目を開くと、すぐ前に酷く整った顔があった。 長いまつげに、通った鼻筋、意志の強そうな眉。 目を閉じた寝顔は、年相応に普段より少しだけ幼く感じた。 その顔には、幼い頃からずっと変わらず、複雑な感情を引き起こされる。 「………てん?」 なんで天がいるんだろう。 起こさないようにゆっくりと体を起こして、辺りを見回す。 秩序があるけれど雑然とした、不思議な部屋。 ここは天の部屋か。 てことは、供給したんだよな。 そうだ、昨日は、双兄と双姉と会って、修行して、その後力が消耗したから天に供給を頼んだんだ。 そのまま寝ちゃったのか。 「………」 寝ぼけた頭の片隅で、何か違和感を感じる。 酷く嫌なことを、忘れている気がした。 天と、雑談して、それで、その後、唐突に供給することになって。 「………っ」 そこで、一気に昨晩のことが思い出された。 供給中は理性が吹っ飛んでしまっているから断片的でしかないが、それでもあんなことをされたら忘れることなんて出来やしない。 四天にいつものように供給されて、その後になぜかあんなことされて、もう一度供給されて、最後には後始末までされて、疲れ果てて眠ってしまったのだ。 最後には消耗しすぎて、四天に問いただすことすら出来なかった。 「………」 いまだに眠りこけている弟を揺さぶり起こして、どういうことだと問い詰めたい。 あんな、ふざけた真似をした理由を知りたかった。 供給は、分かる。 あれには、まだ理由がある。 ものすごく嫌だが、確かに効率がいいから仕方のないことだと言われれば納得出来た。 でも、昨日のアレは違う。 全然、違う。 確かに精液は供給の媒介として、効率のいいものだ。 けれど俺の精液では、なんの意味もない。 俺の力を天に渡す訳ではないのだから。 全く意味のない行動。 天がいつも嫌ってやまない、無駄な行動、だ。 「………く、そ」 ベッドの上でうずくまって、顔を埋める。 悔しくて、涙が滲んできた。 最初は羞恥で、混乱していた。 けれど思い出すにつれて、羞恥に加えて屈辱や悔しさを感じてくる。 泣きながら、天の手の中でイった。 男の、弟の、手の中で、笑われて、馬鹿にされながら。 いつもの、俺を馬鹿にするための行動の一種に違いない。 なんで、こんなことをされなければいけないのだろう。 天は、そんなに俺が嫌いなのだろうか。 それにしても、こんな自尊心を粉々にする方法じゃなくても、いいじゃないか。 俺に苛立って仕方ないのだというなら、口で言えばいい。 こんな最低なやり方、しなくてもいい。 最低だ最低だ最低だ。 「ひっ」 ベッドが軋んで、自分の中に入り込んでいた俺は、急速に現実に引き戻される。 顔は上げられなかったが、軋む音とたゆんだベッドで隣にいた人間が体を起こしたのが分かった。 「おはよう」 いつものように、本当に普段通り、何も変わらない様子で、挨拶をされる。 思わず顔を上げて、最低な奴を詰ろうと顔を上げる。 寝起きで少し髪が乱れているが、弟は本当にいつも通り冷静な表情で俺を見ていた。 それがあまりにも普段通り過ぎて、思わず昨日のことは夢だったんじゃないか、なんて思ってしまう。 「大丈夫?後始末はしたけれど、汚れてたりしてないよね?」 けれど昨日のことが事実だったと突きつけたのは、他でもない弟だった。 一気に怒りと羞恥と屈辱で、顔が熱くなる。 色々言いたいことがあるのに、言葉が出てこない。 「あ、あ、あ………」 「言葉になってないよ」 馬鹿にしたように肩をすくめる天に、更に苛立ちが募る。 なんで、あんなことしたくせに、こいつはこんなに普通なんだ。 本当に俺のことなんてどうでもいいっていう態度を崩さない。 どこまで、俺を馬鹿にするんだ。 「何考えてんだよ、お前は!」 「何が?」 「あ、あんなっ、あんな!」 「どんな?」 くすりと笑って寝乱れた浴衣を直す天に、怒りで目の前が真っ赤になる。 焦る俺をまるで珍しい動物でも見るかのように、楽しげに観察している。 「分かってて言ってんだろ、お前!」 「うん、まあ」 全く悪びれない態度に、ベッドヘッドに拳を叩きつける。 「あんなの、おかしいだろ!」 