赤い。

赤い、世界。。
赤い夕焼けに、一面が燃えている。

今日も、やっぱり、赤い。

「ま、たか」

震えそうになる体を、ぎゅっと抱きしめて抑える。
もしかしたらと思ったのだが、やっぱり来てしまったようだ。

手すりの向こうには、赤い空が広がっている。
マンションの壁は、やはりオレンジ色。
嫌々ながら階段の踊り場から足を踏み出せば、一階とほとんど変わらない景色。
オレンジの壁には左右にずらりと扉が連なっている。

階段室を出たすぐ正面には階数を示すプレートが壁に張り付いていた。
ああ、見たくないな。
見たくない。
けれど、一応、確かめなければ。
一歩近づいて、それを確かめる。

五階。

「………や、っぱり」

諦めに体中の力が抜けて、その場にへたりこみそうになる。
けれど、壁に手をついてなんとか体を支えた。

大丈夫。
大丈夫だ。
これは、夢だ。
ただの、夢なんだから。
何も、起きたりはしない。

早く目覚めたい。
どうしたら、目覚められるんだ。
このままぼうっとしていたら、目覚められるだろうか。
このまま、ここでじっとしている?

「………動いて、みよう」

じっとしていると、気がおかしくなりそうだ。
耳が痛くなるほどの静寂は、自分が一人ぼっちなんだと思い知らされる。
ここでじっとしているなんて、できそうにない。

それに、この前屋上にいた、あいつ。
もしかしたら見間違いかもしれない。
気のせいかもしれない。
人ではないかもしれない。

けれど、もしあいつが、下りてきてしまったら、どうする。

「………っ」

恐怖に体が震える。
駄目だ、じっとしていると嫌な考えばっかり浮かぶ。
どこかに、このマンションから出られる場所があるかもしれない。
とりあえず、動く。
動いて、考える。
階段を、下りてみよう。

また果てがないかもしれないけれど、下りていれば、追いつかれることはないんじゃないだろうか。
それに供給と浄化もしてある。
もしかしたら、四階に下りられるとか、ないだろうか。
試すだけは、タダだ。
正直階段室には近づきたくない。
でも、あそこ以外、下には下りられない。

「………頑張れ、俺」

よし、覚悟を決めた。
恐る恐る、階段室に近寄る。
正面には上り階段。
鉄製の柵を掴んでぐるりと回って、下り階段に踏み出そうとする。

「え」

けれど、そこには天井まで伸びる鉄柵が、行く手を阻んでいた。
頑丈な鉄の棒は、最初から溶接されていたかのように、ノブも継ぎ目も何もない。
隙間からは、下り階段が見えるが、鉄棒と鉄棒の間は10cmほどしかない。

「なんだよ、これ、なんだよ!」

鉄の棒を掴んで揺するが、びくりともしない。
わずかに揺れることも、ずれることも、一切ない。
完璧に、天井と床に、くっついている。

「なんだよ、なんなんだよ」

苛立ち紛れに、手を打ちつける。
何度も何度も打ちつけるが、やっぱり鉄柵はびくともしない。
ただ、手が痛くなることもない。
これは夢。
ただの夢、なのに。

「っくそ!!!」

もう一度、強く手を打ちつけたところで、ふっと、床に影が差した。
何かが、夕日を、遮った。
何かの影が、床に映っている。

「………っ」

何も考えられずに、踊り場から逃げ出した。
上を見る勇気なんてない。
どこにいけばいいのかなんて、分からない。
でも、ただ、その何か、から逃げたかった。

左右に伸びる廊下に一瞬迷って、左に曲がる。
ずらりと並ぶ扉を横目に、全速力で走る。
そういえば、マンションって端に非常階段ってついていたりしないだろうか。
端までいけば、逃げられないだろうか。
そんな、希望的観測が頭をよぎる。
とりあえず端まで逃げてみよう。
逃げて、逃げて、逃げて。

どんだけ長いんだ、この廊下は。
時間の感覚なんてないけど、もうだいぶ走っている気がする。
端は、どこだ。
それとも、端なんて、ないのか?
果ては、ないのか?

