ざり、ざり、ざり。 砂利道から僅かに外れた茂みの中から響く足音。 一旦止まっていた足音は、明らかにこっちに向かって歩き出す。 道を塞ぐように張った結界の切れ間を見つけてしまったようだ。 「………来ちゃった」 ごくりと、藤吉が唾を飲み込む音が大きく響く。 自分の心臓の音も、周りに聞こえるのではないかというぐらい大きく響いている。 落ち着け落ち着け。 佐藤は藤吉に任せておいて、俺はあいつに集中すればいい。 「まだ札はある?」 藤吉が黙って札をもう一枚差し出してくれる。 さっきのが藤吉グループのものだとしたら、これは俺達グループのものか。 「………」 結界を張って、佐藤と藤吉を守るか、それともこれでさっさと祓ってしまうか。 足音が近づくことに焦りながら、必死にどちらが正しい選択なのかを考える。 佐藤と藤吉を守りながら一兄達を待つのが正しいだろうか。 ざ。 「………止まった?」 足音が、急に止まる。 俺は顔を上げて辺りを見回す。 やはり足音はしない。 「あ、鏡」 先ほどまで足音がしていた場所を、鏡で照らそうと取り出す。 焦ってうまく動かない手を無理矢理押さえつけてコンパクトミラーを開く。 やや後ろを向いて、鏡を開くと、手を伸ばせば届きそうな位置に血走った目があった。 「う、わあ!」 そいつは、後一歩で手がかかるぐらい目の前にいた。 血走った目が、ぎょろりと俺を睨んでいる。 思わず逃げるために、咄嗟に一歩後ろに下がる。 そして、そいつの目がより鮮明に鏡映る。 「て、駄目だよ!」 鏡だから混乱したが、あいつは後ろにいるのだ。 慌てて二歩ほど前に出て距離を取る。 「な、何?どうしたの!?」 藤吉が俺の不可解な動きに目を白黒させている。 驚きと恐怖でもつれる舌で、俺は今の状況を訴える。 「な、なんかそこにいた、す、すぐそこ」 足音はしなかったのに、すぐそこにいた。 ものすごく心臓に悪い外見をしているので、驚きと恐怖が更に増す。 もうちょっとかわいい顔していてくれればいいのに。 「え、ええ!?なんで!?」 「わ、分かんない。じゃ、ジャンプでもした!?」 「いや、俺に聞かれても!」 確かに、藤吉に聞いて分かるはずがない。 落ち着け。 ああ、もう、鏡から目を離したいのに離したらあいつは近づいてくる。 相変わらず、特に嫌な気配はしないのだけれど、あの血走った目を見ているだけで、気持ち悪い。 「………とりあえず、祓える、かな」 害意があるんだかないんだか、結局一兄達の悪戯なのか分からないけど、祓ってしまおう。 そうしよう、もう祓ってしまおう。 ここは捨邪地じゃないし、土地のバランスが崩れるってこともないだろう。 祓える存在なのかどうか、分からないけれど。 「宮守の血において命ずる、闇に徘徊するもの、我が力の………」 自分の力を札に乗せて、増幅させる。 青い青い海。 晴れた日の空の色を吸って、青く輝く海。 澄んだ青の色、清浄な色を、掻き集める。 「わ!?」 しかし、響いた藤吉の声で集中が一旦途切れる。 一歩前に出てまた距離をつけながら、一瞬だけちらりとそちらに視線を移す。 「佐藤!?」 「さ、佐藤、な、何!?」 目を瞑ったままの佐藤が、藤吉の腕を掴みかかり、その場に引き摺り倒そうとしていた。 驚いて目を離しそうになるが目の端であいつが動いたのが分かって、慌てて鏡に目を移す。 「さ、佐藤どうしたの!?」 「わ、分かんない。離せってば!佐藤!」 「藤吉、平気!?」 「あ、うん、うわ!佐藤!」 一際動揺を込めた、悲鳴のような声。 その声に、耐えきれずにそちらを向く。 しかし、予想に反して、入ってきたのは藤吉が佐藤を振り払い、逆に地面に押し倒している光景だった。 ほっとすると同時に、鏡を完全に見失ったことを気付く。 「あ、駄目だ!」 慌てて鏡を見るが、すでにその手は俺の背中にかかりそうになっていた。 咄嗟に振り返り、自分を庇うように顔の前に腕で覆う。 ざしゅ。 腕に鋭い痛みが走り、赤い線が出来る。 つっと、腕に濡れた感触がした。 「くっ」 「宮守!」 痛みに呻くと同時に、藤吉が近づいてきて俺の目の前の何もない空間に蹴りをいれた。 俺が慌てて藤吉を庇ってその間に入って鏡を見ると、鏡には何もいない。 焦って辺りを映しまくったところ、あいつは俺から一歩離れたところで地面に倒れていた。 相変わらず首が後ろ側に90度に近い様子で折れているから分かりづらいが、尻餅をついたわけではなく前に倒れ込んでいるようだ。 