家に帰る頃には、すでに辺りは真っ暗になっていた。 もう初冬と言っていい季節、日が落ちるのが早い。 「ただいま帰りました」 長い庭を通って玄関まで辿りついて、帰宅の挨拶をする。 いつもは誰も出てこないか、気付いたお手伝いさんが出てくるか、ごく稀に母さんが出てくるか。 今日はそのどれでもなかった。 「お帰りなさいませ、三薙様」 「あれ、宮城さん。ただいま帰りました。どうかしたんですか?」 いつもは出迎えになんて現れることのない使用人頭の登場に、俺は首を傾げる。 相変わらず気配のしない人で、少しだけ驚いてしまった。 しかも待っていたらしい。 この人が偶然ではなく俺を待っていたということは、理由は聞くまでもないのだが。 「先宮が広間でお待ちでございます」 「父さんが?」 「はい。お荷物はお預かりいたしますので、どうぞ広間までお急ぎください」 果たしてその通りに、当主である父の言葉を告げられる。 しかも広間ということは、父と息子の語らいなどではなく、仕事に関わる話だろう。 「あ、はい、分かりました。えっと、なんの用事でしょう」 「恐れながら存じ上げません。先宮から直接お聞きください」 「分かりました。じゃあ、すいません、鞄お願いします」 「かしこりました」 学校の鞄を宮城さんに預け、俺は早足に広間へと急ぐ。 広間は家のほぼ中心に位置し、管理者としての仕事や、家の祭祀に関わる場合に使用される。 だから俺はあまり近づくことのない場所だ。 障子の前で一呼吸してしゃがみこみ、中にいるだろう人に声をかける。 「先宮、三薙が参りました」 「入れ」 「失礼いたします」 恐る恐る入ると、先宮は広い部屋の上座に悠然と座っていた。 ここにいる時の父は、俺の父親ではなく、宮守宗家の当主、先宮だ。 いつも威厳があり威圧されてしまう人だが、ここにいる時は更に圧迫感が増す気がする。 恐怖すら感じて、後ずさりしてしまいそうになる。 「あの………」 「こちらへ、三薙」 「は、はい」 手招きをされて、俺は先宮の前まで進み出る。 頭を伏せ、その言葉を待つ。 「顔を上げなさい。そう堅くならなくてもいい。お前に頼みたいことがあって呼んだ」 「俺に、頼みたいこと?仕事、ですか?」 許しが出たので顔をあげる。 先宮は俺の言葉に、ゆっくりと首を振った。 「いや、祭祀だ。此度の謳宮祭(おうきゅうさい)ではお前に舞を頼みたい」 「え、あの奉納舞ですか?」 「ああ」 謳宮祭は、大晦日から三が日にかけて行われる宮守家での新年の祭りだ。 親戚中が本家に集まり、行事をこなし、宴会をして帰る。 年の近い親戚に会えるのは嬉しくもあり、家に拘束されるのが面倒でもある祭りだ。 昔は旧暦で行っていたらしいが、改暦からしばらくして新暦に合わせたらしい。 数ある行事の中でも、結構目立つものが、先宮が言った奉納舞だ。 宮守家の中にある御宮で、舞手が奥宮に向けて舞を奉納する。 これに選ばれるのは宮守家内では結構な名誉で、特に若い女の子たちは毎年楽しみにしてるらしい。 俺もあの舞は嫌いじゃない。 嫌いじゃないが。 「………あれって、女舞じゃなかったですっけ」 「別に女舞とは決まっていない。まあ、女が舞うことが多いが、女でなければいけないということではない」 「えっと………」 確かに舞う時は女装してるから、女舞でもなんでもいいんだが、俺が知る限りあの舞を男が舞うところを見たことがない。 毎回男衣装を着た女性か、成人後なら女衣装を着た女性が、舞っていたはずだ。 それなのに、なぜ、俺。 「嫌か?」 「あ、いえ、嫌というか、なんで俺っていうか、そういう」 「舞手は毎年、先宮の宮問いで決まる。今年はお前だったということだ」 宮問いは、先宮が行う占いのようなもの。 宮守家に関わる色々なものも、宮問いで決められていることが多い。 どんなものかは知らないが、その決定が間違っていたことはないみたいなので、そう言われてしまえば納得する他ない。 「受けるか?と言っても、これは先宮としての命だが」 「あ、いえ。先宮の御命、慎んでお受けいたします」 先宮の命をはねつけることなど、出来るはずがない。 宮守家の中で、先宮の存在は絶対。 いくら父とは言え、その命に逆らうことなどできないのだ。 