「………あ」

不安になってきたところで、廊下の奥に、何かの影が見えてくる。
ようやく、端まできたのか。
どんだけ広いんだよ、このマンションは。
左手に見える影は上と下に伸びている。
あれは、もしかして、階段か。

期待と共に更に足を速める。
でも、おかしい。
なんだ、おかしい。

「………っ」

それを視界に取られられるぐらい近づいて、息を呑む。
そこは、端ではなかった。
廊下はまだまだ先まで続いている。
果てがないくらいに、続いている。

左手の影は、階段室だった。
すぐ右手には、もう嫌になるほど見知ったプレート。

五階。

「い、やだっ!!」

もしかして、戻ってきてしまった?
真っ直ぐ走っていたはずなのに。
階段室から逃げていたはずなのに。

違う違う違う。
これは別の階段室だ。
そうだ。
これは、違うものだ。
また別の階段室に来てしまったんだ。

「………」

速度を緩めて、階段室に近付く。
もしかしたら、下に、下りられないだろうか。
恐る恐る覗きこむ。
床に落ちた影が、ゆらりとゆれた。

「………っ」

駄目だ。
どうしたらいい。
どこにいけばいい。
どうしたら逃げられる。

影はゆらゆらと、揺れている。
近づいている?
もういやだ。
いやだ。
いやだ。

パニックになって、逃げ出す。
でもどこにいっても、またここに戻ってしまう。
どうしたらいい。
どこだ。
どこにいけばいい。
外に、行きたい。

「あ!」

五階なら、大丈夫かもしれない。
ましてこれは夢だ。
疲れもしない。
匂いもない。
それなら、大丈夫だ。
大丈夫に違いない。

俺は左手の手すりに近付いて、思い切り床を蹴る。
飛び跳ねて、乗り越えた。
地面に落ちたら、痛いかな。

「え!?」

けれど、見降ろした手すりの向こうには、何もなかった。
ただ、そこにはオレンジの空が、広がっている。
そういえば、このマンションの外の景色なんて、見たことがなかった。
ただ、空が、ずっと広がっていた。

赤い赤い世界。

「あ、あああああ!」

俺はそのままなすすべもなく、赤い世界に落ちて行った。



***




「あ、ああ!」

落ちて行く。
体が落ちて行く。
赤い世界に飲まれて行く。

「う、ああ!?や、嫌だ!」

肩が、何かに掴まれる。
あの影に、追いつかれた?

「いやだ!いやだいやだいやだ!」

なんとか振りほどこうとするが、手は俺の肩を強く押さえつける。
逃げることが出来ない。
怖い怖い怖い。

「いやだっ!!」
「兄さん、落ち着いて」
「あ、ああああやだ!」
「兄さん!」

パシっと顔を、叩かれて、はずみで目を開く。
そこには、じっと俺を見下ろす、幼い頃からずっと一緒にあった黒い瞳。
いつもと変わらない静かな目が、俺を、見ていた。
これは、この目は。

「あ、………て、ん?」
「そう、四天。今のは夢。ここは現実」

四天。
そうだ、これは、俺の弟。
さっきまでのは夢。
これは、現実。
全身に入った力が、ゆるゆると抜けて行く。

「あ、もう、へ、いき?」
「そう、平気」

ゆっくりと、天が頷く。
いまだに早鐘を打っていた心臓が、ようやく落ち着きを取り戻していく。
目から溢れた涙が、こめかみを伝って落ちて行く。

「………あ……」
「大丈夫?」
「だ、いじょう、ぶ」

落ち着いたのが分かったのか、天がゆっくりと俺を抑えつけていた手を離す。
そして、そのままベッドに座りこんだ。
俺は溢れる涙を手の甲で拭って、天のベッドから起き上がる。
そうだ、ここは天のベッド。
さっきのは夢。

「起きた?」
「………うん。ありが、とう」
「また夢を見たの?」
「………五階、だった」

そうだ。
やっぱり、夢を見た。
そして、五階だった。

「どんな夢だったの?」

天が嫌になるほど冷静に聞いてくる。
でも、その冷たい態度に、徐々に波打っていた心が、平静になってくる。

「………下に、降りられなく、なってて」

階段に鉄柵が出来ていて、下に下りられなくなっていたこと。
廊下を逃げても、多分元の場所に戻ってきてしまったこと。
影が、ゆらゆらと揺れていた。
そして、逃げられなくて、飛び降りた。

