バシ! はじけた音がして、世界が揺れて、尻餅をつく。 手に感じる感触は柔らかい絨毯で、倒れ込んでも別にそこまで痛くない。 ただ、何が起こったのか、理解ができなかった。 「三薙、大丈夫!?」 「あ………」 雫さんが俺のいた位置に、警棒をかざして立ちはだかっている。 それでようやく理解する。 思わぬ事態に息すら出来なかった俺の代わりに、雫さんが俺を突き飛ばし警棒で鋏を薙ぎ払ったようだ。 「だ、大丈夫」 いまだに心臓はバクバクと大きく跳ねあがり、耳元で鼓動の音が聞こえる。 恐怖と驚きに、指先が冷たくなっている。 「誰かいるの!?」 背の高い少女は、俺を庇うように前に立ち、気配を探る。 雫さんの全身にみなぎる力の色は、赤。 彼女の激しさを表わすような、強い色。 その強い切れ長の目で辺りをじっと見渡す。 「出てきなさいよ!」 カタカタカタカタ。 もう一度雫さんが叫ぶように言うと、部屋の中の家具や窓が音を立てて揺れ始めた。 まるで俺たちを嘲笑うかのように。 「………っ」 二人同時に、息を飲み、きょろきょろとあたりを見渡す。 座り込んで視線が低くなっていた俺は、右手奥にあるクローゼットについた鏡に目が行く。 「なっ」 その鏡には、楽しそうに笑う子供の姿が映っていた。 楽しそうというには、その笑顔には悪意が満ち溢れていたけれど。 不様に座りこんだ俺を見て、口を歪ませ、けれど目は冷たいまま、笑っている。 その顔には、身覚えがある。 そうだ、最初鏡に映っていた、子供の姿。 そして、あの写真の中で幸せそうに笑っていた、子供。 その子供が鏡の中から、笑いながらこちらを見ている。 少年が、ちらりと視線を落とす。 釣られて視線を下げると、そこにはずるずると静かに這いずる蛇のようなものが、今にも雫さんの足に絡みつこうとしていた。 「………っ、雫さん、危ない!」 「え、きゃっ」 慌てて雫さんの体をひっぱり、引き倒す。 そして一応溜めて留めておいた力を使い、蛇のようなものを振り払う。 「な、なに………、なにこれ、リボン?」 倒れ込んだ雫さんが足元を見て、怪訝そうな声を上げる。 生き物のように動きまわり雫さんの足に絡みつこうとしていたそれは、ただの紐だった。 ブルーの、長めのリボン。 今はぴくりとも動かず、ただ力なく横たわっている。 それがどういう意図を持って動いていたかは、もう分からない。 「雫さん、あれ」 「え、………っ」 リボンをじっと見てもいられず、鏡の中を指し示す。 雫さんが息を飲んだ音が耳に響いた。 「あれって」 鏡の中に少年は、まだいた。 少年は、笑っている。 楽しそうに無邪気に笑っている。 「………君が、全部、やったのか」 雫さんと一緒に立ち上がり、渇く唇を無理矢理動かして聞くと、口がピリと痛んだ。 少年は俺を見て、唇を大きく広げて嗤う。 「三薙!」 「っ」 雫さんの声に、気配を感じて慌てて横に飛び退く。 その瞬間、そこにはすごい勢いで飛んできた玩具の車が過ぎ去って行った。 「玩具!?」 「また来る!」 その声に後ろを振り返ると今度はボールが飛んできて、慌てて鈷で振り払う。 とんとんと音を立てて何度かバウンドして、ボールは転がって行く。 勿論玩具を投げつけるような人物の姿は、ない。 「何よ、これ!もう、ウザい!」 「くっそ」 次から次へと飛んでくる玩具に、俺たちは避け、振り払い、たまに当たって翻弄され続ける。 例え玩具と言っても、それなりの重量があるものは痛い。 徐々に徐々に、体力を削られていく。 雫さんを守らなきゃ。 そう思ってちらりと視線を雫さんに向けると、必死に玩具を避けている少女の元へ鈍い光を含んだものが向かっていた。 それは、俺がこの部屋に入った時に降りかかってきたもの。 子供用だけれど立派な刃を持つ、鋏だ。 「雫さん!」 「く!」 俺の言葉に、雫さんが素早く身を翻し警棒で振り払う。 けれど鋏に気を取られたせいで、反対方向から来ていた積木が後頭部に当たろうとしている。 「雫さん!」 その間に咄嗟に入り込み、けれど避けることが出来ずに額に当たる。 勢いが付いていた木の塊は予想以上の力で、目の前が一瞬真っ赤に染まる。 思わずその場に膝をつくと、雫さんが悲鳴に近い声を上げる。 「三薙!くそっ!何、これ、あいつ、どこにいるのよ!」 