「ええ!?蹴り効いてるの!?」 「え、効いた!?」 「お前見れるの!?」 「いや、宮守の反応からしてそっちかなと、俺なんか殴れた!?」 「お前すげえ!」 「おお、すげえ!」 こくこくと頷くと、藤吉もなんだか喜んで歓声を上げる。 物理的な攻撃をするなんて考えもしなかった。 「う、わ、さ、佐藤!?」 「宮守!?」 ほっとしたのもつかのま、今度は放りだしていた佐藤が俺の腕にしがみついてきた。 相変わらず目は瞑っているので、佐藤の意志ではないようだ。 その細くて華奢な手が、俺の首にかかりそうになる。 「佐藤、やめろって!」 鏡から目を離せないし、振り払えないしどうしようかと思っていたら、藤吉が佐藤を引きはがしてくれる。 そしてそのまま羽交い締めにして暴れる佐藤を拘束してくれる。、 「あ、ありがと、藤吉」 本当に藤吉がいてくれてよかった。 俺一人だったらどうなっていたか、分からない。 素人の藤吉に頼っているなんて、情けなすぎるけど、今はただ素直に感謝するしかない。 「ちょっと、そのまま押さえてて」 「ラジャ!」 藤吉が頷いたのを目の端で確認して、急いで術式を組み立てる。 佐藤の抵抗はそれほど強いものじゃないみたいだけど、藤吉が振りほどかれる前にさっさとしないと。 「闇を渡りしもの、闇に返れ!」 呪を唱え終わり、鏡を見ながら、やや難しいながらも斜め前を向いてそいつがいる場所に札を叩きつける。 「………」 「出来た?」 「………手ごたえがない。ていうか消えない」 「………」 けれどそいつは、変わらずそこにいた。 札は確かに触れているのだけれど、消える様子も、何かダメージを受けている様子もない。 「う、ううう」 「佐藤!?」 どうしたものかと考えていると、佐藤の呻き声が響く。 いつも明るく朗らかに笑っている佐藤とは思えない、低く野太い、男のような声。 焦るけれど、鏡から目を離せない。 どうしたらいいどうしたらいいどうしたらいい。 落ち着け。 出来ることはそう多くない。 ベストじゃなくていい、ベターを目指せ。 「う、ぐぅあ、あ」 「さ、佐藤、おい」 呻いて暴れる佐藤と、藤吉の焦った声に、一つ思いつく。 「藤吉、ちょっとこの鏡見てくれる?」 鏡にそいつを映して目を離さないようにしながら、佐藤を押さえつける藤吉に近づく。 そして、なんとかお互いの間に鏡を置いて、藤吉に見せる。 「………う、わ!」 藤吉が佐藤を後ろから羽交い締めにしながらも、驚きの声を上げた。 「なんか見える?」 「………首がアクロバティックな方向を向いているお姉さんが見える」 「そっか、よかった。じゃあ、これ見ておいて貰ってもいい?」 「え、やだ!」 「頼む、佐藤は俺が引き受けるから!」 素で断る藤吉の気持ちもよく分かる。 こいつをじっと見ているのは、気持ちがいいものではない。 ていうか、気持ちが悪い。 けれど、今はそう言ってもいられない。 「………早くしてね」 藤吉はなんとか観念してくれて、泣きそうな顔で頷いてくれる。 本当に、こいつがいてくれてよかった。 前の時もそうだったけど、藤吉は恐怖で顔が青ざめていようと、冷静だ。 俺なんかよりずっとずっと肝が据わっていて、強い。 「うん、ごめん。絶対あいつから目を離さないで」 「わ、分かった」 そしてなんとか佐藤と鏡を交換する。 関節を固めて動けないようにしながら、佐藤をゆっくりとその場に座りこませる。 「う、ううう、うぐ」 「ごめんね、佐藤」 更に暴れる佐藤をうつ伏せにして、砂利に抑えつける。 怪我とかはさせたくないが、暴れたら更に怪我をさせてしまうから、仕方ない。 「宮守の血に従いて………」 札はさっき使ってしまった。 自分の力でなんとか祓うしかない。 大丈夫。 そこまで強い力ではない、なんとかなるはずだ。 「あ、宮守、動いてる!」 「え!?」 「ゆっくりだけど動いちゃってる!」 けれど、藤吉のその言葉にまた集中が途切れる。 どういうことだろう。 鏡を見ていたら、動かないのではないのか。 それとも、見ている人の力にもよるのだろうか。 「わ、分かった」 けれど動いているのなら、一刻の猶予もない。 さっきは俺に攻撃をしてきた。 つまり害意はあるのだ。 俺はいいけれど、藤吉が傷つけられる訳にはいかない。 一兄を待っている余裕もない。 だったら、どうすればいい。 術を組み立てている暇もあるか分からない。 