「飛び降りるって、また思い切ったことするね」

天が呆れたように、ため息をついた。
話し終った頃には、体の震えも止まっていて、いつもの調子が戻ってくる。

「だって他に逃げられなかったんだよ!」
「じっとしてればいいのに」
「だって怖いだろ!」
「どうなるか分からない方が怖いでしょう」

まあ、確かにそうだ。
でもあの時は他に何も考えられなかった。
ただあのマンションから、逃げたくて仕方なかった。
怖くて怖くて、仕方なかった。

「にしても、やっぱり夢、見ちゃったかあ」
「………」

天がテストで悪い点をとっちゃった、とでもいうように軽く言って寝起きでちょっと乱れた髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
人が死ぬほど怖かったのに、どうにもこいつは真剣味が足りない。

「奥に巣食ってるのかな。力がない奴っぽいから余計にやりづらい」

そんなの、天に分からないなら、俺に分かるはずがない。
先ほどまでの生々しさは薄れてきたが、それでもやはり恐怖は心に強く根付いている。

「………どうしよう」
「うーん」
「八階にいったら、俺、どうなるんだろう」
「まあ、いいことはなさそうだよね」
「………なんか、おめでとう、ゴール!とか、ならないかな」
「なると思う?」
「………思わない」

恐怖を抑えつけるために、冗談交じりに行ってみたが、全然面白くなかった。
天も乗ってくれる気はないみたいで、冷静に返される。
少しは乗れよ、このコールドブラッド。

「それにしても、本当にどこで拾ってきたの」
「知らねえよ!」
「怒鳴らないで、うるさい」

俺が拾いたくて、拾ってきた訳じゃない。
ていうか本当に何かに憑かれてるのかも分からない。
天はため息をついて、ベッドから降りる。
もう、障子の向こうは明るい。
もう朝、なのか。
枕元に置いたケータイを見ると、朝の8時を示していた。
今日は土曜日だから、学校はない。

「変なところとか行った?」

天が自分も机の上に置いたケータイを持ち上げ、開く。
言われて、ちょっと考える。
夢を見る前に、どこかにいったりしただろうか。

「………みんなと買物行ったり、映画行ったり、しただけだ。別に変なところは行ってない」
「なんか変なもの拾って食べたりとかしなかった?」
「俺は犬か!」

拾い食いなんて誰がするか。
変な食べ物なんて、別に、食べたりもしてない。

「あ」
「え、本当に拾って食べたの?」
「そんな訳あるか!」

珍しく驚いたように目を丸くする天に、怒鳴りつける。
でも、確かに、食べた覚えがある。
拾ってはないが。

「ただ、飴、食べた」
「飴?」
「うん、もらった。飴。そうだ。もらった」
「誰から?」

誰から、貰ったんだろう。
変なものと言えば、あれしか、浮かばない。
でも、あの飴は誰からもらったんだろう。
飴は、食べたのだっけ。
おいしかった?
分からない。
覚えてない。

「………わから、ない。誰かに、貰った」
「何それ」

手が、俺に飴を差し出す。
俺は、それを礼をいって、受け取る。
誰から?
分からない。
俺はそれを食べた?
分からない。

「確か、映画の帰り、だった。………誰かから、飴、あげるって、言われて」
「何その唐突な話」
「………分からない」

でも、確かに貰ったんだ。
もどかしい。
すぐそこに記憶はあるのに、辿りつけない。
嫌な、記憶の喪失。

「ものすごく怪しいけど、何も分からないんじゃしょうがないな」

天が軽く肩をすくめて、ため息をついた。
ああ、何かをつかんだと思ったのに。
映画に行って、確か、その帰りに、飴を貰った
映画。
そうだ、映画。

「藤吉!」
「え?」
「藤吉が一緒だった!映画!で、帰り家まで一緒だったんだ!あいつなら覚えてるかも」

勢いのまま、携帯を開いて、数少ないアドレスから藤吉の電話番号を選び出す。
そのまま発信してから、気付く。
あ、まだ朝の8時過ぎだ。

『ふぁい、宮守?』

切ろうかなと思ったところで、通話が開始してしまった。
藤吉の声は、半分寝ている。
ああ、そうだよな。
土曜日の朝なんて、普通寝てるよな。

「あ、藤吉、ごめんな。朝早くから」
『別にいいけど、どうしたの?』

優しい藤吉の言葉に、甘えることにする。
さっさと用事を済まして、切ろう。

「あのさ、俺、映画の帰り、飴貰ったよな?」
『は?』
「飴、誰かから貰わなかったっけ?』
『ごめん、何言ってるかよく分からない」

ちょっと唐突過ぎたか。
落ち着け。
落ち着け落ち着け、俺。
えっと。

「俺達、映画の帰り、どこかよったっけ?」
『えーと、いや、映画の前にハンバーガー食べたな』
「うん」

それは覚えている。
レイトショーだったから、その前に何か食べようといって、ハンバーガーを一緒に食べた。

『えーと、で、映画見て、帰りは真っ直ぐ帰っただろ。お前ぼーっとしてたけど』
「誰にも、話しかけられたり、してない?」
『うん。俺が見てるところではしてないけど。でも、お前の家まで、俺一緒だったよな』
「………うん」