雫さんが俺を庇ってくれている間に、くらくらとする頭を抑えながらなんとか立ち上がる。 駄目だ、このままじゃ、駄目だ。 体力を奪われるだけだ。 落ち着け落ち着け落ち着け。 考えろ。 どうすればいい。 考える時間が欲しい。 「雫さん、結界を広げる!その間、堪えて!」 「分かった!」 瞬時に答えて、雫さんが俺の前に立ちはだかる。 なんて頼もしいんだろう。 とりあえず、物理的な攻撃は防げないにしても、悪意からは逃れられる。 結界を広げれば、玩具を操作する力は無効化できるはずだ。 「宮守の血によって、この身を害する………」 雫さんの小さな呻き声が聞こえて、気が散って一瞬術を解きそうになる 駄目だ、俺が気を散らしたらその分、雫さんの負担が大きくなる。 集中しろ。 落ち着け。 「我が身を守る盾となれ!」 呪を完成させて、力を注ぎこむ。 俺の周りの結界が範囲を広げて、俺と雫さんを包み込む。 ガシャガシャガシャ。 俺たちに襲いかかっていた玩具は、結界に入りこんだ途端力をなくして落下する。 どうやら、効果はあったようだ。 「………やった!」 「う、ん」 けれど力を大分、使ってしまった。 喉が渇いている。 苦しい。 飢えが始まっている。 さっき切った頬も、積木がぶつかったじんじんして額も痛い。 苦しい。 「ちょっと!」 「え」 俯いて呼吸を整えていると、雫さんが悲鳴じみた声をあげた。 顔をあげると、球体の形をした結界をぐるりと取り囲むように人形やぬいぐるみが張り付いていた。 ビスクドール、海外の奇妙な顔と形をした人形、熊のぬいぐるみ、男の子らしい特撮ヒーローのソフトビニールの玩具。 表情を変えない人形達は、笑いながら、無表情に、その大きな目でこちらを見ている。 「………大丈夫、入ってこれないはずだ。大丈夫」 「分かってるけど、気持ち悪い!」 「うん」 雫さんの心底嫌そうな声に、思わず頬が緩んだ。 確かに、今のところ害はないと分かっているが、動く人形というのはそれだけで不気味だ。 普段はなんとも思わないものなのに、こうして取り囲まれていると背筋がざわざわとするような生理的嫌悪感を感じる。 「………あいついなくなってるね」 いつのまにか、鏡の中の少年の姿はなくなっていた。 やっぱり、あの子がすべての元凶だったのだろうか。 隠さなきゃ、といっていた女性の日記。 隠す理由は、なんだったのだろう。 答えは分からない。 判断する材料が、少ない。 「これから、どうしよう」 「………このまま、待っていても、仕方ないな」 「四天は?」 「遅い、な」 もう、来てもおかしくない。 俺が中に入っていることぐらい、あいつなら分かるだろう。 あいつは俺の居場所が分かる。 それなのに、来ない。 何かあったのだろうか。 大丈夫だろうか。 胸がきりきりと痛む。 「………四天、大丈夫かな」 雫さんの不安そうな声に、俺の胸の中のもやもやも増して行く。 俺が、呼んだせいで、あいつに怪我なんてことになったら、どうしたらいい。 俺が、無謀な行動をしたせいで。 あいつに、何かあったら。 「………大丈夫」 「え」 「大丈夫、あいつは、強いから」 自分の不安を振り払うように、口の中でつぶやく。 そう、大丈夫なはずだ。 あいつは、大丈夫。 だって天だ。 何かなんて、あるはずがない。 そんなこと考えている暇があったら、行動しろ。 「でも、あいつも何か苦労してるのかも。とりあえず、俺たちはここから、抜けだそう」 「………うん!」 雫さんが俺の言葉に、力強く頷く。 そしてにっこりと笑った。 「待ってるなんて、性に合わないしね!」 「あはは」 頼もしい言葉に、こんな時だが笑ってしまった。 明るくて、前向きな、雫さん。 強くて、頼りになる人。 こんな人がいるから、大丈夫。 早く抜けて、天と合流しないと。 「部屋から出れるかな」 雫さんがちらりと後ろのドアを見る。 人形達の先のドアは、いつのまにかぴっちりと閉まっている。 これまでのことから考えて、開けるのには時間がかかりそうだ。 やれないことは、ないだろうけれど。 俺も剣なんかを持っていたらぶった切るって手っ取り早く出れたかな。 今後はもっと攻撃力のあるもの、持ち歩くべきかも。 その今後があるためにも、とりあえず今はふんばらなきゃいけない。 