「っ」 落ち着け。 くそ、こんな時、天だったら力を解放するだけでこんなの祓えてしまうだろうに。 けれど、俺にはそんな力はない。 なんで俺は、こんなに力がないんだろう。 俺にはそんなことは出来ない。 駄目だ、落ち着け。 出来ないことを考えても仕方ない。 でも、早くしないと。 俺に出来ること。 俺に出来ることは、そう多くない。 自分の力で、出来ることを、迷わずに為せ。 「………っ、宮守の名において命ずる、清き体に巣食う闇よ、そこにいることを禁じ………」 祓うための呪を、別のものへと切り変える。 こちらの方が術の組み立ては早い。 そして何より、俺の体質にあっている。 「我が身に収まり、我が力となれ」 うつ伏せに倒れている佐藤の背中に手を置き、呪を唱え終る。 俺の力を、佐藤の中に忍び込ませる。 佐藤の奥に感じる、邪の気配を探り当てて、自分の力に乗せて同化させようとする。 「んっ」 そのまま抵抗して逃れようとする力を絡めとり、佐藤の中から引きずりだす。 力を伝って邪が、俺の中に入り込んでくる。 禍々しくどす黒いそれが、体内に入り込み、逃げようと暴れる。 暴れ狂う凶暴な動物でも飲み込んだような気分。 腹の中が、食い荒らされる。 「う、く」 それでも最後の最後まで、佐藤の中からそれを引きずりだす。 全部自分の中にしまいこんだ時には、結構な容量になっていた。 大したことはないと思っていたが、それでもやっぱり相いれない物を体内に入れるのは、とんでもない苦痛だ。 「は、は、はあ、はっ」 痛みと違和感に、呼吸がうまく出来ない。 倒れ込みそうになる体をなんとか押さえて、佐藤の傍らにしゃがみこむ。 すっかり佐藤は大人しくなって、穏やかな顔で、呼吸も正常だ。 「だ、大丈夫か、宮守!?」 「だい、じょぶ、あ、あいつは」 暴れまわる邪を、力で抑えつけようとするが、結構使ってしまった力では、なかなか作業が進まない。 押さえつけて飲み込んでも、消費する力の方が激しくて、どんどん消耗していく。 「あ、れ、あ、いない。あいつ、いない!」 「ん」 藤吉がきょろきょろと鏡を向けて辺りを見回すが、あいつはいなくなったようだ。 自分の予想が外れていなかったことに、ほっと息をつく。 「佐藤、は?」 「平気そう。何もない」 藤吉が近づいてきて、佐藤の傍らに座りこむ。 そしてしばらく様子を見て、大丈夫そうだ、と答えた。 「………そう」 札をあいつに叩きつけたところで、苦しむように呻きだした佐藤。 もしかしたらあいつと佐藤の中にいる奴は連動しているんじゃないか、と思ったのだ。 ただの直感だったのだけれど、間違ってはいなかったようだ。 まあ、これで間違ってても、それなら俺が鏡とにらめっこして誰かが来るまで待てばよかっただけだ。 なんとか、なったはずだ。 「宮守」 「だい、じょうぶ。また、一兄か、天がくれば、へいき」 「うん」 藤吉がうずくまって腹を押さえる俺の背中を優しく撫でてくれる。 寒かったはずなのに、脂汗で全身がじっとりと濡れている。 ああ、また藤吉に心配をかけてしまう。 でも、何もないフリはできない。 あの時よりは、幾分マシだけど、でも苦しい。 早く、早く来て、一兄、天。 「ごめんな、宮守」 「うう、ん」 心配に顔を曇らせた藤吉が、俺の背中を労わるように撫でる。 そんなはずないのだけれど、痛みが和らぐ気がした。 優しくて頼もしい藤吉。 怖いだろうに、一兄達を呼びに行ってくれた岡野達。 そして倒れている佐藤。 守れたなら、いい。 皆を守れたなら、いいんだ。 それなら、こんな痛みぐらい、どうだっていい。 ざっざっざっ。 砂利を踏みしめる音が響く。 一瞬身構えるが、すぐに緊張を解いた。 足音は複数だった。 「三薙!」 その男性の深みのある声に、体から力が抜けていく。 もう大丈夫だという気持ちが全身を支配して、安堵に涙が出そうになってくる。 「三薙」 「いちにい」 一兄が傍らに座りこんで、脂汗でびっしょり濡れた俺の額に触れる。 その大きな手が触れただけで、随分体が楽になっていく。 「大丈夫か?」 「うん」 涙で滲んだ視界に、一兄の後ろの天が見える。 もう大丈夫。 二人がいるなら、大丈夫。 なんの心配もない。 「そうか、よくやったな。お疲れ様」 「うん」 腹の中はまだぐちゃぐちゃで、内臓を溶かされているような痛みを感じる。 けれど、優しく髪を掻きまわされて、俺は大きく息をついた。 |