それに、仕事よりかはいくらか気持ちも楽だ。 前まで、あんなに仕事がしたくて仕方なかったのにな。 「そうか。頼んだぞ。準備を怠るな。舞の次第は桐生に聞け」 「はい、かしこまりました」 桐生さんは、舞のお師匠様だ。 大体分かるものの、かなり特訓しなければいけないな。 桐生さんはほんわかしてるくせに厳しいから、少し気が滅入る。 「今回は連れ舞ですか?他に舞手はいるのですか?」 奉納舞は一人で舞う時もあれば、何人かで舞う時もある。 特に人数は決まってないらしい。 そんなフリーダムなところが、本当に宮守らしいと思う。 先宮はゆっくりと頷く。 「三千里のところの五十鈴と、金森の栞とお前の三人だ」 「五十鈴姉さんと、栞ちゃん?」 「ああ。桐生が調整するが、申し合わせもしておくように。宮守にとって大事な祭りだ。心しておけ」 五十鈴姉さんと栞ちゃんなら、知らない仲でもないし、やりやすそうだ。 全く顔の分からない親戚とか、いっぱいいるしな。 俺はそれを聞いて、深く頭を下げた。 「はい、承知いたしました」 「頼んだぞ」 「はい」 確かに大事な祭りだ。 精一杯頑張ろう。 「ああ、それと三薙」 「はい」 トーンが柔らかくなった先宮の声に、顔をあげる。 先宮は先ほど前の厳しい顔とは違い、穏やかな表情をしていた。 「明日は旅行だろう。楽しんでくるといい。これは小遣いだ」 「え、え」 懐から封筒を取り出した先宮が俺に差し出してくる。 戸惑う俺に、先宮は柔和に少しだけ微笑む。 「お友達にもよろしくな」 「は、はい!ありがとうございます、父さん!」 先宮から父の顔になった人は、俺の言葉に鷹揚に笑った。 「三薙」 うきうきしながら廊下を歩いていると、後ろから呼びとめられた。 澄んだ少しだけ低めの女性の声。 どこかで聞いたことがある。 「あ、え、し、雫さん!?」 後ろを振り向いて、驚いて声がひっくり返る。 背の高いすらりとしたショートカットの女性が、こちらを見て手を振っていた。 ジーンズにティーシャツというシンプルな格好がこの人は本当によく似合う。 最後に会ったのはほんの二月ほど前のこと。 けれど随分昔のことに感じた。 「久しぶり」 「ひ、久しぶり!元気だった!?体調は大丈夫!?」 もともとシャープな印象の人だったが、頬がこけて前より痩せた気がする。 切れ長の目が、更にきつくなっている気がする。 それがなぜなのかを考えると、痛々しさを感じて、苦しくなる。 けれど雫さんは柔らかく笑った。 「うん、元気。三薙は元気?」 「俺は、元気だよ」 「そっか、よかった。四天は?あの時、怪我してたでしょ?」 天が怪我をした経緯を思い出して、自分の顔が強張ってしまったのが分かった。 反面、雫さんは特に変わったところはない。 隠しているのかもしれないが、俺ばかりが、気にして、どうする。 「………うん、もうすっかり、いいよ」 「そう、よかった」 以前よりも、落ち着いたように感じる雫さん。 クールな印象とは裏腹に、感情的で怒って笑って泣いていた人。 どこか抜け落ちたかのように、すっかり大人になってしまった気がする。 「今日は、どうして、ここに?」 「ああ、宮守家に後見を頼んだでしょ?その関係で力の使い方とか、管理地の治め方とか教わるの。本格的には年明けに学校が暇になったらだけど、休みの日とかに徐々に通うことになったの」 「なるほど。あれ、でも雫さん、受験生だよね。大丈夫なの?」 「私、推薦でもう進路決まってるから」 「そっか」 「………」 「………」 言葉が途切れてしまい、沈黙が場を支配する。 庭のどこかにいる虫の声と、風が窓をたたく音だけが響く。 前から、管理者にはなりたいと言っていた。 けれど今はどこか、覚悟が違う気がする。 「………管理者に、なるの?」 「なるよ」 俺の質問に、躊躇うことなく返ってきた言葉。 その言葉にも、前は揺らいでいた目にも、一切の迷いはない。 切れ長の目に決意を宿らせ、暗い微笑みを浮かべる。 「なってみせる。あんな奴に、私の土地を奪わせたりしない。あそこは、私の家。私の土地。あいつから全部取りあげてやる。追い出してやる。本物の管理者がどんなかってのを、見せつけてやる。