業だ。
白から水色へ。
そして、透き通る青へ。

よし。

これで一回はいける。
一回でこいつを仕留める。

どこだ。
どこを狙えばいい。
核は、どこだ。

この黒いものは、どうやらひとつの存在だ。
家と一体化している。
家とのつながりを、切ればいい。
力の供給を断て。

探れ。
後少しだ。
踏ん張れ。

力の動きを、感じろ。

ここだ。

イメージしろ。
振り払う、そうだ、鎌。
切り落とす。
最後の力を振り絞って、家から力の供給原らしき右足に力を振るう。

「きぃいいいい、ひいいいぃいいいいいいいいい」

耳につんざく嫌な声で、影が悲鳴を上げる。
よし、ビンゴだ!

少しだけ残した力を全身にまとわせ、影を振り払う。
喉から手が抜ける。
抑えられていた頬が解き放たれる。
しゅるしゅると、影はみるみる小さくなっていった。

そして、完全に体が解放される。

「あ、か、は、げほ、くっ、かは」

喉にまだ異物感が残る。
体の中には、いっぱいの黒いものが残っている。
吐きだしたくて、何度もえづくが、出てこない。
まだ中は荒らされている。
じわじわと中身が溶かされるような、緩慢な痛みを感じる。

苦しい。
痛い痛い痛い。
いやだ。
助けて。

早く、吐き出さなきゃ。
できないなら、変換を。

でもだめだ。
もう精神を統一もできない。
力も練れない。

いやだ。
どうしよう。
逃げなきゃ。

しかし。
その時、壁から床から、黒い蔦が飛び出してきた。
俺を拘束するように、手足に体に巻きつく。

「ひぃっ」

情けない声がでる。
しかし、体は動かない。





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