なんで、こいつはこんなに普通なんだ。 あんなことをしておいて、まるで何もなかったかのように振る舞えるんだ。 違う、何もなかった、じゃない。 気にして騒ぐ俺が愚かであるかのように振る舞っているだけだ。 「あんな……、あんな………」 俺にとっては、何事もなかったかのように振る舞えることではない。 まるで玩具のように、道具であるかのように、意志を無視して好きにされた。 しかもそれは、単に馬鹿にするために、だ。 天は綺麗な綺麗な笑顔を浮かべる。 「随分気持ちよさそうにイってたけど?」 「ふざけんな!」 かっとなって、とうとう手が出てしまった。 握りしめた右手を、そのまま天の白い頬に叩きつける。 体勢が整ってない状態での打撃は、スピードもないし、力も乗り切っていない不様なものだった。 「つっ」 「え」 けれど、俺の拳は、ガツっと音を立てて、四天の頬に埋まっていた。 本当に当たるとは思っておらず、思わず殴った俺の方が驚いてしまう。 慌てて手をひくと、天は小さく笑って赤みを帯びた頬を抑えた。 「………なん、で」 「何が?」 「なんで、殴られて、るんだよ」 拳に感じた皮膚と骨の感触が、気持ち悪い。 そりゃ武道の修練の時なんかは、人を殴ったりも殴られたりもするが、それは稽古の上でのことだ。 こんな風に悪意を持って人を殴ったという事実が、後味が悪くて、口の中が苦くなる。 天は俺の質問に頬から手を離して、呆れたようにため息をつく。 「兄さんが殴ったんでしょう」 「だ、だって、お前簡単に避けられるだろ!」 「まあね」 あんなへなちょこな攻撃、天だったら簡単に避ける、または受け止めることが出来たはずだ。 体術も、剣術も、全ての才能は、こいつの方が上なのだから。 「変なの。殴ろうとした癖に実際殴ったら後悔するの?」 「………だって」 本当に殴れるとは、思っていなかったのだ。 いつも、俺が殴ろうとしたら、天は避けて、馬鹿にしたように笑った。 だから、今回もいつもと同じパターンだと思ったのだ。 天は俯く俺に、もう一度ため息をつく。 「相変わらずだね。本気で傷つける覚悟もないなら、最初からやらなきゃいいのに」 「………」 だって、出来れば人なんて殴りたくない。 殴られたら痛い。 痛いのは、嫌いだ。 だから、その痛みを他人にも与えたくない。 「で、これでいいの?」 天の言葉に我に返る。 そうだ、ここで落ち込んでいる場合ではない。 問題にしなければいけないのはもっと別なことだ。 「いい、とか、悪いとかじゃない!なんで、あんなことしたんだよ!」 「ああ、まあ、やりすぎたね。ごめん」 「………っ」 髪を掻きあげながら、天は軽く謝った。 本当にかるーく、お前のおかず食べちゃった、ぐらいの勢いで。 「へ、変態!お、男なんだぞ!ていうか兄弟だし!お前、変態だ!」 「その変態に扱かれてイっちゃう人はどうなの?」 「そ、そんなの、男だったら仕方ないだろ!」 それに、供給もしていたから、普段の状態じゃなかったのだ。 いつだって供給の時は理性を失うし、力だって抜けてしまう。 抵抗なんて出来る訳がないし、男なら直接的な刺激を受ければ反応してしまうのは仕方のないことだ。 そう、自分に言い聞かせても、どうしようもない羞恥にいたたまれない気持ちになる。 「そうだね、仕方ない。生理現象だし。だったら気にしないでおけば?単なるオナニー。最後までやった訳じゃないんだし」 「あ、アホか!」 天はあくびを噛み殺しながら、適当に返事をする。 気にしないでいられる訳がない。 あんなことをされて、いつも通り話せるわけがない。 ああ、もう、天と話が通じない。 「………っ、お、お前馬鹿じゃねえの!」 「そうかもね」 一つ頷いて、天がベッドの上で移動する。 思わずびくりと反応してしまうと、それに気付いた天がちらりと笑った。 そして俺なんか気にせず、ベッドから降りた。 「な、なんでいきなり、あんなことしたんだよ!俺、お前に何かしたか!?だったら口で言えよ!」 「別に何もされてないよ」 机の方に向かう天の背中に、叫ぶように聞く。 俺が何か気に障ることをしたのなら、言ってほしい。 