あんな奴に、好きになんてさせない。あいつから、あいつの大事なものを何もかも奪い去ってやる」 ようやく見せた、激しい感情。 けれどその言葉には怒りと憎しみが滲み、まるで呪詛のようだった。 祐樹さんとずっと一緒にいたいと言って泣いていた、弱々しい雫さんを覚えている。 誰よりも大切な兄と、親友を失ったこの人が、こんな短期間でここまで立ち直れたのは、この憎しみが力となっているのだろうか。 憎しみって、力になるんだよ、と言っていたのは、四天だったか。 「………」 「お兄ちゃんは、自由に生きろって言った。だから、私は自由に生きる。好きに、生きる。管理者になるのが、私の選んだ道。お兄ちゃんと約束した。ずっとあの家を大事にしていこうって。だから、私はその言葉を守っていく。そして、お兄ちゃんを奪ったあの家を、あいつを………」 そこで唇を噛みしめ、言葉を切った。 興奮したせいか、日に焼けた頬が赤く染まっている。 たまらず、その手に、そっと触れる。 「三薙」 雫さんが驚いたように瞬きする。 嫌がってはいないようだったので、細くて華奢な手を両手で包み込む。 冷たくなってしまった手を、少しでも暖めたくて。 「俺は、それがいいことか、悪いことか、分からないけど、でも、雫さんの選んだことなら、応援する。でも、あんまり、無理しないで。自分を追い詰めないで、ね。そんなの………」 祐樹さんはきっと望まないから、という言葉は飲み込んだ。 そんなの、俺が言うべき言葉じゃない。 きっと雫さんは分かっている。 分かった上で、覚悟を決めたのだ。 「大丈夫。ありがとう、三薙。私は、大丈夫」 「うん」 雫さんが表情を和らげて、にっこりと笑う。 俺の手を一度振り払うと、今度は雫さんから右手を握ってきた。 「これからよろしくね。私、頑張って強くなるから」 「うん!」 少しだけ温まった右手にほっとしながら、大きく頷いた。 どうか、傷を早く、癒してほしい。 消えることはないだろうけれど、忘れることもできないだろうけど、今は憎しみと悲しみと痛みが勝っているかもしれないけれど。 でも、少しでも優しい未来が、雫さんにありますように。 「あ、三薙さん?」 握手を解くと、今度は別の女性の声が後ろから響く。 こっちはよく知った、幼い頃から聞きなれた声。 「栞ちゃん?」 ぱたぱたと軽く走って長い髪をなびかせながら、幼馴染の女の子が笑顔で近づいてくる。 そして俺の隣にいた雫さんに気付き、慌てて頭を下げた。 「あ、すいません、お話中に。えっと………」 「あ、こちらは管理者の家の石塚雫さん」 管理してる土地の名前を告げると、栞ちゃんは納得したように頭を下げた。 同じ管理者の家が出入りすることは、そうはないが珍しいことでもない。 「ああ、そうでしたか。これは失礼をいたしました。宮守一統の末席を汚しております、金森家の栞と申します。以後お見知りおきを」 「あ、えっと、こ、こちらこそよろしくお願いいたします」 「ありがとうございます」 そつなく挨拶をこなして、丁寧に頭を下げる。 雫さんは慌てたようにしどろもどろと返事をする。 その慌てた様子がなんだか可愛らしかった。 「し、しっかりしてるのね。あ、しっかりしてるですね?」 「雫さん、それ変」 「うるさい!」 ばしっと肩を軽く叩かれた。 軽くなんだろうけど、結構痛い。 雫さんの物慣れない様子を笑うことなく、栞ちゃんは穏やかに首を傾げる。 「いいですよ。普通にしてくれて。私も挨拶ぐらいです」 「よかった。まだ礼儀作法とか出来てないから、ごめんね。よろしく」 「はい!」 砕けた言葉で照れたように笑う雫さんに、栞ちゃんもにっこりと笑った。 雫さんはシャープな印象のボーイッシュな美人だし、栞ちゃんは正統派の黒髪美少女。 ああ、なんだか眼福だ。 「………かわいい子ね。親戚?」 雫さんが栞ちゃんに聞こえないようにひそひそと聞いてくる。 俺も声を顰めて頷く。 「うん、遠縁の子。四天の彼女」 「………うわ、あいつかわいい彼女までいるんだ。ムカつく」 「だろ?」 「あんたは?」 「………聞くなよ」 そんなことを話していると、蚊帳の外にいた栞ちゃんが恐る恐る聞いてくる。 「どうかしたんですか?」 「あ、ううん。