「………この、ゴミ野郎」

長い髪がぼさぼさに乱れて、荒い呼吸を繰り返し、化粧が落ちかけて顔が黒くなっている。
それでも、岡野は、綺麗だ。
汚い言葉で罵って、阿部を見下ろしている姿が、生き生きとして力のある目が、その上気した頬が、本当に強くて綺麗でかっこよくて、こんな時なのに、身惚れてしまう。
岡野は肩で息をして、ふらりとバランスを崩す。

「岡野!」

慌てて立ち上がり、駆け寄る。
なんとか岡野が倒れ込む前に支えることが出来た。
そして、俺と岡野の横を素早く駆け去っていく影がある。

「女の敵!死ね!」
「し、雫さん!」

雫さんが横たわり苦悶の声を上げる阿部の腹を蹴りつける。
阿部がくぐもった悲鳴をあげて、体を丸める。
強い。

「………つ」

思わず雫さんの姿をじっと見ていると、腕の中の体が重みを増す。
どうやら岡野がふらついて寄りかかってきたようだ。
阿部の方はひとまず平気そうなので、慌ててそちらに意識を向ける。

「あ、岡野、だ、大丈夫!?」

岡野がその猫のように釣り上がった大きな目で俺をじっと見上げてくる。
その温かさと、ちゃんと開かれた目に、じわじわと安堵がこみ上げてくる。

岡野がいる。
無事だった。
涙が出そうになるほど、嬉しい。

「………」
「け、怪我は、怪我、顔に………」

でも怪我をさせてしまった。
嫌な思いをさせてしまった。
可哀そうだ。
岡野に辛い思いはさせたくない。

「………宮守」
「うん?」

じっと見上げていた岡野の目が、更に釣り上がった。
そしてその唇もへの字に曲がる。
なぜか、ごつごつした指輪を見につけた手が眼前に迫ってきた。

「ふざけんな、このへたれ!!!」
「ったあ!」

思い切り殴られた。
しかも拳。
痛い。
すごく痛い。
目の前がチカチカする。
衝撃で手が離れてしまうが、岡野はしっかりと立っていた。

「お、岡野!?」

殴られた頬を抑えながら、岡野を見下ろす。
岡野は忌々しく俺を睨みつけている。

「なーにが、俺はどうなってもいいから岡野は放せだ!お前は悲劇のヒロインか!よくそんなベタな台詞吐けんな!?何様!?自分に酔ってんの!?馬鹿じゃねーの。つーか馬鹿。大馬鹿。死んでも直らない馬鹿」
「え、え、と」

な、なんで怒られてるんだろう。
怖い。
怯む俺に構わず、岡野の口は止まらない。

「男なら阿部を殺して私を守るぐらい言ってみろ!このへたれ!」
「ご、ごめんなさい!」

あまりにも怖くて思わず謝ってしまった。
どうやら俺の行動が岡野を怒らせてしまったらしい。
さっきの台詞が悪かったのか。
でも、あの時はあれしか思い浮かばなかったのだ。
確かに俺の言葉で余計に阿部を激昂させ、岡野を危険に晒してしまった。
やり方が、まずかった。

「ご、ごめん、俺が考えなしな行動したせいで、岡野がもっと危険に………」
「ちげーだろ!脳みそ入ってんのかこのスポンジ頭!」
「ご、ごめんなさい!」

もう一回謝った瞬間に、岡野が興奮しすぎたせいか後ろに体が傾ぐ。
慌てて手を伸ばして支えようとする。

「お、岡野!」
「気をつけて。まだ術が解けてすぐだからあまり興奮しないでください」

しかし、俺が腕を掴む前に、いつの間にか後ろに来ていた天が岡野の背中をそっと支える。
岡野は天を見上げる形で、頬を少し赤らめた。

「あ、ありがとう、四天君」

ひどい。
俺には怒って殴ったのに、天にはお礼なんだな。
まあ、確かに俺役に立ってなかったけどさ。
でも、寂しい。
哀しい。

「いえ、大丈夫ですか。まだ術を解いてる最中だったんですが、ご自分で解除されてしまったので、負担が大きいかと思います」

天もわずかに微笑んで、そっと岡野の体のバランスを戻す。
そんな二人にイライラムカムカしてしまうが、なんとか抑え込む。
二人は、悪くない。
それより、今の天の言葉の方が、大事だ。

「術?岡野に、かかってたのか?天が解いたのか?」
「うん、軽い暗示で眠らされてたみたいだね。弱かったから、なんとか遠隔でも力が届いた」
「………」

そんなの、気付かなかった。
そうか、だから岡野はあんなに乱暴に扱われてもぐったりとしていたのか。
そして、天が術を解いたから、動けたのか。
俺は、気付かなかった。
本当に、役立たずだ。

「まあ、自力で解いた上に自分で脱出しちゃうとは思わなかったけど」

岡野が天の言葉に不貞腐れたように唇を尖らせる。

「………だって、こいつがあまりにへたれなんだもん」
「同感です」

岡野の言葉に、天も笑って同意した
確かに俺は、状況の把握も何も出来ずに、ただ土下座して懇願しただけだ。
へたれに違いない。
何も言えることはない。

「………ごめん」

岡野を、守りたかったのに。
俺の手で、守りたかった。
強いと言ってくれたこの子を、守りたかった。
岡野は腕を組みながら、俺を睨みつけてくる。

「もう二度と、自分はどうなってもいいとか言うな。歯向かったらお前を殺すぐらい言え」
「………だって、そんなこと言ったら、岡野が、怪我するかもしれないし、やっぱり俺、無理だったよ。焦ってて、状況判断甘かったけど、でも、いや、俺が悪いんだけど」