「時間が、かかりそうだな」 「うん、結構強い力で閉まってそう」 「結界を維持して移動して、ドアを開けよう」 「そうだね」 「ドアを開けるのは、雫さんお願い。俺は結界を維持するから」 「分かった」 でも、俺の力は残り少ない。 今だって飢えで目の前がくらくらとする。 いつまで維持できるだろうか。 でもドアを開けるのには更に強い力が必要そうだ。 そっちは雫さんがやるほうが適任だろう。 俺よりも攻性の術にずっと向いている。 「じゃあ、移動するから少し結界を縮小する。俺から離れないで」 「分かった。お願いね」 大きな結界のまま移動するには消耗が激しすぎる。 ある程度小さくしてから、ゆっくりと歩きはじめる。 結界が小さくなった分人形達が近づいてきて、嫌悪感がいや増す。 でも、気にしてなんていられない。 「ついた、じゃあ、ドア開けるから」 「うん」 雫さんが呪を唱えて、力を集中させはじめる。 カタカタカタカタカタ。 すると、部屋全体が揺れはじめた。 ドアが、窓が、ベッドが、大きな音を立てて揺れる。 「雫さんは集中してて」 雫さんがびくりと体を震わせるので、ゆっくりと落ち着いた声で言う。 気をそらせてはいけない。 また玩具が、ぬいぐるみが動き始めて、結界に向かってくる。 さっきよりも、強い力で、結界を徐々に消耗させようとするように、力を叩きつけてくる。 一つ一つは小さな力だが、何度も何度も削られ続けると徐々に結界が弱まって行く。 そこに力を注ぎこむと、飢えが酷くなっていく。 「くっ」 「三薙!」 「大丈夫!」 脂汗が滲んでくる。 熱いのに、寒い。 苦しい。 でも倒れたりする訳にはいかない。 雫さんを守らなきゃいけない。 唇を噛みしめて、部屋の中を見回すと、あの鏡に文字が書かれていた。 しね 真っ赤な液体で書かれた、子供の字。 ざわりと背筋に寒気が走る。 玩具に宿った力がより強くなる。 「っ」 いつまで、持つだろうか。 このままだたと、結界が持たない。 その後は、どうなる。 力を失った俺と、雫さん。 駄目だ、堪えなきゃ。 でも、そういえば、ここを開けてもドアは何重にもなっていた。 そのすべてを今のように突破なしなければいけないのなら、俺たちはもつだろうか。 逃げ切れないのではないだろうか。 他に何か、方法はないのか。 この力は、どこから来ている。 あの少年は、どこにいる。 バスルーム、この上の部屋、洗面所、この部屋。 想像しながら、一つだけ思い当たった。 「か、がみ」 そうだ、その部屋の全部に、鏡があったはずだ。 想像は外れているかもしれない。 でも、あっているかもしれない。 ドアはまだ開かない。 それなら、試してみる価値はあるかもしれない。 「雫さん、少しの間、結界を維持して!」 「え!?」 「鏡、壊せば、いけるんじゃ」 でもあのバスルームでは、鏡が壊れた後に字が書かれたっけ。 でも、攻撃はされなかった。 あってるのだろうか。 分からない。 やってみるしかない。 「結界お願い」 「ううん」 「雫さん!」 ここで押し問答している暇はない。 可能性があるなら、試さなければ。 俺が倒れる前に。 「私が行く!結界といて、補助して!」 「雫さん!」 雫さんがドアの前から離れ、止める暇もなく走りだす。 俺は一瞬だけ面喰って動けず、でもその後慌てて結界を解く。 玩具が襲いかかってくる中、雫さんは少しくらいあたっても物ともせず走り抜ける。 フォローできるように、俺もその後を追う。 雫さんが奥にある鏡に辿りつく。 警棒を振りかぶる。 走ってる間に溜めていた力を、更に強くする。 「危ない!」 鋏や積木やガラス製の球体の玩具のような、より一層攻撃力があるものが雫さんに襲いかかろうとする。 俺はその間に入って、それらを振り払う。 少しだけ当たって、体が軋む。 「我が力、刃となりて闇を裂け!」 雫さんが警棒を、思い切り振りおろす。 ガシャ、ン! 鏡に罅が入り、砕け散る。 部屋の中に響き渡る、耳障りな音。 「………」 「………静かに、なった」 そして、部屋は急激に静寂に満ちる 今まで飛び交っていた玩具達は地面に横たわり、ピクリともしない。 「………だいじょう、ぶ?」 部屋の中には、俺たちの荒い呼吸の音しか聞こえなかった。 |