栞ちゃんがかわいいなって話」 「どこまでも弟に負けてる兄がかわいそうって話」 「雫さん!」 何の話をしていたのか分かったのか、ああ、と手を叩いて栞ちゃんが笑う。 可憐って言葉がよく似合う、絶滅危惧種の大和撫子。 「大丈夫ですよ、三薙さん優しいですし、かっこいいですもん。すぐに彼女できますよ」 けれど言うことが時々結構地味に傷つく。 優しい、までならいい。 優しい、だったら、まだいい。 それはそれでまた別の意味で哀しい気持ちになりそうだが、問題ない。 「………あ、ごめん、栞ちゃん、そういうフォローは、逆に哀しい」 「ええ!?」 かっこいい、はないだろうし、すぐに彼女が出来る、もないだろう。 あからさまにお世辞100%のことを言われると、切なくて涙がちょちょぎれそうだ。 「まあ、その優しい性格を好きになってくれる子もいるわよ」 「いや、だからそういうフォローは………」 雫さんもぽんぽんと慰めるように肩を叩いてくれる。 だから余計に傷つく。 そう言うと、雫さんはあははっと朗らかに笑った。 今日初めて見た明るい笑い声に、ほっとする。 「それじゃ私、帰るから。またね。来る時はメールするわ」 「今度メシでも一緒に食おう」 「うん」 雫さんは笑って、頷いてくれた。 俺といることで、祐樹さんを思い出して、辛くなるんじゃないだろうか。 でも、こうして笑っていてくれるなら、問題はないのだろうか。 どちらにせよ、雫さんが辛くないなら、いい。 「じゃあ、ばいばい栞ちゃん」 「はい、またお会いしましょう」 最後に栞ちゃんにも手をふって、雫さんは廊下をすたすたと歩いて行ってしまった。 背筋がピンと伸びたその後ろ姿は、研ぎ澄まされた真剣のようで綺麗だ。 「綺麗で元気な人ですね」 「………うん。元気でよかった」 空元気なのかもしれないけれど、全然傷なんて癒えてないのだろうけど、外に出て、修行して、笑うことが出来るなら、よかった。 早く、本当に意味で、元気になってほしい。 「そういえば、三薙さんは謳宮祭のこと聞きました?」 後ろ姿を見守っていたら、隣にいた栞ちゃんが聞いてきた。 「あ、うん、奉納舞、栞ちゃんと五十鈴姉さんとするんだろ?」 「ええ、よろしくお願いしますね」 「なんでそのメンバーで俺なんだろ。女舞じゃないって言っても、俺、男が舞ってるところ見たことないんだけど………」 「あー、この前男性が舞ったのは、20年前ぐらいみたいですしね」 「そうなんだ」 「はい。でも、綺麗な舞ですし、楽しみですね」 「そうだね。今日はその話だったの?」 「はい」 まあ、綺麗な舞っていったら、そうだしな。 余計なことは考えずに、ちゃんと練習しておこう。 本当に男が舞った形跡はあるみたいだし。 「………そういえば、栞ちゃん、今日天に会った?」 「はい、さっき会いましたよ」 「そっか。なんかさ、その、変なところとか、なかった?」 「変なところ?」 俺の言葉に、不思議そうに栞ちゃんが目を瞬かせる。 てことは、栞ちゃんに分かるような変化とかはなかったのか。 あれは、本当になんだったんだろう。 「いや、いいんだ」 しかし、栞ちゃんの顔を見ていると、なんだか罪悪感が沸いてくる。 俺が悪いわけでは全然ないんだけど、この子の彼氏とあんなことをしてしまったのだ。 ていうか多分いっつもあれは間接キスになっちゃうんだろうし。 ああ、駄目だ。 考えるな。 考えるんじゃない。 あれは単なる儀式。 それ以外の意味はない。 「三薙さん?」 「な、なんでもないんだ」 「そうですか?」 素直で純真な女の子は、それで納得してたらしい。 にっこりと可愛らしく笑ってくれた。 「明日は旅行ですっけ。楽しんできてくださいね」 「あ、うん」 そこで、ふと考えついた。 天が優しいのは、栞ちゃんだけだ。 栞ちゃんの前では、あいつもそこそこ人間らしい。 「あ、そうだ!栞ちゃん明日と明後日暇!?」 「はい?」 それなら、この子がいれば、うまく話すことも出来るのではないだろうか。 今の状態で、顔を突き合わせて旅行とか、考えるだけで気が滅入る。 「突然で悪いんだけど、もしよかったら一緒に旅行行かない!?」 俺の言葉に、栞ちゃんは大きな目をパチパチと瞬かせた。 |