こんな方法で攻撃されるのは、嫌だ。 「なら、なんでっ」 「そうだなあ」 鞄の中に教科書を詰めながら、天は口元に手を当てて少し思案する。 そして俺を見て笑った。 「まあ、気まぐれみたいなものだよ。気にしないで」 「っ」 その言葉に、今度こそ我慢できなかった。 枕を天に投げつけて、叫ぶ。 「お前なんて、大っ嫌いだ!」 しかし今度の枕は、簡単に受け止められた。 「何、また暗い顔して。陰気臭い」 「う」 次の授業までの短い休み時間。 机に寝そべっていると、岡野の呆れかえった声が聞こえた。 顔をあげると、今日もメイクばっちりの岡野が見下ろしている。 きつい顔立ちの岡野に不機嫌な顔で見下ろされると、結構怖い。 「岡野、ひどい」 「だってマジ、なんかゾンビっぽいし。ウザい」 「う よりによってゾンビって、ひどい。 後、ウザいって結構傷つく。 言葉に詰まっていると、岡野の後ろから槇がほんわりとした口調で窘めた。 「彩、言いすぎだよ」 「だってさあ。こいつ365日毎日ウジウジしてるんだもん」 「さ、さすがに毎日じゃないだろ!」 「じゃあ、300日」 「減ってないし!」 「二カ月も減ったじゃん」 そ、そこまでは落ち込んでないと思う。 多分。 落ち込んでたかな。 「でも、本当に今日ふさぎこんでたよな。どうしたの?」 「………藤吉」 俺の後ろからポンと背中を軽く叩かれる。 その気遣う優しい口調が、心に沁みる。 「どうしたの、宮守君。明日旅行なのに、平気?」 「………槇」 更に槇が優しく髪をとかすように撫でてくれる。 気持ちが良くて、なんだか心が温かくなってきた。 双姉に頭を撫でられると居心地悪くて、なんだか馬鹿にされてるようにも感じるのだが、槇にされると恥ずかしいけれど普通に受け止められるのが不思議だ。 慰めてくれる心遣いに、ささくれ立った心が癒されていく。 「宮守君はいっつも頑張ってるしね。疲れた?風邪でもひいた?」 「い、いや、平気、元気!」 別に体は平気なのだ。 慌てて体を起こして、否定する。 これで旅行が見送りとかになったら、悔やんでも悔やみきれない。 供給さえ怠らなければ、俺の体は健康な一般男子と変わらない程度だ。 「そう?」 「あ」 槇が心が一瞬で和むような笑顔で首を傾げてから、手を離す。 失われた温もりに、思わず追いすがるような声が出てしまった。 「あ、今、チエが、撫でるのやめたらすっげ寂しそうな顔した」 「ち、ちがっ!」 「うわー、やらしー」 「う、うっさい、岡野!」 それに気づかれてしまい、岡野がにやにやとしながら顔を覗き込んでくる。 赤くなった顔が見えないように顔をそむけると、岡野の楽しそうな声が聞こえた。 「私が撫でてやるよ」 「いた!いたい!いた、いた!指輪当たって痛い!」 「いい子ですねー」 「やめろよ!マジ痛い!」 「えー」 「この馬鹿力!」 「ああ!?」 でかくてゴツゴツした指輪をいくつもつけている岡野の手は、もはや凶器だ。 そして俺の言葉に、更に力を込めてくる。 本当に馬鹿力だ。 痛い。 涙が滲んできた。 「いいなー、宮守。俺もやってやって」 藤吉が呑気に強請ると、岡野が男らしく手招きする。 「よし、来い」 「あ、出来れば槇でお願いします」 「遠慮すんなって」 「慎んでお断り申し上げます」 とりあえず岡野の興味が俺の頭から離れたようにでほっと一息。 ちょっとだけ岡野と距離を置く。 まだ頭がじんじんする。 結局岡野に撫でられている藤吉は、俺と同じように涙目になっている。 「で、どうしたの?」 「何が?」 「その情けない顔の理由」 そして飽きたように藤吉から手を離すと、岡野が再度聞いてきた。 ていうか、そんなに顔に出ていたのか。 これは、反省しなきゃいけない。 俺は、感情が表情に出やすい。 「あー………」 「本当に大丈夫?」 「うん、平気。えっと、ただ、天と喧嘩しただけ」 心配そうに覗きこむ槇に、つい白状してしまう。 アレを喧嘩といっていいのか、分からないけど。 「チエには素直だよね。あんた」 「そ、そういう訳じゃない!」 「はいはい、二人ともそこまで」 今度は藤吉が俺をからかう岡野と俺の間に入ってくれた。 