そうだ。
藤吉の家は、俺の家の先だったから、結局最後まで、一緒だったのだ。
じゃあ、あの飴はどこでもらったんだ。
いや、そもそも飴なんて、もらったのか。
分からない。
何も分からない。
なんなんだ、この記憶は。

「………」
『大丈夫か?』
「………あ、平気。ありがとう。朝早くからごめんな」
『ああ、別にいいけど。これでいいのか?』
「うん。ごめん。助かった」

それから、もう一回礼を言ってから、電話を切った。
結局何も分からなかった。
後に残ったのはなんとも言えない、もやもやとした気分。

「分からないの?」

天が机にもたれながら、じっと俺を見ていた。

「………わから、ない」
「知らない人からものを貰っちゃいけませんって、習わなかった?」
「………知らない人かも分からない」
「確かに」

くすっと、天が笑った。
だって、誰から貰ったのか、本当に貰ったのか、何も分からない。
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
今日もあの夢を見るのだろうか。
見たくない。
寝なければいいのだろうか。
でも寝ないで、いつまでもつんだ。
学校もある。
いつまでも寝ないでなんて、いられない。

「どうし、よう」
「力技で吹っ飛ばしてみる?兄さんの精神壊れるかもしれないけど」
「嫌に決まってるだろ!」

天にも、どうにもならないのか。
こいつなら、どうにかできないのか。
超人じゃないって知ったばっかりなのに、やっぱり俺は天に頼ってる。
でも、他にどうしたらいいのか、分からない。

「………後、三日、なのかな」
「まあ、セオリー通りならそうだろうね」
「俺、どうなるん、だろ」
「もしかしたら、ゴールおめでとう!ってなるかもよ?」
「………」

天は全く取り合う気がないようだ。
どうでもいいだろうか。
どうでもいいのかもしれない。
俺を助ける義務なんて、こいつにはないんだから。
俺はいっつもこいつに文句を言ってばっかりの、迷惑な兄だ。

「泣きそう」
「………天」
「怖い?」
「…………」

天が机にもたれたまま、俺を観察するように薄笑いを浮かべて見ている。
心底馬鹿にしたような態度。

「ねえ、兄さん、怖い?」

もう一度、問われる。
悔しい。
ムカつく。
でも、どうしようもなく、本音が零れる。

「………こ、わい」

一度言うと、恐怖が一気に溢れてくる。
あの夢をまた見ると思うと、怖い。
誰も助けてくれない。
誰もいない。
ただ、一人、迷い彷徨う。
怖くてたまらない夢。

「こわい、よ、天」
「助けて欲しい?」

シャツの胸をぎゅっとつかむ。
悔しい。
ムカつく。
でも。

「………助けてっ」

助けて欲しい。
もういやだ。
もう、あんな思いをするのは嫌だ。
もう、いやだ。
一人では、もう頑張れない。
誰か、助けて。

「俺はね、なりふり構わず自分の望みを言う人は、好きだよ」

天が、満足そうにくすくすと笑った。
珍しく、本当に楽しそうに目を細めて笑っている。

「………天?」

そこで、天の手の中の携帯がかすかな振動を伝える。
二回ほど振動して、それは止んだ。
メール、か。
天が二つ折りの携帯を開いて、何かの操作をする。

「と言っても、ごめんね。せっかく頼ってもらったけど、俺より適任がいる」
「え」

それから首を傾げて、小さく皮肉げに笑った。
パタン、とケータイが閉じられる。

「よかったね。今日の夜には帰れるって」
「………誰、が?」

適任?
俺の夢をどうにかできる人が、いるのか。
天が軽く肩をすくめる。

「双馬兄さんだよ」
「あ」

そうか。
どうして、今まで思い至らなかったんだろう。
そうだ、双兄だったら、確かに誰よりも適任だ。

双兄は一兄とも四天とも、ましてや俺ともまったく力の使い方が違う。
一族の中でも特異な能力を持っている。

夢喰い。

夢を操り、闇を喰う人。





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