分かってる、俺が悪い。
でも、あの時はあれしか出来なかった。

「勿論かっこよく助けられたらいいけど、でもやっぱり、岡野が傷つくぐらいだったら、自分が傷ついた方がいい」

こんなの言い訳だ。
もっとうまく立ち回れてたら、怪我ひとつさせなかった。
俺は、岡野を守れなかった。

「岡野が、怪我するところとか、見たくない。ごめん、今度から、もっとうまくやる。いや、今度とか、ないようにするけど」
「………」
「………ごめん」

どうして、俺はこうなんだろう。
俺を強いと言ってくれた優しい女の子一人、守れない。

「へたれ!」

つい俯いてしまっていると、思い切り頭をはたかれた。
顔をあげると、岡野がやっぱり俺を睨みつけている。

「………私のせいで、あんたが怪我したら、私が後味悪いだろ!私のためとか、そういうのやめろ!」
「………ごめん」
「だから!違う!」
「え」

岡野が、きゅっと唇を噛む。
それから、聞こえるか聞こえないぐらいの小さな声で言った。

「………あんたが、怪我するところとか、私だって、見たくない。あんたが、怪我をするなんて嫌だ」
「岡野………」

一瞬何を言っているのか、分からなかった。
でも伏せられて影を落とした長い睫とか、その目尻が赤く染まっていることとか。
そんなものに気付いて、胸が熱くなってくる。
思わず抱きしめたくなってしまう。
さっきまで萎んでいた胸が急に膨れ上がって破裂しそうだ。
きゅーっと引き絞られて、キリキリと痛む。

もしかして、岡野は、俺を心配して、言っていたのか。
俺の手際が悪かったのを責めているんじゃなくて、俺の馬鹿な言葉を怒っていてくれたのか。
そういうことなのか。

「………」
「………」

なんて言ったらいいのか分からなくて、お互い黙りこむ。
そこにぐったりとした阿部を縛り上げて雫さんが近寄ってくる。
心配そうに岡野を覗き込む。

「大丈夫?」
「あ、えっと、石塚さん」
「そうそう、雫でいいよ。怪我は平気?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
「よかった」

岡野がぺこりと頭を下げると、雫さんも朗らかに笑った。
さっきまでの言い争いを見ていたのか、とりなすように言う。

「三薙ね、すごい頑張ってたよ。岡野さんのこと、すごい心配してた。だから、ちょっとぐらい馬鹿でも許してあげてね」
「………」

雫さんの言葉に、岡野は答えないままちょっと目を伏せる。
それから頭をもう一度下げた。

「雫さんにも、迷惑かけて、すいません」
「ううん、全然。でも、どうしたの。何があったの」
「そうだ、商店街で買い物してて、それで………」

岡野が事情を説明しようと口を開いたところで、がたりと音がした。
そちらに自然を視線を向ける。

「う、ああああ!」

阿部が両手にナイフを持ってこちらに突進してくる。
ハンカチで縛られていた手は、ナイフで切ったようだ。
ちゃんと縛り上げておくべきだった。

「岡野、雫さん!」
「え」
「きゃっ」

俺と阿部の間には、岡野と雫さんがいる。
二人を咄嗟に突き飛ばして、一歩前に出る。
阿部が付きだしてきたナイフをすんでのところで右に避ける。
制服の左肩の部分を少しだけ擦って、ナイフは宙を切った。

「くっ」

目の前にある腕を叩こうとするが、その前に阿部は腕を一旦引いた。
そして今度は腹の部分を狙ってか薙ぎ払う。
後ろに一歩下がって、それもなんとか避けられた。
しかしまた阿部は一歩前に出て、俺を追い掛けてくる。

「阿部!阿部!」

名前を呼んでも、すでに反応する様子を見せない。
血走ってギラギラと光る眼は、俺を見ながらも、俺ではない物を見ているようだ。

「死ね、死ね死ね死ね死ね!お前が消えろ!」

動きはそんなに早くないし、鋭くない。
避けるだけならそんなに難しくない。
ただ、俺は素手で、相手はナイフを持っている。
なんとか、ナイフを奪わなきゃいけない。

「阿部!」
「死ね!」

単調に、乱暴にナイフを突き付け、払う。
俺の動きに合わせて、ただ追い掛けてきているようだ。

「っわ」

壁を背にしたところで、バランスを崩し後ろに倒れ込む。
阿部は思った通り、ナイフを思い切り突きつけてきた。
その瞬間、左に倒れ込みながらしゃがむ。

「ぐっ!」

勢いつけて突きつけていた阿部のナイフは、予想通り壁に刺さる。
阿部は慌てて引き抜こうとするが、思いのほか深く刺さったナイフは、一回引いたぐらいじゃ抜けない。

「くそ!」

その隙に留守になっていた足を払う。
阿部はナイフを握りしめながらも、突然の動きに対処できず後ろに倒れ込む。
強かに尻餅をつく。
ナイフは壁に刺さったまま、阿部の手から離れた。

「ぐっ」

このまま床に抑え込もうと、その肩を抑えつけ押し倒す。
肩を打ちつけた阿部が、息をつまらせる。

「大人しくしろ!」

そのまま関節を固めようと腕をとった瞬間、襟を掴まれて後ろに思い切り引っ張られた。
予想外のところからの攻撃に、為すすべもなく阿部の上から引き離される。

「な、なんだ!?」

状況を飲み込めなくて後ろを向くと、そこには天がいた。
てん、と声をかけようとしたその瞬間。

「うが、あああああああ、あああ!」

野太い悲鳴が聞こえて、辺りの空気の重力が、増した。





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