そして眼鏡を直しながら、首を傾げる。 「弟君と喧嘩したの?」 「そう」 「なに、それでへこんでるの?お前が悪いの?」 その言葉には、即座に返事をした。 「今回ばかりは絶対俺のが正しい!」 あんなの、絶対あいつがおかしい。 今回だけは、俺が悪くない。 それなのに、あいつのあんな悪びれない態度。 思い出すたびに悔しくてムカついて仕方ない。 「今回だけなんだ」 「ま、前だって、天が悪い時があった」 「どれくらい?」 「た、たまに」 追及してくる岡野と藤好に、しどろもどろに返答をする。 いや、確かにいつもは天の方が正しいことが多い。 けれど、今回ばかりは全面的に天が悪い。 「はいはい、彩も藤吉君もそこらへんでね」 何度目かの仲裁に入った槇が、穏やかに笑って聞く。 「それで、何があったの?」 「何って………」 言われて、つい思い出してしまって、頭が煮えたぎる。 一瞬で沸騰してしまって、熱くてふつふつと泡立っている。 「宮守君?」 「た、大したことじゃない!」 あんなの、言えるはずがない。 あんな風に好きなように扱われて、好きなように揶揄された。 最後には泣きじゃくりながら、天にしがみついて達した。 自分が情けなくて、悔しくて、哀しくて、天がムカついてぐるぐるする。 「そう言われてもなあ」 「ねえ」 大したことはないと言った俺の言葉に、藤吉と岡野が顔を見合わせる。 自分で言っておいてなんだが、確かに説得力はないかもしれない。 けれど、言う訳にはいかないのだ。 「な、なんでもない!」 「………」 「………」 藤吉と岡野が、にやりと気持ち悪く笑う。 まるでホラー映画で獲物を見つけた殺人鬼のようだ。 「なーにがあったのかなあ」 「あったのかなあ」 じりじりと近づく二人に、椅子の目いっぱい後ろまであとずさる。 なにがなんだろうが、言う訳にはいかない。 「よ、寄るな!触るな!何もないってば!」 「藤吉、そっち押さえて」 「らじゃ」 岡野の指示で、藤吉が俺の両腕を後ろから掴む。 そしてにやにやと笑う岡野が手をわきわきとさせながら近づいてきた。 そのままその手を脇腹に添える。 「わ、や、やめろ、くすぐったいってば、おい!やめろって!あは、あはは」 くすぐったくて身をよじるが、藤吉のせいで逃げられない。 くすぐり地獄に笑いすぎて涙がまた出てくる。 この地獄から救ってくれたのは、やっぱり槇だった。 「はいはい、二人ともそこまでね」 「ま、槇!」 穏やかに笑いながら二人を止める槇が、まるで女神のように見えた。 ああ、本当に槇はいい子すぎる。 「お疲れ様」 藤吉と岡野の手から逃れ、ようやく一息つく。 槇がぽんぽんと頭を撫でてくれる。 気持ちがいい。 「四天君と、仲直りしたいの?」 「………」 「そうじゃないの?」 聞かれても、自分の感情すらよく分からない。 俺は天と、どういう関係を築きたいのだろう。 「分かんない。元々分かりづらかったけど、最近、本当に何考えている分かんねえ」 嫌みで、なんでも出来て、しょっちゅう失敗ばっかりする俺を馬鹿にしていた。 でも、ここ最近は、それが酷くなっている気がしないでもない。 「俺の態度もよくなかったからさ、少し、天のこと知ろうと思ったんだけど、でも、あいつ、あんな態度ばっかりだし」 せっかく歩み寄ろうとしたのに、気持ち悪いと言われるし、昨日みたいなことになるし。 そういえば天の態度が変わったのは、天の思考をあてずっぽうで聞いてみた時だったっけ。 あれが、天の地雷だったのだろうか。 それなら、やっぱりまた俺が何か悪いことをしたのだろうか。 「じゃあ、ちょうどいいから、旅行中話してみれば。環境変わったら、落ち着いて話せるかも」 悩んで黙りこんだ俺に、槇が穏やかに頼もしく言ってくれる。 「うじうじしてるよりは、その方がいいんじゃないの?少し話でもつければ?」 そして岡野はデコピンと共に、そんな激励をくれた。 「そうそう。全ては明日の旅行でだね!宮守、準備終わった?パスポート持った?」 「同じこと言うな!」 「え、同じこと?」 そして藤吉の馬鹿な発言で感動した気持ちを台無しにされた。 |